第123話『本棚の前で』
第123話『本棚の前で』
水曜日の二限目が終わると、教室のあちこちで鞄を閉じる音がした。
午後は授業がない。
遥斗もノートをしまい、机の横に掛けていた鞄を肩へ掛けた。
近くでは陽華が、ファイルの角を押さえながら荷物をまとめている。
「陽華さん、今日はこのまま帰ります?」
「うん。特に用事もないし。遥斗さんは?」
「ちょっと本屋に寄ろうかと思ってて」
「本屋さん?」
「月曜日の表紙の課題、まだ気になってるんですよ。実物を見たら何か分かるかなって」
「なるほど。あ、私も行っていいですか?」
「もちろんです。じゃあ一緒に行きましょうか」
「やった。久しぶりにゆっくり見られそう」
陽華は嬉しそうにファイルを鞄へ入れた。
遥斗は先に廊下へ出て、彼女が追いつくのを待った。
二人で校門を出る頃には、昼休みの学生たちが何人も通りを歩いていた。
「陽華さんは、本屋だと最初にどこを見ます?」
「ええと、特に決めてないかも。入口に面白そうなのがあったら、そこから見ちゃう」
「分かります。気づいたら目的と違う棚にいたりしますよね」
「そうそう。前に欲しかった本を探しに行ったのに、別の本ばっかり見て帰ったことあるよ」
「肝心の本は?」
「帰ってから思い出した」
「それ、結構ありますね」
「遥斗さんも?」
「あります。今日もそうならないようにしないと」
「今日は何か買うって決めてるの?」
「いえ、見るだけのつもりです」
「じゃあ忘れても大丈夫だね」
陽華が笑うので、遥斗もつられて笑った。
本屋へ行く話をした時には、課題のことしか頭になかった。
けれど、隣で楽しそうに歩く陽華を見ていると、それだけの寄り道でもなくなってきた。
しばらく歩くと、通り沿いの書店が見えてきた。
ガラス越しに新刊の並ぶ台が見える。
「ここ、入ったことあります?」
「何回か。あ、入口のところ、もう新しい本に変わってる」
「陽華さん、よく覚えてますね」
「前に気になった表紙があったから。買わなかったんだけどね」
「どんな表紙だったんですか?」
「それが、色しか覚えてないの。黄色っぽかった」
「題名は?」
「覚えてないです」
「そこが一番探しにくいですね」
「ほんとにね」
二人で笑いながら店に入った。
入口の台には表紙を上に向けた本が重なり、その奥には文庫本の棚が続いている。
遥斗が立ち止まって一冊を見ていると、陽華は隣の本を手に取った。
「これ、ちょっとかわいい」
「どれですか?」
「こっち。絵が端っこにちっちゃくあるやつ」
白い表紙の下の方に、小さな自転車が描かれていた。
周りには余白が広く残されていて、題名は上の方に置かれている。
「確かに。ずいぶんすっきりしてますね」
「うん。でも、この自転車が気になるんだよね。どこに行くんだろうって」
「僕、先に文字の位置を見ちゃいました」
「職業病みたいになってる」
「まだ職業にはなってないですよ」
「あ、そっか。じゃあ課題病?」
「それはありそうです」
陽華は楽しそうに笑ってから、本をそっと元に戻した。
遥斗も自分が見ていた一冊を戻す。
そのまま二人で奥へ進むと、今度は背表紙だけが並んだ棚に行き当たった。
「こうして並んでると、表紙の絵って見えませんね」
「そうだね。タイトルが気になったら出してみる感じかな」
「試しに一冊選んでみます?」
「いいね。じゃあ、せーので気になるのを選ぼう」
「せーの、って言われると迷いますね」
「私はもう決めたよ」
「早いなあ」
遥斗が棚の題名を追っている間に、陽華は一冊を引き出した。
遥斗も少し離れた場所から一冊を選ぶ。
二人が振り返ると、陽華の手には鮮やかな色の表紙、遥斗の手には落ち着いた色合いの表紙があった。
「なんか、全然違うね」
「ですね。陽華さんの、結構目立ちますね」
「題名が面白そうだったの。そっちは?」
「僕はこの短い言葉が気になって」
「へえ。見せて」
遥斗が差し出すと、陽華は表紙を眺めて小さく頷いた。
「私、これも好きかも」
「さっきのと随分違いますよ?」
「気になるものは一個じゃないから」
「それもそうですね」
遥斗は自分で言ってから、妙に納得してしまった。
表紙のことを考え始めると、ついどれが一番いいのか決めたくなる。
けれど、本屋で陽華が気になる本を選ぶ様子には、そんな窮屈さがなかった。
二冊を棚へ戻して歩き出すと、今度は陽華が別の棚の前で足を止めた。
「あ、遥斗さん。これ、好きそう」
「何ですか?」
「これこれ」
陽華が指さした本を棚から抜くと、表紙には建物の間をまっすぐ伸びる道が描かれていた。
「……道ですね」
「うん。道です」
「僕、そんなに道ばっかり描いてます?」
「最近はよく見てる気がする」
「まあ、否定できないですけど」
「ほら、こういう奥へ続く感じ、遥斗さん好きそうだなって」
「確かに好きです。でも、それ言われるとちょっと悔しいですね」
「どうして?」
「簡単に分かってもらえた気がして」
「じゃあ今度は分かりにくい絵を描く?」
「それは困ります」
陽華は声を抑えて笑った。
遥斗も笑いながら表紙を見直した。
道の両側にある建物はそれほど細かくないのに、ずっと奥まで続いているように見える。
もっとよく見ようとして本を少し持ち上げると、陽華が横から覗き込んできた。
「文字もちゃんと読めるね」
「ですね。でも、これと同じにしても僕のラフには合わないかも」
「うん。遥斗さんのは雨上がりの道だもんね」
「そうなんですよね」
「でも、こうして一緒に見てると面白いね。私、いつも文字の大きさなんてあんまり気にしてなかった」
「僕は今日は、そればっかり見てました」
「じゃあ、二人で来てちょうどよかったのかも」
「そうですね」
遥斗は表紙を元の位置へ戻した。
月曜日に並べた二枚のラフは、どちらもまだ決められないままだ。
ここで正解が見つかったわけでもない。
ただ、陽華が自転車の小さな絵を見て何を想像したのか、自分がどこへ先に目を向けたのか。
その違いを話せたことは、思っていた以上に楽しかった。
気づけば二人は、表紙とあまり関係のない棚まで歩いていた。
「陽華さん、ここまで来る予定でした?」
「全然。あ、でもこの本もちょっと気になる」
「またですか?」
「遥斗さんだってさっきから何冊も見てるよ」
「それは、まあ」
「ほら、もう少しだけ見よう?」
「はい。せっかくですし」
結局、二人はもう少し棚を回ってから店を出た。
外へ出ると、午後の日差しが歩道に明るく落ちていた。
「楽しかった。付き合ってくれてありがとう、遥斗さん」
「こちらこそ。僕一人だったら、もっと同じような本ばかり見てたかもしれません」
「そんなことないと思うけどなあ」
「少なくとも、自転車の本は見逃してました」
「あれ、かわいかったよね」
「はい。道の方も、見つけてもらえてよかったです」
「やっぱり道が好きなんだ」
「またそれですか」
二人は顔を見合わせて笑った。
課題の参考になるものを探すつもりで寄った書店だった。
けれど今は、棚の前で陽華と笑ったことの方が、妙にはっきり残っている。
遥斗は鞄の肩紐を直し、隣を歩く陽華の話に耳を傾けた。




