第119話『買い物のついでに』
第119話『買い物のついでに』
土曜日の午後、陽華は台所で母から買い物を頼まれた。
牛乳と豆腐、それから食パン。
母が口にしたものをスマートフォンのメモに入れ、財布を取りに部屋へ戻る。
昨日まで学校へ持っていっていた鞄は机の横に置いたままにして、今日は小さな鞄を肩に掛けた。
玄関で靴を履こうとしたところへ、妹が廊下から顔を出した。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
「買い物だよ。お母さんに頼まれたの」
「近くのスーパー?」
「うん」
「じゃあ私も行く!」
妹はそう言うと、いったん廊下の奥へ引っ込んだ。
陽華が玄関で待っていると、しばらくして自分の鞄を持って戻ってくる。
「何か買いたいものあるの?」
「お菓子」
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「一緒に来るって言うから、何かあるんだろうなって」
「別についてくるだけでもいいでしょ」
「それはそうだけど」
妹は楽しそうに笑い、靴を履き始めた。
陽華はもう一度スマートフォンを開き、三つの買い物を確かめる。
忘れるほど多いわけでもないけれど、家に帰ってから気づくのは嫌だった。
「三つだけなのにメモしたんだ」
「三つでも忘れる時あるから」
「私が覚えといてあげるよ」
「じゃあお願い」
「えっ、ほんとに?」
「言ったのそっちでしょ」
二人で笑いながら外へ出た。
春の日差しは明るかったが、家の陰に入ると風はまだ少し涼しい。
妹は陽華の少し前を歩き、すぐに振り返った。
「ねえ、お菓子二つで迷ってるんだけど」
「もう決めてるんじゃなかったの?」
「何を買うかは決めてるの。どっちにするか迷ってるだけ」
「それ、決めてないってことじゃない?」
「違うよ。候補は決まってる!」
言い切る声があまりに自信たっぷりで、陽華は笑ってしまった。
そんなに迷っているなら両方買えばいいのに、と思ったが、それは言わずにおいた。
自分だって、二つのうちどちらかを選ぼうとして、なかなか決まらない時がある。
店に入ると、入口近くの棚には季節の商品が並んでいた。
妹はその前でも足を緩めたが、今日はそこには欲しいものがないらしい。
「お姉ちゃん、先に買うもの取ってきていいよ」
「一緒に行かないの?」
「お菓子のところ見てるから」
「それ、ただ別行動したいだけじゃない?」
「でも、その方が早いよ」
「まあ、そうか」
妹と別れ、陽華は冷蔵の棚から牛乳を一本取った。
続けて豆腐を買い物かごへ入れる。
まだ二つしか入っていないかごは軽い。
ほかにも必要なものはなかったか、メモを見ようとして手を止めた。
さっき確かめたばかりだった。
三つ目は食パンだ。
陽華はパンの並ぶ棚へ向かおうとしたが、少し先のお菓子売り場に妹の姿を見つけ、そちらへ足を向けた。
「決まった?」
「まだ。ちょうどよかった、お姉ちゃん見て」
妹は棚から二つの箱を取り、陽華の前に並べた。
一つはバタークッキーで、もう一つはチョコクッキーだった。
「どっちがいいと思う?」
「どっちって、食べたい方じゃない?」
「だから迷ってるんだって」
「そう言われてもなあ」
陽華は箱を見比べた。
どちらも食べたことがあるし、どちらも嫌いではない。
でも、今どちらかを選ぶなら。
「私はこっちかな」
バタークッキーの箱を指さす。
「えー、そっち?」
「え、だめ?」
「だめじゃないけど。チョコの方かと思った」
「妹はチョコの方がいいんじゃないの?」
「そうなんだけど、バターの方も食べたいし」
「じゃあ、今日はバターにすれば?」
「うーん……」
妹は二つの箱を交互に見た。
陽華も急かさずに待っていると、妹はようやく片方を棚へ戻した。
残ったのはチョコクッキーだった。
「あれ、そっちにしたんだ」
「うん。やっぱりこっち」
「私に聞いた意味あった?」
「あるよ。お姉ちゃんはバター派だって分かった」
「それを調べてたの?」
「違うけど!」
妹が吹き出し、陽華もつられて笑った。
結局どちらを選ぶのか、本人が納得したならそれでいい。
妹はチョコクッキーの箱を自分の手に持ったまま、陽華のかごを覗き込んだ。
「牛乳と豆腐か。あとは?」
「これで終わり……あっ」
「食パン!」
「そうだった。よく覚えてたね」
「ほら、メモしてても忘れるじゃん」
「まだレジに行ってないから、忘れてないよ」
「今『これで終わり』って言ったでしょ」
「……言ったね」
妹は得意そうに笑い、パン売り場の方を指さした。
陽華はかごを持ち直し、妹と一緒にそちらへ向かう。
頼んでおいてよかったのかもしれない。
そんなことを思ったが、言うとまたからかわれそうなので、食パンを選ぶことに集中した。
会計では、陽華が母に頼まれた三つを買い、妹は自分のお菓子を別に払った。
陽華は牛乳と食パンを一つの袋に入れ、豆腐は別の小さな袋に分けた。
牛乳の入った袋の持ち手を握り直していると、妹が空いた方の手を差し出した。
「豆腐の方、持つよ」
「いいの?」
「軽そうだし」
「うん、軽いよ。ありがとう」
妹は豆腐の入った袋を受け取り、先に出口へ向かった。
陽華は牛乳と食パンの袋を持ってその後を追う。
外はまだ明るかった。
行きより少し風が強くなっていて、妹が髪を押さえる。
陽華が歩く速さを合わせると、妹は手元の袋を軽く持ち上げた。
「ねえ、このお菓子、帰ったら食べてもいいかな」
「自分で買ったんだから、いいんじゃない?」
「お母さんに夕飯前だからだめって言われるかも」
「じゃあ聞いてみたら?」
「お姉ちゃんから聞いてよ」
「何で私から?」
「お姉ちゃんが言ったら、いいよって言いそう」
「そんなことないと思うけど」
妹は少し考え、それからあっさり頷いた。
「じゃあ自分で聞く」
「そうして」
「でも一枚はお姉ちゃんにもあげる」
「え、いいの?」
「チョコの方がおいしいって分かってもらわないと」
「それは食べてから決めるよ」
「厳しいなあ」
そんなことを言い合っているうちに、見慣れた道へ戻ってきた。
妹が先に玄関を開け、陽華も靴を脱ぐ。
台所へ行くと、母が振り向いた。
「おかえり。ありがとう」
「牛乳と豆腐と食パン、買ってきたよ」
「助かったわ」
陽華は牛乳と豆腐を冷蔵庫へ入れ、食パンをいつもの場所に置いた。
妹も買い物袋を置き、お菓子の箱を取り出す。
「お母さん、これ、あとで食べていい?」
「夕飯までまだあるし、少しならいいわよ」
「やった!」
妹が嬉しそうに箱を抱える。
陽華が笑うと、その視線に気づいた妹が箱を見せてきた。
「結局、こっちにした」
「うん、知ってる」
「お姉ちゃんのおすすめと違う方」
「だったら何のために聞いたの?」
「参考にしたんだよ」
「それで逆にしたの?」
「たまたま!」
母が不思議そうに二人を見て、それから笑った。
「ずいぶん楽しそうな買い物だったのね」
「食パン忘れそうになってたんだよ、お姉ちゃん」
「あ、それは言わなくていいのに」
「ちゃんと私が覚えてたから大丈夫!」
妹は胸を張り、チョコクッキーの箱を持って台所を出ていった。
陽華は空になった買い物袋を畳みながら、思わず笑ってしまう。
母にまで、食パンを忘れかけたことを知られてしまった。
少しして、廊下から妹の声がした。
「お姉ちゃん、あとで一枚あげるからね!」
「うん、ありがとう」
陽華が答えると、もう一度足音が遠ざかっていった。
バタークッキーの方も食べたかったけれど、今日のチョコも悪くなさそうだ。
陽華は畳んだ袋を引き出しにしまい、自分の部屋へ戻ることにした。




