その先の仕事
第124話『その先の仕事』
水曜日の夜、陽華は夕食を終えて自分の部屋へ戻った。
鞄から取り出したファイルには、朝の授業で書いた静物画の説明用紙が挟まっている。
机の上に広げてみると、何度も消した跡がうっすら残っていた。
あれだけ迷って、結局書けたのは数行だけだ。
でも、最初に何も書けなかった時よりはましになったと思う。
陽華は用紙をファイルに戻し、椅子に座ったまま少し考えた。
授業では、卒業後に自分の作品を見てもらう時にも使えると言っていた。
春休みに父と話したことも、ふと頭をよぎる。
あと一年。
その間に何をするかは考えられても、その先のことを聞かれると、まだ言葉が出てこない。
「……ちょっと見てみようかな」
陽華はパソコンを開き、検索欄に「イラスト 仕事」と打ち込んだ。
出てきたページをいくつか開くと、思っていた以上にいろいろな仕事が並んでいた。
本や広告のために絵を描く仕事。
商品の見せ方を考える仕事。
文字や写真も組み合わせて、チラシや案内を作る仕事。
見慣れた言葉もあれば、仕事内容を読まないと何をするのか分からないものもある。
陽華は一つの募集を開き、画面を下へ送った。
「……あ、これも絵を使うんだ」
そこには、店舗で使う案内や広告の制作について書かれていた。
何となく絵を描く仕事だけを探していたけれど、実際には文字を入れたり、写真を選んだりする作業もあるらしい。
今日、遥斗と書店で本の表紙を見たことを思い出す。
自分は絵の方を先に見て、遥斗は文字の位置を気にしていた。
同じ一冊でも、見ているところが違った。
ああいうものを作る仕事もあるのだろう。
別のページでは、イラスト制作の経験が求められていた。
応募条件の欄に「実務経験」の文字を見つけ、陽華の指が止まる。
「実務経験、か……」
大学を辞めてから、働いたことはある。
仕事を覚えるのも、人とやり取りするのも、簡単なことばかりではなかった。
けれど、絵やデザインの仕事を頼まれて作ったことはない。
画面の文字をもう一度読み、そっとページを戻した。
全部の仕事が同じ条件というわけでもないだろう。
そう思って別の募集を見ると、今度は応募時に作品集が必要だと書いてあった。
朝の静物画が入ったファイルへ目を向ける。
あの絵をそのまま見せるかどうかも、まだ決めていない。
もし自分の絵を知らない人に見てもらうなら、何を選ぶんだろう。
そんなことを考えていると、廊下から足音が近づいてきた。
「お姉ちゃん、お風呂空いたよー」
「うん、ありがとう」
「……あれ、何見てるの?」
開けていた扉から妹が顔を覗かせた。
画面を見た途端、目を少し丸くする。
「えっ、仕事探してるの?」
「探してるっていうか、どんな仕事があるのかなって」
「へえ。お姉ちゃんが就活」
「まだ応募するわけじゃないよ」
「分かってるって。ちょっとびっくりしただけ」
妹は遠慮なく机の横まで来ると、画面に並ぶ文字を眺めた。
「これ、絵の仕事なの?」
「うん。チラシとか広告も作るみたい」
「絵だけ描くんじゃないんだね」
「私もそう思った。結構いろいろあるみたい」
「じゃあ、お姉ちゃんはどれやりたいの?」
「……それが分からなくて」
「え、分かんないのに探してるの?」
「分からないから見てるんだよ」
「あ、そっか」
妹はあっさり頷いた。
言ってから自分でも少しおかしくなったのか、口元を緩める。
「でも、これ難しそう。私だったら途中で寝ちゃう」
「もう少し読んでから言おうよ」
「お姉ちゃんは全部読むつもり?」
「全部は無理かな」
「ほらー」
「何でそこで勝ち誇るの」
笑いながら画面へ戻ると、妹が一つの項目を指さした。
「ねえ、これ何?」
「ポートフォリオ?」
「そう。それ」
「自分で描いたものをまとめて、見てもらうための作品集だよ」
「へえ。じゃあ、お姉ちゃんの絵も載せるの?」
「まだどれを入れるか決めてない。今日もその練習みたいなことしてたし」
「ふうん。そういうの、学校でやるんだ」
「うん」
妹はファイルの方をちらりと見た。
「私だったら、前に描いてた窓の外の絵が好きだけどな」
「え、あれ?」
「うん。だって、いつもの家がちょっと違って見えたから」
「そうだったんだ」
「でも仕事の人が好きかどうかは知らないよ」
「……それはそうだね」
陽華が笑うと、妹は肩をすくめた。
好きだと言われたのは嬉しい。
ただ、誰かが好きだと思ってくれる絵と、仕事のために見せる絵が同じなのかは、まだ分からなかった。
「あ、そうだ。お姉ちゃん、お風呂」
「うん、忘れてないよ」
「さっきから画面ばっかり見てたから」
「じゃあ、もう少ししたら入るね」
「先に寝ちゃったら知らないよー」
「何を?」
「おやすみって言うの」
「そこは言ってよ」
妹は笑いながら廊下へ出ていった。
部屋が静かになると、陽華は開いたままの画面へ向き直る。
仕事の説明を読んだだけで、何ができるようになったわけでもない。
けれど、さっきより気になる言葉が増えていた。
「実務経験」と「作品集」。
どちらも今の自分には簡単な言葉ではない。
陽華は気になった募集のページを二つ保存し、机の引き出しからノートを取り出した。
新しいページの上に「仕事」と書いて、少し迷ってからその下へ二行足す。
どんな仕事をしてみたいか。
そのために、今の自分は何を見せられるか。
二行目の後で鉛筆を止める。
まだ答えは書けそうにない。
でも、消してしまうのも違う気がした。
陽華はノートを開いたまま立ち上がり、椅子の背に掛けた上着を取った。
先にお風呂に入って、それからもう少し見てみよう。
画面を閉じる前に、保存した二つのページを確かめる。
今日は、どちらにも応募しない。
ただ、何も知らないままにしておくのは、もう嫌だった。




