第18話『少し溜まった水の』
第18話『少し溜まった水の』
八月も後半に入ったある日、陽華たちは三人で絵画展を見に行った。
学校の課題というわけではなく、夏休みの間にどこか行こうと話していた中で見つけたものだった。
思っていたより展示は多く、会場を出る頃には三人ともそれなりに歩き疲れていた。
「結構あったね」
「思ってたより広かったです」
「飯村さん、最後の方もずっと近くで見てたよね」
「見たかったので」
「疲れなかった?」
「足は疲れました」
「そこは疲れたんだ」
「歩いてるので」
ミオは当たり前のように答えた。
「何か食べて帰る?」
「俺はいいですよ」
「私も大丈夫です」
向かったのは、以前にも三人で来たファミレスだった。
最初に来たのは夏休みに入る少し前だったけれど、それからも何度か三人で寄っている。
自動ドアが開いて中へ入ったところで、陽華は入口の脇に貼られたポスターに目を止めた。
『8月28日(日) 來玲藍市花火大会』
「あ、これ」
陽華が足を止める。
遥斗とミオも同じ方を見た。
「もうすぐじゃん」
「二十八日ですね」
「日曜日です」
前にここへ来た時にも見たポスターだった。
あの時はまだ先の話で、遥斗のバイトの予定も分からなかった。
「今日、予定決めちゃう?」
「いいですよ」
「俺も大丈夫です」
店員に声をかけられ、三人は席へ案内された。
それぞれメニューを広げて注文を決める。
注文を済ませると、ミオが先に立ち上がった。
「飲み物取ってきます」
「もう慣れたね」
「何がですか」
「ファミレス」
「もう何回来たと思ってるんですか」
「最初はメニュー全部見てたのに」
「初めてだったからです」
「俺も取ってきます」
「じゃあ私も」
三人でドリンクバーへ向かい、それぞれ飲み物を持って席へ戻った。
陽華はグラスを置いて二人を見る。
「で、二十八日どう?」
遥斗はスマートフォンで予定を確認した。
「俺、その日はバイト入ってないです」
「私は何もないよ」
ミオも少し考えてから頷く。
「私も大丈夫です」
「じゃあ三人とも行けるじゃん」
「行きます?」
「行こうよ」
前に見た時は、行けたら行きたいねと言っただけだった。
今度は本当に三人で行ける。
「待ち合わせどうする?」
「会場の近くだと人多そうですよね」
「じゃあ駅前?」
「駅前のどこですか」
ミオに聞かれ、陽華は少し考えた。
「あの銀色の時計あるじゃん」
「ああ、大きいやつですね」
「飯村さんも分かる?」
「分かります」
「じゃあそこで」
遥斗がスマートフォンを持ったまま聞く。
「何時にします?」
「花火の前に屋台も見たいな」
「直前より早めの方がよさそうですね」
「五時くらい?」
「それなら大丈夫だと思います」
ミオも頷いた。
「じゃあ五時ね」
遥斗が画面を操作する。
「八月二十八日、午後五時、駅前の銀色の時計前」
「そこまで入れるの?」
「場所忘れたら困るので」
「時計まで忘れる?」
「忘れないと思いますけど、一応です」
陽華は笑った。
「榊原さんらしい」
「忘れてからじゃ遅いですからね」
「その方がいいと思います」
「飯村さんまで」
料理が運ばれてきてからも、話は花火大会のことへ続いた。
屋台には何があるだろう。
どのくらい混むだろう。
何を食べよう。
「飯村さん、屋台見る?」
「見ますよ」
「何食べる?」
「まだ分かりません」
「たこ焼きとか焼きそばとかあるじゃん」
「あるかもしれませんけど、それを食べたいかは見てから決めます」
「正しいですね」
「榊原さん、そっち側?」
「正しいと思ったので」
「私だけ適当みたいじゃん」
「松澤さんは決めてるんですか」
「かき氷は食べたい」
「まだ暑そうですしね」
その言葉に、陽華はミオを見る。
「飯村さん、花火の日も暑いって言いそう」
「暑かったら言いますよ」
「夜でも?」
「夜でも暑かったら暑いです」
「海の時も最後まで言ってましたよね」
遥斗が言うと、ミオは少しだけ眉を寄せた。
「暑かったので」
「でも一番帰りたがらなかったの飯村さんだったよ」
「帰りたがらなかったわけじゃないです」
「もう少し見たいって言ってたじゃん」
「見たかったので」
「それを帰りたがらなかったって言うんじゃない?」
「違います」
「何が違うの?」
「暑いのは嫌でした」
「そこは別なんですね」
「別です」
真面目な顔で答えるミオを見て、陽華と遥斗は笑った。
◇
店を出ると、昼間より雲が増えていた。
日が沈むにはまだ早いのに、少し空が暗く見える。
「じゃあ私こっちだから」
「俺もそっちです」
「私はあっちです」
ミオは二人とは反対側を指した。
「あ、そっか」
「じゃあまたね」
「はい。また」
「二十八日、五時ですね」
「分かってるって」
「銀色の時計の前です」
「それも分かってる」
「松澤さん、本当に大丈夫ですか」
「何で二人とも私だけ心配するの?」
「榊原さんは予定入れてましたから」
「ちゃんと覚えてるよ」
「じゃあまた」
ミオが小さく手を振った。
「またね」
「また」
そこで三人は二つに分かれた。
駅までは歩いてそれほどかからない。
陽華と遥斗はそのまま並んで歩き始めた。
「飯村さん、本当に花火の日も暑いって言いそう」
「言うでしょうね」
「かき氷食べてる間だけ静かだったりして」
「食べ終わったらまた言いますよ」
「それはありそう」
二人になっても、話していることはさっきまでとほとんど変わらなかった。
少し歩いたところで、陽華は空を見上げる。
さっきより暗い。
「何か、やばくない?」
遥斗も見上げた。
「降りそうですね」
「傘持ってる?」
「持ってないです」
「私も」
駅はもうそれほど遠くない。
「駅まで持つかな」
「持ってほしいですね」
その直後、陽華の腕に冷たいものが当たった。
「あ」
もう一粒が頬に落ちる。
「来ましたね」
「ちょっと待って」
道路に大きな雨粒の跡が一つ、二つと増えていく。
次の瞬間には、その数を追えなくなった。
「うわっ」
「走りましょう」
二人で駅の方へ走り出す。
けれど数歩進んだだけで、髪にも服にも雨が当たり始めた。
「無理無理!」
遥斗が道沿いの建物を指した。
「こっち!」
屋根の張り出した場所まで駆け込み、二人はようやく足を止めた。
その頃には目の前が白く霞むほど雨が降っていた。
「最悪……」
陽華は濡れた髪の毛先をつまむ。
「結構濡れましたね」
「榊原さんもじゃん」
「間に合わなかったです」
「駅もうちょっとなのに」
「この雨で行ったらもっと濡れますよ」
「だよね」
遥斗がスマートフォンを取り出した。
しばらく画面を見てから、少し眉を寄せる。
「しばらく無理そうです」
「えー」
「この辺、まだ雨雲かかってますね」
「タイミング悪すぎ」
陽華は外を見る。
さっきまで乾いていた道路に、もう水が流れ始めている。
車が通るたびに大きく水を跳ね上げていた。
「待つしかないか」
「ですね」
二人はそのまま屋根の下に残った。
◇
最初のうちは話していた。
遥斗の次のバイトのこと。
夏休みの課題のこと。
花火の日は駅もかなり混みそうだということ。
話が途切れそうになると、どちらからともなく別の話が出た。
「飯村さん、海でキャンバス持ってくれば良かったって言ってましたよね」
「言ってたね」
「あれ、本当に描きたかったんでしょうね」
「たぶん」
陽華は帰る直前まで海を見ていたミオを思い出した。
暗くなった海を見たまま、ぽつりと言った言葉だった。
「次行ったら持ってきそう」
「でも荷物増えるって言いそうです」
「言うかな」
「言いません?」
「暑いとは言う」
「それは言いますね」
二人で笑った。
それから少しして、会話がなくなった。
屋根を叩く雨の音だけが続いている。
道路へ落ちる音。
車が水を切って走っていく音。
陽華は何となく隣を見る。
遥斗は普通に外を眺めていた。
スマートフォンを見るでもなく、何か話そうとするでもない。
(何か話した方がいいかな)
一瞬だけそう思った。
二人きりで何も話さず立っているのは、変じゃないだろうか。
何か話題を探した方がいいのかもしれない。
けれど遥斗は別に困っているようには見えなかった。
気まずそうでもなかった。
陽華は外へ視線を戻す。
(……別にいいか)
そのまま黙って雨を見る。
濡れた道路は、降る前よりずっと濃い色になっている。
空は灰色なのに、水たまりまで同じ色には見えなかった。
向かいの建物が映っている。
信号の光も細く伸びている。
雨粒が落ちるたび、映っていたものが丸く崩れてまた戻る。
陽華はその様子をしばらく眺めていた。
昼間の海の青。
夕方に混ざった赤。
暗くなっても残っていた青。
あの時も、最初に思った一つの色だけではなかった。
目の前の水も同じだった。
灰色に見える。
でもよく見ると少し青い。
そこへ建物の色や光が混ざっている。
(飯村さんなら、何色って言うんだろ)
そう思ってから、陽華はもう一度見る。
ミオはここにはいない。
それでもさっきより細かく見える。
(……一色じゃないな)
その時、隣から遥斗の声がした。
「……あの色って、何て名前なんでしょうね」
陽華は遥斗を見る。
(えっ)
遥斗は陽華ではなく、道路の向こうを見ていた。
「どの色?」
「水たまりのところです」
遥斗が少し先を指す。
陽華も見る。
灰色の空を映しているのに、灰色だけには見えない。
少し青くて、建物の明かりが混ざり、雨粒で揺れている。
さっきまで陽華が見ていたところだった。
「……私も今、それ考えてた」
今度は遥斗が陽華を見る。
「同じところ見てました?」
「たぶん」
二人でもう一度水たまりを見る。
「何色なんだろうね」
「分からないですね」
「青って言うには暗いし」
「灰色だけでもないですよね」
「うん」
陽華は少しだけ笑った。
「榊原さんもそういうの見るんだ」
「見ますよ」
「何か意外」
「何でですか」
「何でだろ」
自分でも分からなかった。
遥斗はまた水たまりへ目を向ける。
「飯村さんといるからですかね」
陽華も同じところを見る。
「……かもね」
名前の分からない色が、雨の中で揺れていた。
◇
しばらくすると、屋根を叩いていた音が少しずつ弱くなった。
遥斗が外へ手を出す。
「行けそうですね」
「ほんと?」
陽華も屋根の外を見る。
細かい雨はまだ残っているけれど、さっきまでとは比べものにならない。
「駅までなら行けそう」
「行きますか」
「うん」
二人は屋根の下を出た。
雨上がりの空気は、店を出た時より少しだけ涼しかった。
道路にはまだところどころ水が溜まっている。
「そこ深そうですよ」
遥斗に言われ、陽華は出しかけた足を止めた。
「危な」
「靴まで濡れますよ」
「髪も服も濡れてるのに、靴までいったら完全に負けじゃん」
「何にですか」
「雨に」
「もう結構負けてません?」
「それは言わないで」
陽華は水たまりを避ける。
遥斗もその横を歩いた。
駅まではもうすぐだった。
途中で陽華は、もう一度濡れた道路を見る。
強い雨に叩かれていた水面は、今は静かに空を映している。
灰色。
少し青。
街の明かり。
さっき見た時とも、もう違っていた。
名前は分からない。
でも今は、それでいい気がした。
「松澤さん」
「ん?」
「信号変わりますよ」
「あ、ほんとだ」
陽華は顔を上げた。
遥斗と並んで、駅へ続く横断歩道を渡った。




