第16話『華やかな青』
第16話『華やかな青』
海へ行く日、陽華は待ち合わせ場所へ向かいながら何度目か鞄の中を確認した。
タオル。
日焼け止め。
着替え。
飲み物。
それから、この前三人で買ったお菓子。
忘れ物はないはずだった。
駅前まで来ると、遥斗はもう改札の近くに立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「早いね」
「松澤さんもですよ」
遥斗の足元には少し大きめの鞄がある。
「何入ってるの?」
「タオルとか飲み物とか、あと袋とか」
「やっぱりちゃんとしてる」
「濡れたもの入れる袋、持ってきました?」
「持ってきたよ」
「なら大丈夫です」
「何で確認されてるんだろ」
そこへ帽子を被ったミオが歩いてきた。
いつもより日差しを避けるものが多い。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます」
陽華はミオを上から下まで見る。
「準備すごいね」
「暑いので」
「やっぱりそこなんだ」
「大事です」
ミオは帽子のつばを少し直した。
「晴れて良かったね」
「海を見るなら良かったです」
「でも暑い?」
「暑いです」
「難しいなあ」
遥斗が笑う。
「とりあえず行きますか」
「うん」
「はい」
三人は改札を抜けた。
◇
電車を降りてから少し歩き、海へ続く道へ入った。
潮の匂いが少しずつ強くなる。
遠くから波の音も聞こえてきた。
「もう近いんじゃない?」
「この先みたいですね」
遥斗がスマートフォンを見る。
「飯村さん、どう?」
「何がですか」
「暑さ」
「暑いです」
「それしか言わないじゃん」
「暑いので」
陽華が笑いながら歩いていると、道の先が急に開けた。
建物の間から、明るい空と海が一緒に見える。
「あ」
陽華は思わず声を漏らした。
そのまま少し早足になる。
「海だ」
遥斗も隣まで来る。
「思ったより近かったですね」
二人で数歩進んだところで、陽華はミオがついてきていないことに気づいた。
振り返ると、少し後ろで立ち止まっている。
帽子の下から、じっと海を見ていた。
「飯村さん?」
ミオはすぐには答えなかった。
陽華もつられてもう一度海を見る。
強い日差しを受けた水面が、細かな光を散らしている。
遠くまで続く青の中に白い光が何本も走り、波が寄せるたび形を変えていた。
「……思ってたのと違う」
ようやくミオが言った。
「違う?」
「はい」
「嫌だった?」
「違います」
ミオは首を横に振った。
また海を見る。
「もっと……いっぱいあります」
「色?」
「……はい」
ミオが陽華を見る。
少し意外そうな顔をしていた。
「何?」
「松澤さん、分かったんですね」
「最近ずっと色の話してるからね」
「そうですけど」
「飯村さんが海見て言う違うって、もうそれかなって」
「そうなんですね」
ミオはもう一度海へ視線を戻した。
その顔が少しだけ嬉しそうに見えた。
「行こっか」
「はい」
三人は浜辺へ向かった。
◇
砂の上へ降りると、海はさっきよりずっと近くなった。
陽華は靴の中に入りそうになる砂を気にしながら歩く。
ミオは海の方を見たまま、ゆっくり進んでいた。
「近くで見るとどう?」
陽華が聞くと、ミオは少し考える。
「全然違います」
「また違う?」
「さっき見えたところとも違います」
「どこが?」
「いっぱいあります」
ミオは海へ顔を向けたまま指を伸ばす。
「あっちは濃いですけど、こっちは底が見えます」
「ほんとだ」
「波が来たところは白くなるし、その手前は砂の色も混ざってます」
「うん」
「光ってるところも、ずっと同じじゃないです」
「動いてるね」
「はい」
水面に太陽の光が跳ねる。
一つが消えたと思えば、少し離れた場所でまた別の光が生まれる。
陽華も目で追ってみるけれど、追いつく前に形が変わってしまう。
「忙しいね」
「何がですか」
「海」
「海が?」
「飯村さんが見てるところ、どんどん変わるから」
「変わってます」
「全部見ようとしたら大変そう」
「大変です」
ミオは真面目に頷いた。
でも嫌そうではなかった。
陽華は少し先まで歩き、水際で止まる。
「飯村さん、こっち来ないの?」
「そこまで行くんですか」
「海来たんだよ?」
「見えますけど」
「遠いって」
遥斗も少し離れたところから手を上げる。
「濡れたらタオルありますよ」
「それ、安心させてるんですか」
「準備した意味ありますし」
「濡れる前提じゃないですか」
ミオはしばらく二人を見ていたが、諦めたように水際までやってきた。
「ここなら大丈夫ですよね」
「多分」
「多分って言いました?」
「波だから分かんないよ」
「戻ります」
「早い早い」
陽華が笑った瞬間、少し大きな波が来た。
足元まで届きそうになり、三人同時に後ろへ下がる。
「危なっ」
「だから言ったじゃないですか」
「まだ濡れてないじゃん」
「次は分かりません」
その次の波は小さかった。
ミオは少しだけ前へ出る。
透明な水が砂の上を薄く広がり、すぐに戻っていく。
「近くだと透明なんですね」
「青くない?」
「青く見えるところもありますけど、ここはほとんど」
「ほんとだ」
陽華も足元を見る。
さっきまで海全体を青いと思っていたのに、近くまで来ると水そのものは透けていた。
「何か変な感じ」
「何がですか」
「遠くは青なのに、ここ透明だから」
「光とか深さとか、色々あるんだと思います」
「やっぱり一色じゃないんだね」
「はい」
ミオが笑った。
その時、また波が寄せてくる。
今度は思ったより速かった。
「わっ」
陽華はすぐ後ろへ逃げた。
遥斗も避ける。
ミオだけ一瞬遅れて、水が靴の先へかかった。
「あ」
三人の視線がミオの足元へ集まる。
「……濡れました」
「海だからね」
「知ってます」
「タオルありますよ」
「まだそこまでじゃないです」
遥斗が笑う。
陽華もつられて笑った。
ミオは濡れた靴先を見たあと、もう一度海を見る。
「もう少し行きます?」
「さっき戻るって言ってなかった?」
「まだ大丈夫です」
「暑いのは?」
「暑いです」
「そこは変わらないんだ」
「変わりません」
三人はそのまま水際を歩いた。
◇
しばらく海辺を歩いたあと、三人は日陰のある場所まで戻った。
座れる場所を見つけ、陽華は鞄から飲み物を出す。
冷たさは少し弱くなっていたけれど、それでも一口飲むとほっとした。
「生き返る」
「大げさですね」
「飯村さんも結構飲んでるじゃん」
「暑いので」
「今日何回聞いたかな」
「何回でも言います」
遥斗も飲み物を置き、鞄を開ける。
「おやつ食べます?」
「食べよう」
陽華も自分の袋を取り出した。
チョコ菓子を出すと、ミオがすぐに見る。
「溶けてません?」
「……あ」
袋の上から触る。
「ちょっと柔らかい」
「夏にチョコ持ってくるからですよ」
「そこまで考えてなかった」
「飯村さんのラムネ正解ですね」
「別にそこまで考えて選んでないです」
ミオが小さな箱を取り出す。
「おやつ三百円以内?」
「まだ言うんですか」
「確認」
「松澤さん自分が超えてましたよね」
「今日は無礼講だから」
「何のルールですか」
遥斗が個包装の菓子を真ん中へ置く。
「これも食べます?」
「もらう」
「私も一ついいですか」
「どうぞ」
三人で菓子をつまみながら、しばらく海を眺める。
さっきまで水際で動き回っていたせいか、黙って座っているだけでも気持ちよかった。
「遠足っぽいね」
「まだ言ってる」
「おやつ食べてるし」
「学校の行事じゃないです」
「でも三人で海来て、お菓子食べてるよ?」
「だから何ですか」
「遠足」
「違います」
「飯村さん、そこ頑固ですね」
「榊原さんまで」
遥斗が笑う。
陽華も笑ってから、海の方を見る。
ミオはラムネを一粒口に入れながら、また水面を見ていた。
「飯村さん」
「はい?」
「海どう?」
「どうって?」
「来てみて」
「……まだ見てます」
「感想それ?」
「見るところ多いので」
「じゃあ嫌じゃなかった?」
「嫌じゃないです」
「暑いけど?」
「暑いです」
「じゃあ帰る?」
「まだいいです」
返事が早かった。
陽華は思わず笑う。
「何ですか」
「いや、海行くって言った時はずっと暑い暑い言ってたから」
「今も暑いです」
「でも帰らないんだ」
「もう少し見たいので」
ミオはそれだけ言って海へ視線を戻した。
陽華も同じ方向を見る。
きらきらした水面。
遠くの濃い青。
近くの薄い水。
白い波。
さっきまでなら全部まとめて海としか思わなかったかもしれない。
今は少しだけ、ミオがどこを見ているのか分かる気がした。
◇
休憩を終えて、三人はもう一度浜辺へ出た。
昼より少しだけ日差しが低くなっている。
暑さはまだ残っているけれど、海から吹く風が気持ちよかった。
ミオはまた水際近くまで歩いていく。
陽華と遥斗も少し後ろからついていった。
「さっきより波来てない?」
「時間で変わるんですかね」
「潮じゃない?」
「榊原さん詳しい?」
「全然です」
「じゃあ何で言ったの」
「それっぽいかなと思って」
「適当だ」
三人で笑う。
しばらく歩いていると、ミオが急に止まった。
「……違う」
陽華も足を止める。
「色?」
ミオがこちらを見る。
「はい」
今度は少しも驚かずに頷いた。
陽華も海を見る。
昼間は白い光があちこちで跳ねていた。
今も水面は光っているけれど、その光の向きも強さも少し違う。
青そのものも、さっきより落ち着いて見える。
「ほんとだ」
「光が変わってきてます」
「同じ海なのにね」
「同じだから変わるんだと思います」
「どういうこと?」
「ずっとここにあるから、時間が変わったら違って見えるというか」
「なるほど」
陽華はもう一度海を見る。
朝からずっと同じ場所にあるはずなのに、一度も同じままではなかった。
波が動くたびに変わって、光が動くたびに変わる。
見れば見るほど、さっき見た海がもうなくなっていく。
隣ではミオが黙って海を見ていた。
「もうちょっといたい?」
陽華が聞く。
「はい」
ミオは迷わず答えた。
太陽は少しずつ低くなっている。
昼の眩しい青は、ゆっくりと別の色へ変わり始めていた。




