第21話『秋、変化する色』
第21話『秋、変化する色』
九月に入っても、駅から学校までの道はまだ暑かった。
校舎へ着く頃には陽華の額にうっすら汗が浮いている。
夏休みが終わって二日目。
昨日は少しだけ浮ついていた教室も、今日はもういつもの空気に戻り始めていた。
机に課題を広げている人もいれば、次の授業の準備をしている人もいる。
陽華が教室へ入ると、遥斗はもう自分の席にいた。
「おはよう」
「おはようございます」
鞄を置いていると、少ししてミオもやって来た。
「おはようございます」
「おはよう。今日も暑いね」
「暑いです」
「九月なのに」
「昨日も言ってませんでした?」
「言ったっけ」
「言ってましたよ」
遥斗が横から口を挟む。
「飯村さんにも同じこと返されてました」
「二日続けて同じ会話してるの?」
「松澤さんが同じこと言うからです」
「私のせいなんだ」
陽華は笑いながら椅子を引いた。
学校で二人とこうして話すのは夏休み前以来なのに、久しぶりという感じがしない。
海へ行って、絵画展へ行って、川で絵を描いて、数日前には花火大会にも行った。
学校が休みだっただけで、二人とは何度も会っていた。
「なんか変な感じするね」
「何がですか」
「学校で三人でいるのは久しぶりなのに、全然久しぶりじゃない」
「休み中も会ってましたからね」
「結構会いました」
ミオが頷く。
「最初に飯村さんが言ったんだよね。学校なくても会えばいいって」
「……言いましたっけ」
「言ったよ」
「覚えてないです」
「そこ忘れる?」
ミオは少し考えたあと、本当に分からないという顔をした。
遥斗が笑い、陽華もつられて笑った。
◇
午前のイラストレーションⅠでは、夏休み課題として進めていた着彩作品を机に広げた。
昨日一度講師に見てもらい、今日は指摘されたところも含めてそれぞれ仕上げていく。
陽華は自分の作品を少し離れたところから見る。
全体を見る癖は前から変わらない。
気になるところを見つけては近づき、また少し離れる。
ただ、今日は色を作る手がいつもより止まらなかった。
机の上のモチーフを見る。
窓から入る光のせいで、影のところにも一色では言えない色が混じって見える。
陽華はパレットの上で二色を混ぜ、少しだけ別の色を足した。
(これかな)
紙へ置いてみる。
思っていたより少し暗い。
もう一度混ぜる。
今度はさっきより近かった。
以前なら、塗る前にもっと長く迷っていた気がする。
どの色なら間違っていないのか考えて、何度も見比べて、それでも決められないことがあった。
今日は違って見えたら変えればいいと思えた。
「松澤」
講師の声に陽華は顔を上げた。
「はい」
「そこ、もう直したのか」
「まだ少し触ろうかなと思ってます」
「そうか」
講師が作品を見る。
陽華も横から同じところを見る。
「前より止まらなくなったな」
「……止まらなく?」
「色置くまでが早くなった」
「そうですか?」
「前は筆持ったままずっと見てたからな」
言われて、陽華は自分の手元を見る。
「自分ではあんまり分からないです」
「まあそんなもんだ」
講師はそれだけ言って、次の机へ移っていった。
陽華はもう一度作品を見る。
(そんなに違うかな)
言われても、まだよく分からない。
たださっき色を置いた時、正しいかどうかはあまり考えていなかった。
見えている色に近づけようとしていただけだった。
「何言われたんですか」
隣から遥斗が聞く。
「前より色置くの早くなったって」
「確かに今日は早いですね」
「榊原さんまで?」
「前は結構長く見てましたから」
「そんな見てた?」
「見てましたよ」
「二人に言われると本当な気がしてきた」
陽華が笑いながら遥斗の方を見る。
その少し向こうで、ミオと目が合った。
ミオは陽華ではなく、陽華と遥斗の辺りを見ていたようにも見えた。
「飯村さん?」
ミオがまばたきをする。
「何ですか」
「いや、こっち見てたから」
「……見てました?」
「見てたよ」
「そうですか」
本人の方が不思議そうだった。
「何かあった?」
「ないです」
「ならいいけど」
ミオは自分の作品へ視線を戻した。
陽華も深く考えず、パレットへ目を落とす。
まだ少しだけ直したいところが残っていた。
◇
昼休みになると、三人は学生ホールへ向かった。
誰かが誘うわけでもなく、一人が立てば残りの二人も自然に立つ。
夏休み前から何度も繰り返してきた流れだった。
空いている席を見つけて三人で座る。
「学校始まると一日長く感じる」
「まだ二日目ですよ」
「二日目だから長いんだよ」
「そのうち慣れます」
「飯村さん冷静だなあ」
陽華がパンの袋を開ける。
遥斗は買ってきた飲み物を机に置いた。
「でも海、もう結構前に感じない?」
「川はこの前ですよね」
「花火なんて数日前です」
「射的、結局誰も取れなかったね」
「あれ難しかったです」
「榊原さん惜しかったじゃん」
「当たっただけですよ」
「私は当たりもしなかった」
「松澤さん、一発目すごいところ撃ってましたよね」
「飯村さんも人のこと言えないでしょ」
「二発目は近かったです」
「急に勝ちに来るじゃん」
ミオが少し笑う。
遥斗も笑った。
学校の昼休みなのに、話していると夏休みの続きみたいだった。
前は学校で会うのが当たり前だった。
今は学校の外で一緒にいた時間も、そのまま三人の間に残っている。
「そういえば明日の授業って何でしたっけ」
遥斗が言う。
「ドローイングじゃなかった?」
「たぶんそうです」
「たぶんって言った」
「後で確認します」
「絶対確認するよね」
「間違えたら嫌なので」
「榊原さんらしいです」
「飯村さんまで」
そんな話をしながら昼休みは過ぎていった。
◇
午後の色彩基礎では、机の上に何枚かの色紙が配られた。
同じ色を違う色の隣に置き、見え方がどう変わるかを比べる。
講師が前で説明したあと、学生たちはそれぞれ色紙を並べ始めた。
陽華も同じ灰色を二枚置き、その周りの色を変えてみる。
「あれ」
思わず声が出た。
同じ灰色のはずなのに、片方の方が明るく見える。
「違って見える」
隣の学生も色紙を入れ替えている。
陽華はもう一度並べ直した。
周りの色を変えると、さっきとはまた違って見えた。
講師が話していた通りだった。
(同じ色なのに)
海で見た青を思い出す。
近くの水と遠くの海では色が違った。
夕方になれば、同じ海でもまた変わった。
川の水も、石や木の影があるところでは全然違って見えた。
雨上がりの水たまりも、一つの色ではなかった。
花火の光が当たった煙や人の顔まで、そのたびに色を変えていた。
あの時はただ見ていただけだったものが、授業の中で少しつながった気がした。
陽華は机の色紙をもう一度入れ替える。
(見る場所で変わるんだ)
同じものでも、ずっと同じように見えるわけではない。
そんな当たり前のことを、最近になってようやく気にするようになったのかもしれない。
◇
授業の終わりが近づくと、講師が翌日の予定を伝えた。
「明日のドローイングⅠはB組と合同な」
何人かが顔を上げる。
「人物クロッキーやるから、大きいデッサン室使うぞ。いつもの教室に来るなよ」
陽華はすぐ遥斗を見る。
「明日場所違うって」
「聞いてましたよ」
「大きいデッサン室だよね」
「そうです」
「明日忘れてたら言って」
「今覚えてくださいよ」
反対側からミオも口を挟む。
「この前も待ち合わせ忘れそうって言われてましたよね」
「ちゃんと五時に行ったじゃん」
「今回は教室です」
「二人とも私のこと信用なさすぎない?」
「一応確認した方がいい人です」
「榊原さん?」
遥斗はすでに予定表を見ていた。
「持ち物もいつも通りで大丈夫そうですね」
「もう確認してる」
「松澤さんもしといた方がいいですよ」
「帰ったら見る」
「それ忘れるやつです」
「飯村さんまで!」
二人が笑う。
陽華も笑いながら画材を片づけた。
◇
校舎を出ると、昼間より風が少しだけ涼しくなっていた。
暑さはまだ残っているのに、夕方の空気は夏休み前とは少し違う。
三人で駅へ向かいながら、陽華は空を見上げた。
まだ青い。
けれど真夏に見ていた空とは、どこか違って見える。
「何見てるんですか」
ミオが隣から顔を上げる。
「空」
「何かあります?」
「何もないけど、ちょっと色変わったなって」
「昨日とですか」
「夏と」
ミオも空を見る。
遥斗もつられるように顔を上げた。
「言われると少し違いますね」
「榊原さんまでそういうこと言うようになったね」
「二人がよく色の話してるからじゃないですか」
「私も?」
「松澤さんも最近してますよ」
ミオに言われて、陽華は少し考えた。
「そうかも」
前より色を見るようになった。
空も、水も、影も。
同じものだと思っていたものが、前より少し違って見える。
「明日、大きいデッサン室だからね」
「それ松澤さんが覚えててください」
「今ちゃんと覚えてるって」
「明日までです」
「信用ないなあ」
三人で笑いながら駅へ向かう。
振り返らなくても、空の色が少しずつ変わっているのが分かる気がした。




