第20話『空に消える色』
第20話『空に消える色』
駅前の銀色の時計は、もう五時を少し回っていた。
ミオが着いた時には、遥斗が時計の下でスマートフォンを見ていた。
近づくと遥斗も顔を上げる。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。飯村さん早いですね」
「五時なので」
「まだ二分くらいですけど」
「遅れるよりいいです」
遥斗が時計を見る。
「松澤さんは」
「まだです」
「やっぱり」
「まだ遅刻してないですよ」
「分かってます」
少しして、駅から出てくる人の間に陽華が見えた。
こちらに気づくと、片手を上げながら歩いてくる。
「ごめん、待った?」
「二分です」
「細かいなあ」
「まだ五時ですけどね」
遥斗が言う。
「じゃあ待ってないじゃん」
「私は先に来てました」
「飯村さん、この前から私が遅れる前提じゃない?」
「忘れそうとは言いました」
「ほぼ同じじゃん」
「違います」
陽華が笑う。
三人が揃うと、そのまま会場の方へ歩き出した。
駅を離れるにつれて、人が少しずつ増えていった。
浴衣を着た人も多い。
子どもが光る玩具を持って走っていて、道の先からは祭りの放送が聞こえてくる。
屋台の匂いも混ざり始めた。
「もう結構いるね」
陽華が前を見る。
「まだ始まるまで時間あるよね?」
「ありますけど、場所は先に見た方がいいかもしれません」
遥斗はスマートフォンで会場の案内を確認している。
「また確認してる」
「混んでから探すの嫌じゃないですか」
「それはそう」
「じゃあ先に見に行きます?」
「その前に屋台」
陽華が即答した。
「早いですね」
「だって来たんだよ?」
「花火を見にですよね」
「祭りも込みで花火大会でしょ」
ミオは二人のやり取りを聞きながら歩いた。
人が多くなると、陽華と遥斗との間が少し開く。
ミオは一歩速く歩いて、その間に戻った。
別に迷うような場所ではない。
それでも二人が見えるところにいる方が楽だった。
屋台が並ぶ通りへ入ると、陽華はすぐ左右を見始めた。
「あ」
立ち止まる。
「かき氷」
ミオも看板を見る。
「本当に食べるんですね」
「食べるって言ったじゃん」
「言ってました」
「何にしようかな」
「まだ着いたばかりですよ」
「榊原さん、食べないの?」
「俺はもうちょっと後でいいです」
「飯村さんは?」
「見てから決めます」
「前もそう言ってたね」
「来る前に決めても、何があるか分からないので」
陽華は少し考えて、いちごのかき氷を買った。
受け取った途端、上から崩れそうになった氷を慌てて口で受け止める。
「冷たっ」
「かき氷なので」
「分かってるよ」
ミオは少し笑った。
三人で屋台を見て回った。
遥斗は焼きそばを買い、ミオはしばらく迷ったあと、小さな袋に入ったベビーカステラを選んだ。
「それにしたんだ」
陽華が覗く。
「食べやすそうだったので」
「一個ちょうだい」
「自分の食べてください」
「かき氷じゃ交換できないじゃん」
「だからです」
その先に射的の屋台があった。
陽華が足を止める。
「やる?」
「松澤さん、好きですね」
「祭りっぽいじゃん」
「私は見てます」
「飯村さんもやろうよ」
「当たる気がしません」
「やってみないと分かんないよ」
結局、三人ともやることになった。
最初に撃った陽華の弾は、景品の少し横を通った。
「あー!」
「結構ずれてましたね」
「榊原さんやってみてよ」
遥斗も構える。
一発目は景品に当たったものの、少し揺れただけだった。
「おしい」
「落ちないですね」
「飯村さん」
「やっぱり見てるだけで良かったんじゃないですか」
ミオも銃を構えた。
狙ったつもりだったけれど、弾は景品よりかなり下に当たった。
「全然違う」
「難しいですね」
「飯村さん、絵の時あんな細かいところ見てるのに」
「関係ないと思います」
「確かに」
誰も取れなかった。
三人で屋台を離れながら、陽華が笑う。
「全員下手だったね」
「松澤さんも含めてですからね」
「分かってるよ」
ミオは残っていたベビーカステラを一つ口に入れた。
甘かった。
こんなふうに三人で出かけることにも、いつの間にか慣れていた。
夏休みに入る前は、こんなに何度も会うとは思っていなかった。
最初に三人でファミレスへ行った。
海へ行くための買い物もした。
海へ行った。
絵画展にも行った。
この前は電車に乗って、川まで絵を描きに行った。
思い返すと、思っていたよりずっと多い。
学校がない間も、三人で会っていた。
以前、自分が言ったことをミオは思い出した。
(学校なくても会えばいいんじゃないですか)
その時は、ただそう思ったから言っただけだった。
特別なことを言ったつもりはなかった。
でも本当にそうなった。
「飯村さん?」
陽華に呼ばれて、ミオは顔を上げた。
「何ですか」
「行くよ」
「あ、はい」
少し先で遥斗が待っている。
ミオは二人のところへ歩いた。
◇
花火を見る場所を決めた頃には、空の色がかなり変わっていた。
まだ真っ暗ではない。
西の方には明るさが残り、その上に青が広がっている。
高いところほど濃く、地面に近いところは少し白く見えた。
三人は並んで座った。
陽華も空を見上げる。
「まだ青いね」
ミオは少しだけ陽華を見る。
「そうですね」
それだけだった。
以前なら、どんな青に見えるか話していたかもしれない。
でも今は陽華も自分で見ている。
遥斗も空を見ていた。
「始まるまであと何分?」
陽華が聞く。
「十分くらいです」
「榊原さん絶対時間見てると思った」
「聞いたの松澤さんですよね」
「そうだけど」
しばらく三人で話していた。
屋台のこと。
射的のこと。
帰りは混みそうだということ。
学校が始まったら最初に何の授業があったかということ。
やがて話が途切れた。
ミオは前を見た。
周りにはたくさん人がいる。
話し声も聞こえる。
それでも三人の間では誰も何かを話そうとしなかった。
海で夕方を待っていた時も、こんな感じだった。
あの頃からなのか、それより前からなのかは分からない。
黙っていても大丈夫になっていた。
ミオは隣に座る陽華を見る。
最初は、自分の絵を見ている人だった。
何度もこちらを見ていて、どうして見るのか分からなかった。
捨てた絵を拾われた。
『私、こっちの方が好きかも』
そう言われた。
それから隣で描いた。
一緒に昼を食べるようになった。
そこにはいつの間にか遥斗もいた。
三人になった時がいつだったか、ミオにもよく分からない。
でも今は、それが普通になっている。
突然、会場の照明が少し落ちた。
周りから声が上がる。
「始まる?」
陽華が空を見る。
少しして、一筋の光が上へ伸びた。
高く上がってから、丸く広がる。
一瞬遅れて、大きな音が響いた。
「わ」
陽華の声が聞こえた。
花火の光が空に広がっている。
赤。
黄色。
白。
すぐに形が崩れ、細い光になって落ちていく。
次の花火が上がる。
今度は青が混じっていた。
ミオは空を見る。
花火そのものだけではない。
煙にも色が映っている。
地面も一瞬明るくなる。
近くにいる人たちの顔まで、花火が変わるたび違う色に見えた。
赤い光のあとには赤く。
青い光のあとには青く。
ずっと同じ色ではない。
次の花火が上がる。
ミオは少し横を向いた。
陽華が空を見上げていた。
花火の光が顔に当たっている。
その向こうに遥斗がいる。
遥斗も花火を見ていると思った。
でも違った。
遥斗は陽華を見ていた。
ほんの少しの間だった。
陽華は気づいていない。
楽しそうに空を見ている。
遥斗はやがて視線を戻した。
また花火が上がる。
ミオも空を見る。
(……榊原さん?)
何だったのかは分からない。
ただ、少しだけ気になった。
花火を見るより陽華を見ていた。
それだけだった。
それなのに、なぜかさっきより二人が少し気になった。
大きな花火が開く。
音が腹の奥まで響いた。
ミオはその光を見ながら、この夏のことを思い出した。
海で三人並んで座った。
陽華と遥斗と、暗くなっていく海を見た。
ファミレスでは何度も同じ席のような場所で話した。
川では三枚の絵を並べた。
同じところに行っても、三人とも違う絵を描いていた。
どれも少し前のことなのに、もう何日も前のことにも感じる。
花火がまた一つ消える。
その次も。
綺麗な形は、ずっと残ってはいなかった。
ミオは隣の二人を見る。
この三人も、ずっと今のままなのだろうか。
そう考えた途端、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
別に何かがあったわけではない。
陽華も遥斗も、さっきまでと同じように隣にいる。
それでも、ずっと同じとは限らない。
そんなことを今まで考えたことがなかった。
変わることが嫌なのかも、まだよく分からない。
ただ。
(もう少し、このままがいい)
そう思った。
学校が始まっても。
夏休みが終わっても。
また三人で昼を食べて。
絵を描いて。
どこかへ行って。
今日みたいに、普通に話していたい。
花火が空いっぱいに広がった。
細かな光がゆっくり落ちていく。
そして消えた。
ミオは少し迷ってから口を開いた。
「松澤さん」
「ん?」
「榊原さんも」
「はい?」
二人がこちらを見る。
「また三人でどこか行きたいです」
陽華が少し目を丸くした。
「また?」
「はい」
ミオは一度空を見る。
次の花火が上がった。
「夏休み終わっても」
陽華は少しだけ笑った。
「行こうよ」
「いいんですか」
「何で聞くの?」
「何となくです」
「また三人で空いてる日探そうよ」
遥斗も頷いた。
「いいですね」
「榊原さん、バイトの予定出たらね」
「また俺待ちですか」
「前もそうだったじゃん」
「出たら言いますよ」
陽華はまた花火を見る。
「じゃあさ」
少しして言った。
「来年も来る?」
「花火ですか」
「うん」
ミオは二人を見る。
「三人でですか」
「三人で」
陽華はすぐに答えた。
遥斗も、
「予定が合えば」
と言う。
ミオは少し考えた。
一年後の予定なんて分からない。
学校もどうなっているのか分からない。
それでも今は、また来られたらいいと思った。
「じゃあ、来たいです」
「決まり」
「一年先ですよ」
「いいじゃん。予定なんだから」
「松澤さん忘れそうです」
「またそれ言う」
「覚えておきますよ」
遥斗が言う。
「ほら」
「榊原さんが覚えてても私が忘れたら意味ないですよ」
「じゃあ飯村さんも覚えてて」
「何で私まで」
「三人で来るんだから三人で覚えとけばいいじゃん」
ミオは少し笑った。
「分かりました」
また花火が上がった。
今度は白い光が大きく広がり、その中へ青や赤が混ざった。
空いっぱいに色が重なる。
ミオはそれを見る。
隣には陽華がいる。
その向こうには遥斗がいる。
三人とも同じ花火を見ている。
それだけで少し安心した。
◇
最後の花火は、それまでよりずっと大きかった。
いくつもの光が続けて上がり、夜空が昼のように明るくなる。
赤。
白。
青。
黄色。
色が重なり、煙まで光っていた。
陽華が何か言ったけれど、大きな音に消えて聞こえなかった。
陽華自身も笑っていたので、聞き返さなかった。
やがて最後の光が細くなった。
空から少しずつ色がなくなる。
音も止まる。
さっきまで何度も明るくなっていた空が、急に暗く見えた。
残っているのは煙だけだった。
周りの人たちが立ち始める。
「終わったね」
陽華が言う。
「終わりましたね」
「帰り絶対混みますよ」
遥斗が立ち上がる。
「榊原さん、余韻とかないの?」
「ありますけど、混むのも本当なので」
「現実的だなあ」
三人で荷物を持った。
ミオは一度だけ空を振り返った。
花火の色はもうなかった。
でも、どんな色だったかは覚えている。
海の色も。
川の色も。
夏の空も。
なくなったわけではない。
「飯村さん、行くよ」
陽華が少し先から呼んだ。
「はい」
ミオは二人のところへ向かった。
帰る人の波に混ざって駅へ歩く。
人が多いので、三人ともいつもより近くを歩いていた。
「夏休みももう終わるね」
陽華が言う。
「もうすぐですね」
「早かったなあ」
「松澤さん、課題終わってます?」
「何で今聞くの?」
「学校始まるので」
「終わってないとは言ってないよ」
「終わってるとも言ってないですよね」
「榊原さんまで何でそっちなの?」
ミオは二人の会話を聞きながら歩く。
春には、こんなふうになるとは思っていなかった。
誰かと一緒に昼を食べることも。
学校がない日に会うことも。
三人で海や川へ行くことも。
花火大会へ来ることも。
そして、それをまた続けたいと思うことも。
ミオは前を歩く二人を見る。
少しだけ歩幅を速めた。
陽華の隣へ並ぶ。
遥斗も反対側を歩いている。
三人で駅へ向かう。
夏休みはもうすぐ終わる。
それでも、また三人で会える。
今はそれでよかった。




