第121話『二人の昼休み』
第121話『二人の昼休み』
火曜日の午前の授業が終わると、陽華は机の上に残った消しゴムのかすを集めた。
ドローイングⅡで描いていた紙をスケッチブックに挟み、筆箱を閉じる。
今日は腕や手の向きを何度も描き直したせいか、指先が少し黒くなっていた。
鞄からティッシュを取り出そうとしたところで、横から玲奈が顔を覗かせる。
「陽華さん、袖」
「え、袖?」
「ここ。鉛筆ついてるよ」
指されたところを見ると、上着の袖口に薄い灰色の線がついていた。
いつこすったのか、まったく覚えていない。
「あ、本当だ。全然気づかなかった」
「描くのに夢中だったんじゃない?」
「そんなに夢中だったかなあ」
「途中で自分の手も見てたでしょ」
「見てた。描くより動かしてる方が長かったかも」
玲奈が笑い、陽華もつられて笑った。
ティッシュで軽く拭いてみたものの、跡はすぐには落ちなかった。
帰ってから洗えばいいかと考え、陽華は鞄を肩に掛ける。
「お昼、どうする?」
「私、これから買いに行くところ。陽華さんは?」
「私もまだ。じゃあ一緒に行こうか」
「うん!」
二人で教室を出ると、廊下には同じように昼食へ向かう学生たちがいた。
玲奈は歩きながら、今朝描いた人物の手が思うように描けなかったとこぼす。
陽華も頷いたが、話はすぐに階段の混み具合や、お昼をどこで食べるかという方へ移った。
学生ホールに着くと、空いているテーブルを探す前にそれぞれ昼食を買った。
陽華はおにぎりを二つとお茶、玲奈はパンと小さなスープを選んだ。
窓から少し離れたところに二人分の席が空いていたので、向かい合わせに座る。
「玲奈ちゃん、スープも買ったんだね」
「うん。朝はまだ寒かったから、温かいものが欲しくなって」
「でも今は結構暖かいね」
「そうなの。外に出たら思ったより暑かった」
「春って着るもの迷うよね」
「朝の自分と昼の自分で相談したいくらい」
「それ、どっちが勝つんだろう」
「いつも朝の自分が勝っちゃうんだよね」
陽華が笑うと、玲奈はスープの蓋を少し開けて湯気を逃がした。
熱かったらしく、一口目はまだ飲めないようだった。
陽華もおにぎりの包みを開ける。
食べ始めたところで、通路を歩いていた学生が玲奈に声をかけた。
「玲奈、またね!」
「あ、またね!」
玲奈は片手を上げ、相手が通り過ぎるまで軽く手を振っていた。
陽華にも、前に玲奈と話しているところを見かけた覚えがある。
「去年のB組の子?」
「うん。今は別のクラスなんだけど、ここだと結構会うんだよね」
「そっか。お昼って、みんな集まるもんね」
「そうそう。教室だと会えなくても、廊下とかで会えるし」
玲奈は何でもないことのように答え、ようやくスープを一口飲んだ。
陽華も食事を続ける。
玲奈がスープの紙カップを持ち上げるのを見て、陽華もおにぎりをもう一口食べた。
次に何かを話すまで、二人とも食事に集中していた。
「あ、そうだ。玲奈ちゃん、この前ちょっと聞いてほしいことがあって」
「なになに?」
「土曜日にね、妹と買い物に行ったの」
「へえ。妹さんと?」
「うん。お母さんに頼まれたものを買いに」
「仲いいんだね」
「どうだろう。よくからかわれるよ」
「陽華さんが?」
「そう。結構言い返してるんだけどね」
玲奈が意外そうに目を丸くした。
それがおかしくて、陽華は少し笑ってから話を続ける。
「妹がね、クッキーを二つ持ってきて、どっちがいいと思うって聞くの」
「うんうん」
「私がバターの方って答えたら、結局チョコの方にして」
「えっ、そっち?」
「そう。私に聞いた意味ある? って」
「ふふ、あるよ、きっと」
「そうかなあ」
「聞いてみて、やっぱりチョコだって思ったんじゃない?」
「そういうことなのかな」
「私はそういうのあるよ。人に聞いたあとで、違う方が欲しいって分かるの」
「じゃあ、玲奈ちゃんも妹の味方?」
「クッキーに関してはね」
玲奈は笑いながらパンをちぎった。
陽華はおにぎりを持ったまま、その顔を見る。
「ちなみに、玲奈ちゃんならどっち?」
「私? 今日はチョコかな」
「やっぱり妹の味方だ」
「だって今、チョコの気分なんだもん」
「じゃあ明日は?」
「明日は分かんないよ」
「そんなに変わる?」
「変わるよ。陽華さんだって、今のおにぎりはそれが食べたかったから選んだんでしょ?」
「うん。それはそうだね」
「ほら」
得意そうに言われて、陽華は笑ってしまった。
母から頼まれた食パンを忘れかけたことまで話そうかと思ったが、それはやめておく。
きっと玲奈にも妹と同じように笑われる。
「でもさ、陽華さん」
「なに?」
「妹さん相手だと、結構はっきり言うんだね」
「そうかな?」
「うん。今も話してる時、いつもより楽しそう」
「それは、玲奈ちゃんが聞いてくれるからじゃない?」
「えっ、私?」
「うん。だって、こんな話、学校ですると思わなかったもん」
玲奈は少し驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「こういう話、私好きだよ」
「クッキーの話?」
「それも。学校の外のことって、聞かないと分かんないでしょ」
「そうだね」
「また何かあったら教えてよ」
「じゃあ今度は玲奈ちゃんの話も聞きたいな」
「いいよ。大した話じゃないかもしれないけど」
「私のも大した話じゃなかったよ」
「でも面白かった!」
玲奈がそう言い切るので、陽華は照れくさくなって飲み物へ手を伸ばした。
隣のテーブルでは別の学生たちが笑っていて、少し離れたところから食器の触れ合う音が聞こえる。
玲奈は残りのパンを食べ終えると、包みを小さく畳んだ。
陽華も空になったおにぎりの包みをまとめ、鞄の脇に置いた。
しばらくはどちらからも話さなかったが、沈黙は気にならなかった。
「そろそろ行く?」
「うん。スープも飲み終わったし」
二人は食べ終わった包みと飲み物の容器を手に、席を立った。
陽華がごみを捨てて戻ると、玲奈が手に持った自分の袖口を眺めている。
「あれ、どうしたの?」
「私もついてた。鉛筆の跡」
「ほんとだ。玲奈ちゃんも夢中だったんじゃない?」
「そうかも。陽華さんに言ってる場合じゃなかったね」
「ふふ。おそろいだね」
「こんなおそろい、ちょっと嫌だけど」
二人で笑いながら学生ホールを出る。
廊下に出ると、午後の教室へ向かう学生たちが階段の方へ歩いていた。
玲奈は鞄を肩に掛け直し、陽華の横に並ぶ。
「ねえ、陽華さん。帰ったらちゃんと袖洗おうね」
「玲奈ちゃんもね」
「分かってるって」
言いながら、玲奈はまた袖口を見ている。
陽華はその様子に笑い、隣を歩く速さを少し緩めた。
午後の授業までは、まだ少し時間があった。




