第122話『まだ決めなくても』
第122話『まだ決めなくても』
水曜日の朝、陽華は鞄から大きなファイルを取り出した。
一週間前に家で見つけた、箱と瓶と布の静物画が入っている。
紙の角を曲げないように机へ置き、先週のポートフォリオ・キャリアで使った用紙もノートから抜き出した。
作品名の欄には、仮に書いた「春の静物」という文字がある。
その横に付けた小さな丸は、家で絵を見つけた日に書き足したものだった。
「陽華さん、それ見つかったんですね」
隣から声をかけたのはミオだった。
陽華がファイルを少し開くと、ミオが中の紙を覗き込む。
「うん。思ってた場所より奥に入ってたけど、ちゃんとあったよ」
「よかったです。これが箱と瓶の?」
「そう。布も一緒に描いたやつ」
「見てもいいですか?」
「もちろん。でもちょっと恥ずかしいかも」
ミオは笑って頷き、陽華が広げた紙を眺めた。
瓶の口はわずかに傾いていて、箱の角には消しきれなかった線が重なっている。
家で見た時と同じように、陽華はそこへ真っ先に目が行った。
けれどミオは、布の影のあたりで視線を止めた。
「ここ、何度も線を引いてますね」
「うん。どう折れてるのか、よく分からなかったみたい」
「でも、ここから曲がってるのは分かります」
「本当? 私、家で見た時そこがちょっと好きになったんだ」
「そうなんですね」
ミオがもう一度紙を見たところで、教員が教室へ入ってきた。
陽華は静物画を机の端へ寄せ、ノートを開いた。
授業が始まると、教員は先週の作品一覧を手元に出すよう声をかけた。
教室のあちこちで紙の擦れる音がする。
「前回は、一年間に描いたものを思い出してもらいましたね。今日はその中から一枚選んで、作品を見せる時の説明を考えてみましょう」
黒板には「何を描いたか」と「何を見ていたか」という二つの言葉が並んだ。
「作品名や画材を書くことも大切です。でも、絵を見れば分かることだけでは伝わらないものもあります。描いている時に何を考えたか、どこを見てほしいか、短くてもいいので自分の言葉にしてみてください」
「今日選んだものを、必ず作品集に載せるわけではありません。まずは書いてみる練習です」
陽華は静物画を机の中央へ置き直した。
今の課題に使うなら、家から持ってきた甲斐がある。
ただ、説明と言われても、何を書けばいいのかすぐには浮かばない。
最初の行に「箱と瓶と布を描いた作品」と書いてみる。
読み返すと、目の前の紙をそのまま言葉にしただけだった。
これでは絵を見れば分かる。
少し迷って、その下に「形を正確に描くのが難しかった」と書き足した。
それも本当だ。
瓶は今見ても傾いているし、箱の角だって何度も直した跡がある。
けれど、これではうまく描けなかったところを先に説明しているような気がした。
陽華は鉛筆を置き、紙を少し遠ざける。
布の影は濃すぎるくらいだった。
折り目のところでは線が何本も交わり、どちらへ曲がるのか探しているように見える。
春に描いていた自分は、布をきれいに見せたいと思っていたのだろうか。
それとも、目の前の形を何とか紙に残したかっただけなのだろうか。
はっきりとは覚えていない。
でも、消しては引き直していた時も、布の重なりをじっと見ていたことは覚えていた。
陽華は書いた二行に目を戻した。
二行目の「難しかった」の上で鉛筆が止まる。
そこを消してから、別の言葉を書いてみた。
「……布の折れ目を、確かめながら」
小声で読み上げてみる。
まだ説明にはなっていない。
陽華は続けて「重なった部分の形を、何度も線で追った」と書いた。
書き終えると、今度は静物画の布へ目を戻す。
線がたくさん残っている理由を、少しだけ伝えられた気がした。
「陽華さん、書けました?」
顔を上げると、ミオが自分の用紙を持っていた。
「少しだけ。最初は何を描いたかしか書けなくて」
「私もです。色の名前ばかり並んじゃって」
「ミオちゃんらしいね」
「でも、どうしてその色にしたのかって言われると、結構迷います」
「うん。自分では分かってるつもりでも、言葉にするの難しいね」
ミオは頷き、また自分の用紙へ視線を戻した。
陽華も静物画の横に用紙を置いた。
たった二行ほど書いただけなのに、さっきより紙を眺める時間が長くなっている。
初めて見る人なら、どこに目を向けるのだろう。
瓶の形のずれに気づくかもしれないし、布の線を面白いと思うかもしれない。
それは自分では決められない。
ただ、あの時どこを見ようとしていたのかは、自分の言葉で残しておける。
教員が机の間を回り始めた。
陽華の近くまで来ると、広げた静物画と用紙を交互に見た。
「一年生の頃の作品ですか?」
「はい。春に描いたものです」
「今見て、どうですか?」
「直したいところがいっぱいあります。でも、この布の線は残っててよかったなって」
「なるほど。だったら、そのことも書いておくといいかもしれませんね」
「今見て思ったことも、ですか?」
「ええ。描いた時のことと、今の自分がどう見ているかは、分けて書いてもいいですよ」
教員はそう言って、次の机へ移っていった。
陽華は用紙の下に小さな空きを作る。
当時の自分が考えていたことは、全部は思い出せない。
それでも今、線が残っているのを好きだと思ったことなら書ける。
「今見ると、布の折れ目を探した線が残っているところが好きだ」と書き足した。
先ほどの一行と少し似ている気がして、言葉を一つ削る。
それだけで、読み返した時の引っかかりが減った。
しばらくして、教員が作品集の使い方についても触れた。
卒業後に自分の作品を見てもらう場面や、何を作ってきたか伝える時の助けになるのだという。
陽華は鉛筆を持ったまま、机に並ぶ紙を見た。
春休みに父と将来の話をしたことが、ふと思い浮かぶ。
あと一年で卒業する。
何を仕事にしたいのかと聞かれたら、今もすぐに答えられる気はしない。
それでも、何を描いてきたのかなら、少しずつ話せそうだった。
まだ仕事のことが決まったわけではないし、この静物画を作品集に載せるかどうかも分からない。
だからこそ、今は書けるところから書いてみたい。
授業の終わりが近づき、教員が用紙をしまうよう声をかけた。
陽華は説明を書いた紙をもう一度読み返した。
最初に書いた「箱と瓶と布を描いた作品」の下には、布の折れ目を追った時のことと、今見て好きだと思うところが短く並んでいる。
上手な説明かどうかは、まだ分からない。
けれど、最初の一行だけだった時よりは、誰かに見せてみたい気がした。
「陽華さん、その絵、また持って帰るんですか?」
「うん。まだどれを使うか決めてないしね」
「そうですね。私ももう少し書きたいです」
「私も。家で思い出すことあるかもしれないし」
ミオに答えながら、陽華は静物画をファイルに戻した。
今度は作品の説明を書いた用紙も、一緒に挟んでおく。
続けてノートを閉じ、二限で使うものを鞄から出した。
作品集に入れる一枚も、卒業後の進路も、まだ決まっていない。
それでも、今日書いた数行は消さずに残しておこうと思った。




