第19話『同じ川』
第19話『同じ川』
花火大会まであと数日になった朝、陽華は駅前で遥斗とミオを待っていた。
今日は三人で少し上流の川まで絵を描きに行くことになっている。
学校の課題ではない。
海へ行った時と同じように、三人で話しているうちに決まった予定だった。
先に来た遥斗と話していると、駅の向こうからミオが歩いてくる。
肩にはいつもより大きな鞄がかかっていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「飯村さん、荷物多いね」
「画材です」
「そんなにあるの?」
「少し多めに持ってきました」
「重くない?」
「重いです」
「そこは重いんだ」
「持ってるので」
遥斗がミオの鞄を見る。
「途中でしんどかったら言ってくださいね」
「大丈夫です」
「じゃあ行こっか」
三人で改札を通った。
乗ったのは、市街地を抜けて山の方へ向かうローカル線だった。
朝ということもあって車内はそれほど混んでいない。
三人は並んで座り、足元に画材を置いた。
電車が動き出すと、陽華は窓の外を見る。
しばらくは見慣れた建物が続いていたけれど、駅をいくつか過ぎるうちに少しずつ景色が変わっていった。
大きな建物が減り、畑や田んぼが増えていく。
「結構行くね」
「あと三駅です」
遥斗はスマートフォンを確認している。
「榊原さん、絶対降りる駅間違えなさそう」
「間違えたくないので」
「また確認してるし」
「乗り過ごしたら戻るの面倒じゃないですか」
「それはそうだけど」
ミオは窓の外を見ていた。
「飯村さん、何見てるの?」
「外です」
「それは分かるよ」
「山が近くなってきたなと思って」
「あ、ほんとだ」
陽華も窓を見る。
遠くに見えていた山が、さっきより少し大きくなっていた。
「今日も暑そうだね」
「暑いです」
「まだ外出てないじゃん」
「駅まで歩いただけで暑かったので」
「川なら少し涼しいんじゃない?」
「そうだといいです」
「でも日向は暑いと思いますよ」
遥斗が言う。
「榊原さんまで現実的なこと言わないでよ」
「日焼け止め持ってきました?」
「持ってきた」
「私もあります」
ミオがすぐ答える。
「飯村さん、そのへんは抜かりないね」
「暑いの嫌なので」
「それは知ってる」
電車がまた一つ駅を過ぎる。
少しして、窓の向こうに川が見えた。
「あ」
陽華は窓へ少し近づいた。
「川じゃない?」
ミオもそちらを見る。
「そうですね」
「今日行くところかな」
「たぶんこの川の上の方ですね」
遥斗が地図を見る。
川はしばらく線路と並ぶように続いていた。
朝の光が水面に当たり、ところどころ白く光っている。
それを見ているうちに、電車は次の駅へ入っていった。
◇
駅を出てから二十分ほど歩いた。
道沿いの家が少なくなり、川の音が近づいてくる。
木々の間を抜けると、視界が開けた。
街中で見る川より幅は狭い。
そのぶん流れが近かった。
大きめの石がいくつも川の中に出ていて、その間を水が流れている。
少し先には小さな橋がかかっていた。
岸には木が並び、ところどころに広い木陰ができている。
「いいじゃん」
陽華は川を見渡した。
「ここなら描けそう」
「日陰ありますね」
ミオはまずそこを見ている。
「最初に見るのそこ?」
「大事です」
「飯村さんにとってはね」
「松澤さんも途中で暑いって言うと思いますよ」
「言わないし」
「たぶん言いますね」
遥斗まで加わる。
「何で二人ともそっちなの?」
笑いながら、三人は川沿いを少し歩いた。
描く場所を探すためだった。
陽華は橋と川が一緒に見える場所で何度か立ち止まる。
遥斗は岸にある大きな岩を見ている。
ミオは歩くたびに川の近くへ寄り、水面を覗いていた。
「飯村さん落ちないでね」
「落ちません」
「海でも靴濡らしてたし」
「あれは波が来たからです」
「川も水あるよ」
「知ってます」
しばらくして、三人は木陰の広い場所に荷物を置いた。
川も橋も対岸の木も見える。
「ここでいい?」
「俺は大丈夫です」
「私も」
それぞれ画材を出し始める。
陽華も自分の道具を並べていると、隣でミオが鞄を開いた。
中からいくつも絵の具が出てくる。
「え、飯村さん」
陽華は手を止めた。
「何ですか」
「もしかして色いっぱい持ってきた?」
「いつもよりは」
「見せて」
ミオが陽華を見る。
「何をですか」
「絵の具」
「いいですけど」
陽華はミオの横へ少し寄った。
並べられた絵の具は、自分が持ってきたものより明らかに多い。
「これ全部使うの?」
「分かりません」
「分からないのに持ってきたの?」
「見てから決めたいので」
ミオは川を見る。
「来る前だと、どんな色があるか分からなかったので」
「ああ」
陽華も川を見る。
駅から歩いてきた時は、ただ水がきれいだと思っていた。
でもこうして描くつもりで見ると、浅いところと深いところだけでも色が違う。
「確かに」
「榊原さんは?」
陽華が振り返ると、遥斗はそれほど多くの絵の具を出していなかった。
「少なっ」
「足りなかったら混ぜます」
「二人、全然違うね」
「松澤さんも俺と同じくらいじゃないですか」
「私は普通」
「普通って何ですか」
「私くらい」
「それを普通って言うんですか」
ミオが絵の具を並べ終える。
「描きません?」
「あ、描こう描こう」
三人はそれぞれ川へ向き直った。
◇
陽華はしばらく何も描かず、目の前の景色を見た。
橋をどこに入れるか。
川をどのくらい広く取るか。
対岸の木をどこまで入れるか。
キャンバスの中へ収めた時の形を頭の中で考える。
位置を決めて、ようやく線を引き始めた。
一方、遥斗はもう大きな形を取っている。
川岸。
大きな岩。
橋。
細かいところは後にして、どんどん置いていく。
ミオはというと、陽華とはまるで違うところから始めていた。
川全体ではない。
すぐ近くの浅瀬だった。
水の下に見える石と、その間を流れる水を見ている。
木の影が落ちるところでは水が暗くなり、そのすぐ横だけ光っていた。
「飯村さん、そこから描くんだ」
ミオは川を見たまま答える。
「ここが気になったので」
「橋とか入れないの?」
「今は入れないです」
「今は?」
「あとで入れたくなったら入れます」
陽華は自分のキャンバスを見る。
自分は最初に全部決めようとしている。
ミオは描きながら決める。
前にもそうだった。
陽華はもう一度橋の方を見て、自分の線を足した。
しばらく描いてから、陽華は手を止める。
橋の位置が少し高い気がした。
消して、もう一度見る。
描き直す。
今度は川が狭く見える。
また少し直す。
「松澤さん」
遥斗の声がした。
「ん?」
「結構消してますよね」
「何か違う気がするんだよね」
陽華は遥斗のキャンバスを見る。
「っていうか榊原さん、もうそこまで描いたの?」
「まだ大体ですけど」
「早いなあ」
「大きいところだけです」
「もう岩が岩じゃん」
「岩なんで」
「そういう意味じゃないよ」
遥斗は少し笑ってまた手を動かした。
陽華も自分の絵へ戻る。
描いては見る。
少し直して、また川を見る。
川そのものは止まってくれない。
水だけがずっと流れていた。
少しして、ミオが手を止めた。
川の上流側を見ている。
一度ではなく、何度かそちらへ目を向けたあと立ち上がった。
「ちょっと向こう行ってきます」
陽華は顔を上げる。
「休憩?」
「違います」
ミオは画材まで持ち上げた。
「場所変えるの?」
「こっちからだと見えないので」
少し先を指す。
大きな岩の向こう側だった。
「どこまで行く?」
「あの木のところくらいです」
「分かった。落ちないでね」
「落ちません」
ミオは画材を持って川沿いを歩いていった。
木陰の向こうへ姿が少し小さくなる。
陽華はそれを見送ってから、また自分の絵へ目を戻した。
隣では遥斗が描いている。
川の音がずっと続いていた。
話さなくても、特に気にならない。
陽華は橋の線を少し直してから、景色を見るために顔を上げた。
その時、遥斗と目が合った。
遥斗は川ではなく、こちらを見ていたらしい。
「何?」
遥斗が少しだけ間を置いた。
「いや」
陽華は待つ。
遥斗は一度自分の絵へ視線を落としてから、また陽華を見る。
「松澤さん、描いてる時すごい集中してるなと思って」
「そりゃ描いてるからね」
「まあ、そうなんですけど」
「榊原さんだって集中してたじゃん」
「俺は普通です」
「じゃあ私も普通」
「それは違う気がします」
「何で?」
遥斗が少し笑う。
「さっきから何回も川見て、描いて、消して、また見てるので」
「気になるんだもん」
「そういうところです」
「どういうところ?」
遥斗は少し考えたあと、首を振った。
「何でもないです」
「何それ」
陽華は笑って、またキャンバスへ向き直った。
遥斗もそれ以上は何も言わなかった。
少しして、また鉛筆の音が聞こえ始める。
川の音に混じって、二人分の小さな音が続いた。
◇
昼を少し過ぎた頃、ミオが戻ってきた。
「おかえり」
「ただいまです」
陽華はミオのキャンバスを見る。
「何か増えてる」
「描いてたので」
「それはそうなんだけど」
三人でいったん手を止め、木陰で飲み物を飲むことにした。
陽華はペットボトルの水を一口飲んで息をつく。
「暑い」
「言いましたね」
ミオがすぐ反応する。
「何が?」
「松澤さんも暑いって言うって」
「これは暑いよ」
「だから言ったんです」
「川ならもっと涼しいと思ってた」
「日陰だからまだましですね」
遥斗が言う。
「榊原さんは暑くないの?」
「暑いですよ」
「じゃあ全員じゃん」
「夏なので」
「それ言ったら終わりだよ」
少し休んでから、陽華は三人の絵を見比べた。
自分の絵には川全体と橋が入っている。
対岸の木もかなり描いている。
遥斗の絵は岩と岸の形が強く、その向こうに橋が見える。
ミオの絵は、同じ場所を描いたとはすぐには分からないくらい範囲が狭かった。
水の中の石。
その上を流れる光。
少し暗くなった水面。
離れた場所へ移ったあとに見つけたらしい色も増えている。
「全然違うね」
遥斗も三枚を見る。
「違いますね」
「ほんとに同じところで描いてた?」
ミオが陽華を見る。
「いましたよ」
「分かってるけど」
「見てるところが違うので」
「飯村さん、川ほとんど全部入ってないじゃん」
「全部描こうとしてないので」
「榊原さんは岩大きいし」
「大きかったので」
「それさっきも聞いた」
遥斗が少し笑う。
「松澤さんは結構全部入ってますね」
「入れたくなったんだよね」
「橋も木も川もあります」
「欲張ったかな」
「別にいいんじゃないですか」
ミオが三枚を順番に見る。
「同じ川なので」
「こんなに違うのに?」
「違っても同じ場所です」
陽華はもう一度三枚を見た。
確かに全部違う。
けれどどれを見ても、さっきからずっと目の前にある川のどこかが入っていた。
「面白いね」
「何がですか」
「同じところ見てたのに、こんな違うんだなって」
「同じところ全部見てるわけじゃないので」
ミオは普通に答える。
「そっか」
陽華は自分の絵へ目を戻した。
橋の位置を直すことばかり考えていたけれど、少しだけ川そのものを見たくなった。
◇
休憩を終えて、もう一度描き始める。
陽華はすぐに鉛筆を持たず、川を見た。
浅いところでは石の形が見える。
そのすぐ横は少し深くなっていて、水の色も濃い。
木の影が落ちているところは暗いのに、流れが少し変わるだけで光が入る。
空を映している場所は明るく、その形も水が動くたびに変わっていく。
前なら川を描く時、川の色を一つ決めていたかもしれない。
でも今は、一つだけ選ぶ方が難しい気がした。
陽華は絵の具を見る。
ミオほどたくさん持ってきたわけではない。
それでも混ぜれば作れる色はいくつもある。
少し考えて、自分で一つ作ってみた。
川を見る。
少し違う。
もう少し足す。
また見る。
(これかな)
正しいかどうかは分からない。
けれど今、自分にはそう見えた。
陽華はその色をキャンバスへ置いた。
流れの一部分だけ。
その隣には少し違う色を作った。
描いている途中で、また川を見る。
水はさっきともう少し違って見えた。
夕方が近づく頃、三人は手を止めた。
陽華の絵も、遥斗の絵も、ミオの絵も完全に完成したわけではない。
それでも今日はここまでにすることになった。
「持って帰って続き描く?」
陽華が聞く。
「俺はたぶん少し直します」
「私はこのままでもいいかもしれません」
ミオは自分の絵を見る。
「完成?」
「分かりません」
「分からないんだ」
「あとで見たら描きたくなるかもしれないので」
三人で絵を並べる。
陽華は少し離れて見た。
「ほんとに同じ川描いたんだよね?」
「場所は同じですね」
「何回確認するんですか」
ミオに言われ、陽華は笑った。
「だって違いすぎるんだもん」
橋まで入った自分の絵。
大きな岩と岸を中心にした遥斗の絵。
水の一部分を切り取ったミオの絵。
どれか一枚だけが正しいようには見えなかった。
三枚とも、今日ここで見た川だった。
「そろそろ片づけますか」
遥斗が言う。
「そうだね」
「電車逃したら次までありますよ」
「何分?」
「結構あります」
「じゃあ急ごう」
陽華たちは慌てて画材を片づけ始めた。
◇
帰りの電車では、三人とも行きより静かだった。
朝より少し空いた車内で並んで座り、画材は足元に置いている。
陽華は背もたれに体を預けた。
「疲れた」
「歩きましたからね」
「描くのも疲れるし」
「松澤さん、ずっと直してましたもんね」
「榊原さんずっと描いてたじゃん」
「俺も疲れてますよ」
ミオは窓の外を見ている。
「飯村さんは?」
「疲れました」
「今日は素直だね」
「いつも素直です」
「そうかなあ」
「そうです」
電車が動き出す。
夕方の川が窓の向こうへ流れていく。
来る時にも見た景色だった。
陽華は窓へ顔を向けた。
「榊原さんの岩、結構大きかったよね」
「大きかったので」
「またそれ」
「本当に大きかったじゃないですか」
「飯村さんなんて川の一部分しか描いてなかったし」
「そこを描きたかったので」
「私だけ全部入れようとしてた気がする」
「松澤さんらしいですね」
遥斗が言う。
陽華は遥斗を見る。
「何それ」
「全体見てから描いてましたし」
「悪い?」
「悪いとは言ってないですよ」
「ならいいけど」
陽華はまた窓の外を見る。
川の中に岩がある。
その横を水が流れている。
少し先には木の影が落ちている。
朝にも見たはずなのに、今は一つずつが目に入った。
遥斗ならあの岩を描くだろうか。
ミオなら、あの水面を見るだろうか。
そこまで考えて、陽華は少しだけ考え直す。
(私はどこ見るんだろ)
窓の外へ流れていく景色を見る。
答えはすぐには出なかった。
でも探してみたい気はした。
陽華が窓の外を見ている間、遥斗は一度だけ隣へ目を向けた。
すぐに何も言わず、自分も窓の方を見る。
夕方の川が少しずつ遠ざかっていく。
三人を乗せた電車は、そのまま街へ向かって走っていった。




