第17話『静かな青』
第17話『静かな青』
太陽はさっきより低くなっていた。
昼間は水面のあちこちで跳ねていた光も、少しずつ細く長くなっている。
陽華たちは浜辺を少し歩いたあと、海の見える場所に並んで座った。
歩き回ったせいか、足が少し重い。
さっきまでなら誰かが何かを言っていた気がするのに、今は三人とも黙って海を見ていた。
波の音だけが一定の間隔で届いてくる。
陽華は隣を見る。
遥斗は膝の上に腕を置いて海を眺め、ミオも帽子のつばを少し上げて前を向いている。
誰も話していない。
それでも、何か言わなければとは思わなかった。
三人で同じところを見ているだけで、それでよかった。
しばらくすると、水面の一部が少しずつ違う色になってきた。
さっきまで白っぽく光っていた場所に、今度は薄い橙色が混ざっている。
陽華は目を細める。
「赤くなってきた」
ミオがすぐには答えない。
海を見たまま、少ししてから口を開いた。
「全部じゃないです」
「え?」
「まだ青いところもあります」
陽華はもう一度海を見る。
言われてみれば、海全部が同じように赤くなっているわけではなかった。
太陽の光が伸びているところだけが赤く、その少し横にはまだ青が残っている。
さらに遠くを見ると、そこはまた少し違って見えた。
「ほんとだ」
「光が当たってるところだけ違います」
「さっきまで青ばっかりだったのにね」
「青ばっかりでもなかったです」
「そこは訂正するんだ」
「いっぱいありましたから」
ミオはそう言って、また海を見る。
陽華もつられて視線を戻した。
昼間に見た海とはもう違っていた。
同じ場所にあるはずなのに、太陽の位置が変わっただけで別のものみたいに見える。
遥斗が小さく息を吐く。
「きれいですね」
「うん」
ミオも小さく頷いた。
「きれいです」
それだけ言って、また三人とも黙った。
太陽は少しずつ下がっていく。
橙色だった水面はいつの間にか赤みを増し、波が揺れるたび細かくちぎれていた。
赤いところの隣には青が残り、その境目もずっと同じではない。
波が来るたび混ざって、離れて、また変わる。
陽華は目で追ってみる。
昼間ならきらきらしているとしか思わなかったかもしれない。
今は、どこが赤くて、どこに青が残っているのかが気になった。
「飯村さん」
「はい」
「こういうのも全部違う色に見える?」
「見えます」
「やっぱり」
「でも松澤さんも見てるじゃないですか」
陽華は少しだけ笑う。
「最近ね」
「前は見てなかったんですか」
「見てたと思うけど、こんなに細かくは見てなかったかも」
ミオは少し考えるように海を見る。
「そうなんですね」
「飯村さんといると気になるんだよ」
「私といると?」
「色」
「ああ」
そこだけ妙に納得が早くて、陽華は笑った。
遥斗も横で小さく笑う。
「飯村さんらしいですね」
「何がですか」
「色って言われたら納得するところ」
「だって色の話ですよね」
「そうだけど」
また三人で笑う。
その笑い声も、昼間より少し小さかった。
◇
太陽が海の向こうへ近づくにつれて、周りの人も少しずつ減っていった。
帰っていく人の声が遠くなり、波の音の方がよく聞こえるようになる。
赤かった水面も、少しずつ暗くなってきた。
陽華は海を見たまま息を吐く。
「何か急に静かになった感じするね」
遥斗が周りを見る。
「人減りましたね」
「それもあるのかな」
ミオは海を見たまま言う。
「見えるものも減ったからじゃないですか」
「見えるもの?」
「昼より暗くなってきたので」
「ああ」
確かに、昼間は波の形も、砂の色も、水面の光もよく見えた。
今は遠くの海ほど輪郭が分からなくなっている。
波が崩れる白だけが時々浮かんでは消える。
太陽が沈むにつれて、赤も少しずつ薄くなった。
さっきまであんなに目立っていた色が、今度はどこへ行ったのか分からなくなる。
空の赤みも弱くなり、その下の海には暗い青が広がり始めていた。
「また青くなってきた」
陽華が言う。
「はい」
「でも昼の青と全然違うね」
「違います」
ミオの返事はすぐだった。
「昼より暗いですけど、まだ青です」
陽華はじっと海を見る。
さっきまで赤かったところも、今は深い青に戻っている。
昼間の明るい青とは違って、どこまで続いているのか分からないような色だった。
「何か深く見える」
「暗いからですかね」
遥斗が言う。
「それもありそう」
少しずつ空も暗くなる。
赤はほとんど消え、海はさらに濃くなっていった。
陽華には、もう青というより黒に近く見える。
「もう黒じゃない?」
ミオはすぐには答えなかった。
少し目を細めて海を見る。
陽華も同じ方向を見る。
「まだ青ありますよ」
「どこ?」
「向こうの方」
ミオが遠くを指す。
陽華は目を凝らした。
最初はよく分からない。
ただ暗い海が続いているようにしか見えない。
けれど空に近いところをじっと見ていると、黒の中に少しだけ青が残っているのが分かった。
水面にもわずかに明るさが残っていて、そこだけ色が違っている。
「……あ、ほんとだ」
「ありますよね」
「ある」
陽華は少し嬉しくなった。
誰かに言われたからそう見えるというより、自分でもちゃんと見つけられた気がした。
昼間とは全然違う。
華やかに光っていた海はもうない。
それでも、何もなくなったわけではなかった。
暗くなった中にもまだ色が残っている。
波が動けば、その色も少しずつ形を変える。
陽華はしばらく黙って海を見た。
隣のミオも何も言わない。
遥斗も同じだった。
波の音だけが続いている。
会話がなくても、今はそれでいいと思えた。
しばらくして、遥斗がスマートフォンを見る。
「そろそろ行きますか」
陽華も時間を確認する。
「そうだね」
「はい」
三人はゆっくり立ち上がった。
陽華は足元に置いていた鞄を持ち上げ、中を確認する。
飲み物。
タオル。
空になったお菓子の袋。
忘れ物がないか周りを見ると、遥斗も同じように確認していた。
「榊原さん、やっぱり見るんだ」
「忘れたら取りに戻れないですから」
「さすが」
「松澤さんも見た方がいいですよ」
「今見たよ」
「なら大丈夫です」
陽華は笑う。
ミオも鞄を持った。
三人で歩き出そうとしたところで、ミオだけが少し遅れた。
陽華は振り返る。
ミオは海の方を向いていた。
暗くなった海を、じっと見ている。
昼間に見たきらきらした青。
赤く染まった海。
赤が消えたあとの深い青。
そして今、黒に近づいた海。
同じ場所なのに、ずっと違っていた。
ミオはしばらく何も言わなかった。
やがて、誰に聞かせるでもないくらい小さな声で呟いた。
「……キャンバス、持ってくれば良かった」




