第118話『隣からのひと言』
第118話『隣からのひと言』
昼食を終えて制作室に戻ると、玲奈は窓際の机に鞄を置いた。
午前中に使ったスケッチブックの間から、何枚かのラフが覗いている。
人物の横に椅子を置いたもの、背景をほとんど描かなかったもの。
最後まで決められなかった紙を一度揃え、午後の「企画・作品制作」で使うノートを開いた。
昨日は何を作りたいか考えているうちに、描きたい場面ばかり増えてしまった。
今日もすぐに一つには決められそうにない。
「玲奈ちゃん、こっちに消しゴム落ちてたよ」
陽華が机の下を指さした。
見ると、鞄を置いた時に落としたらしい小さな消しゴムが転がっている。
「あ、ほんとだ。ありがと!」
「見つかってよかったね」
拾い上げて筆箱へ戻すと、陽華は自分の机へ戻っていった。
少し離れたところで遥斗がスケッチブックを広げ、ミオは細い線をいくつか引いている。
玲奈も鉛筆を持ち、ノートの空いたところに人物を一人描いてみた。
誰かの方へ片腕を伸ばしている姿。
腕を出すところまではすんなり描けたが、その先で止まった。
何かを受け取るところにしたかったのに、手の形がどうにも決まらない。
掌を大きく開かせると、何かを待っているようにも見える。
指を曲げると、今度は握ろうとしているようにも見えた。
小さく描き直しているうちに、手だけが三つ並んだ。
「ねえ、クリップ一個余ってない?」
隣の机から声がした。
顔を上げると、同じA組の学生が何枚もの紙を片手で押さえていた。
顔は何度も見ているけれど、こうして話すことはあまりなかった。
机の端には小さな紙が何枚も広がっていて、押さえていないとずれてしまいそうだった。
「あるよ。ちょっと待ってね」
玲奈は筆箱から小さなクリップを一つ取り出した。
「これで大丈夫?」
「うん、助かる。ありがと」
「どういたしまして」
相手は紙を揃えてクリップで留め、ほっとしたように手を離した。
そのまま玲奈の机に視線を戻し、描きかけの人物を見つけたらしい。
「あ、これって、何か渡してるところ?」
「えっ?」
玲奈は自分の紙を見下ろした。
「受け取ろうとしてるつもりだったんだけど」
「あ、そっちなんだ。ごめん、渡してるように見えた」
「ううん、いいよ。……ほんとだ、そう見えるかも」
鉛筆を置いて少し離れると、伸ばした指先が相手へ向かっているように見えた。
描いている間は、受け取る手だと思い込んでいたのに。
玲奈は紙を少し回して、もう一度見た。
「手の向きかなあ」
「どうだろう。私もそういうの上手くないから」
「いや、言ってもらわなかったら気づかなかったよ」
そう言うと、隣の学生は少し笑った。
「そっちは何描いてるの?」
玲奈が尋ねると、相手は留めたばかりの紙を一枚見せてくれた。
小さな四角の中に色がいくつも並び、別の紙にはその順番を変えたものが描いてある。
「色を並べてるだけ。これを何に使うかはまだ決まってないんだけど」
「へえ。私、こういうふうに色だけで考えたことあんまりないな」
「私は逆に、人を描くとどうしても同じ感じになるから」
「それ、私も色でやったらそうなるかも」
二人で紙を見比べて笑った。
何を作るか決めていないのは自分だけではないらしい。
相手はクリップで留めた色の紙を机へ戻した。
「邪魔しちゃったね。ありがと、クリップ」
「いいよ。授業終わるまで使ってて」
「じゃあ、借りとくね」
それぞれの机へ向き直ると、また鉛筆の音が聞こえ始めた。
玲奈はさっきの人物の横に、もう一つ小さな人物を描いた。
今度は腕を少し体の方へ引き、掌の向きを変えてみる。
誰かから何かを受け取るなら、手だけでなく肩や体も少しそちらへ向くのかもしれない。
描きながら自分でも手を前に伸ばしてみると、肘の位置が思っていたより内側へ寄った。
「……こっちかな」
小さな声で言って、線を引き直す。
一枚目とは違って見える。
けれど、受け取る相手も、受け取るものもまだ描いていない。
それがあった方が伝わるのか、ないままでも伝えられるのか。
玲奈はしばらく二枚を見比べていた。
「玲奈ちゃん、手を描いてるの?」
通りかかった陽華が声をかけた。
「うん。受け取るところのつもりだったんだけど、渡してるようにも見えるって言われて」
「ああ、そっか。どっちにも見えるね」
「でしょ? 今、向きを変えてみたんだ」
「こっちは少し待ってる感じがするかも」
陽華は二枚を見て、それ以上は言わなかった。
玲奈も頷き、また紙へ目を落とした。
「もうちょっと描いてみようかな」
「うん。私も戻って続きをやってみる」
陽華が自分の机へ戻る。
遥斗は何枚もの小さな紙を並べ直し、ミオはノートの端に何か書き足していた。
同じ教室で同じ時間を過ごしていても、今見ているものはそれぞれ違う。
隣の机では、さっきの学生が色の紙を一枚ずつ入れ替えている。
玲奈は伸ばした手をもう一度描いた。
今度は指の先よりも、腕を伸ばす前の体の向きを先に決めてみた。
四限の終わりが近づく頃、机の上には手を伸ばす人物のラフが何枚も並んでいた。
最初の一枚を改めて見ると、やっぱり何かを渡しているように見える。
それも別に悪い絵ではないと思った。
ただ、今描きたいのは違う動きだ。
玲奈は最初の紙も捨てず、描いた順に揃えた。
「これ、返すね」
隣から差し出されたのは、さっき貸したクリップだった。
「あ、もう大丈夫?」
「うん。ちゃんと揃えられた」
「よかった」
「そっちの絵、どうなった?」
「まだ迷ってる。手の向き、いろいろ描いてみた」
「そっか。お疲れ!」
「お疲れ!」
その学生は紙を鞄にしまい、先に教室を出ていった。
玲奈も返してもらったクリップを筆箱へ入れる。
少し離れたところで、陽華がこちらに手を振った。
「玲奈ちゃん、帰ろうか」
「うん、今行く!」
スケッチブックを閉じ、遥斗とミオの方へ歩く。
いつもの三人と一緒に教室を出るのは、昨日と変わらない。
けれど、途中で隣の机をちらりと振り返った。
また隣の机になったら、あの色の紙の続きを聞いてみたい。
玲奈は鞄を肩に掛け直し、三人に追いついた。




