第13話『夏、空の青』
第13話『夏、空の青』
七月に入ってから、教室の空気はすっかり変わった。
窓の外は朝から明るく、昼になる頃には日差しも強い。
陽華は頬杖をつきながら、ぼんやり窓の方を見た。
(暑いなあ)
外へ出るのが少し嫌になるくらいだった。
教室の後ろでは、誰かが夏休みまでの日数を数えている。
前の方では旅行の話をしていた。
バイトを増やすとか、実家へ帰るとか、そんな声も聞こえてくる。
少し前まで春だったのに、気づけば夏休みの話ばかりになっていた。
昼休みを知らせるチャイムが鳴る。
陽華が財布を持って立ち上がると、遥斗もほとんど同じタイミングで席を立った。
ミオは先に教室の入口へ向かっている。
「今日も学生ホール?」
「そのつもりです」
「飯村さんは?」
「行きます」
それだけで三人は歩き出した。
誰かが誘わなければ始まらなかった頃のことを、陽華はもうほとんど意識しなくなっていた。
◇
学生ホールの端に空いている席を見つけ、三人で座った。
遥斗が弁当の蓋を開ける。
ミオは小さなパンを二つ並べた。
陽華は冷たいお茶を一口飲んでから、購買で買ったサンドイッチの袋を開ける。
近くの席からも夏休みの話が聞こえてくる。
「海行くんだって」
「いいですね」
「飯村さん海好き?」
「見るのは好きです」
「入らないの?」
「暑いので」
「海って暑い時に行くものじゃない?」
「だからです」
遥斗が笑う。
「飯村さん、夏向いてなさそうですね」
「榊原さんは?」
「俺も暑いの嫌ですよ」
「じゃあ二人ともじゃん」
陽華が笑いながらサンドイッチを食べる。
「そういえば、二人は夏休み何かするの?」
「俺はバイトですね」
「やっぱり」
「休み長いんで、入れられるところは入れようかなって」
「課題もあるよ」
「それが嫌なんですよね」
遥斗が少し顔をしかめる。
「休みなのに課題あるの、何か違いません?」
「学生だからじゃない?」
「正論やめてください」
陽華はミオを見る。
「飯村さんは?」
「特に決めてないです」
「家族でどっか行ったりは?」
「多分ないです」
「そっか」
今度は遥斗が陽華を見る。
「松澤さんは?」
「私も特にないかな」
言ってから、去年の夏を思い出そうとする。
バイトへ行って、帰って、休みの日は家にいた。
たぶんそんな感じだった。
何か大きな予定があった記憶はない。
「今年も家にいるかも」
「松澤さんも夏向いてないじゃないですか」
「私は暑いのは嫌だけど夏は嫌いじゃないよ」
「何が違うんです?」
「雰囲気?」
「ざっくりしてますね」
「いいじゃん別に」
ミオが少し笑う。
「夏の色は好きです」
「色?」
陽華が聞くと、ミオは窓の方を見た。
「空とか」
「空?」
「今日、結構濃いです」
「何が?」
「青が」
「今日の空?」
陽華も窓の外を見る。
雲の少ない空が広がっていた。
「普通に青じゃない?」
「青ですけど、春とは違います」
「季節で変わるの?」
「光が違うので、見える色も変わります」
「へえ」
言われても、陽華にはまだ青い空にしか見えない。
「上の方と、下の方でも違います」
「同じ空なのに?」
「はい」
「私、全部青で見てた」
「青ですけど」
「青じゃん」
「青は一色じゃないです」
言い切るミオを見て、陽華は笑った。
「また始まった」
「何がですか」
「色の話」
「松澤さんが聞いたんじゃないですか」
「そうだけど」
遥斗が窓の外を見る。
「俺も普通に青にしか見えないです」
「ちゃんと見たら違います」
「ちゃんと見ろって言われても」
「上の方見てください」
「はい」
遥斗が素直に顔を上げる。
「それから、もっと下」
「……ああ」
「違いますよね」
「言われたら違う気がします」
「違います」
「そこは絶対なんですね」
ミオが真面目な顔で頷く。
陽華はまた笑った。
色の話になると、やっぱりミオの返事は少し早くなる。
「じゃあ夏休みも空見てるの?」
「多分」
「いつも通りじゃん」
「いつも通りです」
三人で笑う。
その時、近くの席から声が聞こえた。
「休み入ったら全然会わなくなるよな」
陽華は何となくそちらを見る。
何人かで夏休みの話をしているらしい。
すぐに自分たちのテーブルへ視線を戻した。
(あ)
当たり前のことに、その時初めて気づいた。
夏休みになれば授業はない。
毎朝ここへ来ることもない。
昼になれば三人で学生ホールへ向かうこともなくなる。
(毎日は会わないんだ)
別に、それだけだった。
それなのに少し引っかかった。
「そういえばさ」
「はい?」
「夏休みになったら、毎日は会わないんだね」
遥斗が一度瞬きをする。
「まあ、学校ないですからね」
「うん」
「何か今さらですね」
「今気づいた」
遥斗が少し笑う。
「俺も言われるまで考えてなかったですけど」
そう言ってから、遥斗は弁当へ視線を落とした。
「こうやって昼食べることもなくなりますもんね」
「そうなんだよね」
ミオが二人を交互に見る。
「学校なくても会えばいいんじゃないですか」
陽華と遥斗が同時にミオを見る。
「……そっか」
「そうですね」
ミオは少し首を傾げた。
「駄目なんですか」
「いや、駄目じゃないよ」
「俺も駄目とは言ってないです」
「じゃあ会えますよね」
「まあ、会えるね」
あまりにも普通に言われて、陽華は少しおかしくなった。
学校がない。
だから会わない。
勝手にそこまでつなげていたらしい。
「じゃあ休み入ったら、どっか行く?」
「どこです?」
「今決めるの?」
「松澤さんが言ったんじゃないですか」
「言ったけど何も考えてない」
「じゃあ予定分かってからでいいんじゃないですか」
ミオがパンの袋を小さく畳む。
「榊原さん、バイトの予定まだですよね」
「まだです」
「じゃあ出てから」
「そうだね」
陽華が頷く。
「出たら教えて」
「分かりました」
日にちも決めなかった。
行き先も決めなかった。
約束というほどでもない。
それでも夏休みに三人で会う話が普通に出たことが、陽華には少し嬉しかった。
◇
午後の授業が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。
先生が前で夏休み前の予定を説明している。
「来週の金曜が休み前最後の授業だから、提出物忘れるなよ」
遥斗がすぐに手帳を開いた。
陽華は横から覗く。
「ちゃんと書くんだ」
「忘れたら困るんで」
「スマホじゃなくて?」
「スマホにも入れます」
「両方?」
「両方です」
「そこまで?」
「松澤さんも入れといた方がいいですよ」
「私は覚えてるから大丈夫」
「そう言う人が忘れるんですよ」
「嫌なこと言わないで」
少し離れたところでミオも手帳を閉じた。
「私も書きました」
「ほら」
「何で二対一なの」
陽華が笑う。
夏休みまで、あと一週間ほど。
数字にすると急に近く感じた。
◇
校舎を出ると、熱の残った空気が肌にまとわりついた。
「暑っ」
「夕方でもこれですか」
「まだ明るいですね」
ミオが空を見上げる。
陽華もつられて顔を上げた。
昼より少し傾いた光の中に、大きな雲が浮かんでいる。
「さっきの空と違う?」
「違いますね」
ミオがすぐに答えた。
「やっぱり違うんだ」
「光が変わってるので」
「上と下も違う?」
「違います」
陽華は歩きながら空を見る。
昼にミオから聞いたことを思い出しながら、上の方を見る。
それから少し視線を下げる。
言われてみれば、同じ青ではない。
上の方は濃くて、遠くの方は少し白っぽい。
雲の近くも、場所によって見え方が違う。
「ほんとだ」
「何がです?」
「青、一色じゃないね」
ミオが陽華を見る。
少しだけ嬉しそうに見えた。
「そうですよ」
遥斗も空を見上げる。
「俺、まだ普通に青なんですけど」
「ちゃんと見てください」
「またそれですか」
「見れば分かります」
「飯村さん基準厳しくないです?」
「普通です」
「絶対普通じゃないよ」
陽華が笑う。
ミオも笑った。
道沿いの木から蝉の声が聞こえる。
三人はそのまま駅へ向かって歩いた。
夏休みになれば、毎日は会わない。
でも、会わなくなるわけでもない。
まだ日にちも行き先も決まっていない。
それでいい気がした。
陽華はもう一度空を見上げる。
青い。
けれど昼まで自分が見ていた青とは、少し違って見えた。
夏休みまでは、あと少しだった。




