第117話『曲がる手前』
第117話『曲がる手前』
金曜日の朝、遥斗はスケッチブックを抱えて制作室に入った。
窓側の机にはもう画材が並び、何人かが昨日の課題について話している。
月曜日に使った教室だ。
今朝は、あの時描いたラフをもう一度見てみようと思っていた。
「おはよう、遥斗さん」
声の方を見ると、玲奈が机の向こうから手を振っていた。
「おはようございます」
「ねえ、昨日の卵、ちゃんと買えた?」
「……買いましたよ」
「よかった!」
大げさに安心した顔をされて、遥斗は思わず笑った。
「何でそんなに心配されてるんですか」
「だって、卵買ってから何作るか考えるって言ってたから」
「買うのは忘れませんよ」
「で、何作ったの?」
「結局、普通に焼きました」
「普通って?」
「目玉焼きです」
「なんだ、ちゃんと決まったんだ」
玲奈が満足そうに頷いたところへ、陽華とミオが教室に入ってきた。
二人ともこちらに気づき、近くの机へ鞄を下ろす。
「遥斗さん、おはよう。あ、そうだ。卵、買えた?」
「陽華さんまで……」
「え、もう聞いた?」
「今、聞いたところです!」
玲奈が嬉しそうに答える。
「買えました。昨日、ちゃんと」
「よかった。ちょっと気になってたんだ」
陽華はそう言って笑った。
卵を買っただけのことなのに、昨日の会話が今朝まで続いている。
遥斗は少し照れくさくなり、スケッチブックを机に置いた。
こんな何でもない話を覚えていてくれたことが、何だか嬉しかった。
「ミオさんも、聞きます?」
「もう答えを聞いてしまいました」
「そうですよね」
「でも、よかったです」
ミオまで真面目な顔で頷くので、四人で笑った。
そのうち周りの机でも準備が進み、遥斗たちも道具を出し始めた。
月曜日に続くイラストレーションⅡの授業だった。
前に出した「自分が見せたい場面を一枚の絵にする」という課題について、今日はそれぞれラフを見直しながら制作を進めることになった。
遥斗はスケッチブックを開き、何枚かの紙を並べた。
月曜日には建物の角度や道を眺める位置を変えていたが、どれもまだ決め手がない。
その下から、春休みに描いた小さなスケッチが出てきた。
家の近くで見かけた、低い塀の向こうへ曲がる道だ。
曲がり角というのは不思議だ。
ただ道が曲がっているだけなのに、見えないところがあると気になってしまう。
あの場所を通った時も、塀の向こうがどう続いているのか、しばらく眺めていた。
スケッチには、その時見えた建物の端と、手前の道だけが描いてある。
描き残した部分も多い。
それでも、今並べているラフの中では、その一枚に何度も目が戻った。
遥斗は新しい紙に小さな枠を描き、同じ道を描き始めた。
手前から伸びる道の線を引き、低い塀を置く。
角を曲がった先も少し見せたくなって、奥の建物を描き足してみた。
すると道の続きが分かりやすくなった代わりに、最初に気になった曲がり角が、ただの通り道のように見えた。
「……違うな」
鉛筆を止め、元のスケッチと見比べる。
以前、コンクールの絵でも奥の建物の線をどこまで残すか迷ったことがある。
あの時は、重なった線を整理すると街らしさまで薄くなってしまい、ずいぶん考えた。
あの時は、奥まで続く道を見せたかった。
けれど今気になっているのは、建物が多いか少ないかだけではなさそうだった。
見えなかった角の向こうを描くと、自分があの道が気になった理由まで変わる気がする。
もう一枚、枠を描いた。
今度は塀の端まで引いたところで、いったん手を止める。
道の先を白いままにすると、今度は途中で描くのをやめたように見えた。
遥斗は紙を少し離した。
見えないものを残したいのに、何も描かなければいいわけでもない。
どこで道が曲がるのか、手前の線だけで分かるようにしたい。
塀の上の線を短く引き直し、その向こうに見える建物の角を少しだけ加える。
道が曲がっていることは分かる。
ただ、その先に何があるのかまでは見えない。
遥斗はそこで鉛筆を置き、二枚を並べた。
「遥斗さん、見てもいいですか?」
顔を上げると、陽華がすぐ近くに立っていた。
自分の机から紙を取りに来たところらしい。
「どうぞ。まだ途中ですけど」
「あ、こっちは角の向こうまで見えるね」
「そうなんです。描いてみたら、ちょっと違う気がして」
「違う?」
「道の続きは分かりやすいんですけど、僕が見てたのは、もう少し手前だったのかもしれません」
説明しながら、遥斗は二枚目の塀の端を指した。
陽華は紙へ少し顔を近づける。
「こっちだと、ここで一度止まりたくなるかも」
「止まりたくなる?」
「うん。曲がった先はどうなってるんだろうって」
「……それ、僕も思ってたんです」
言ってから、遥斗は少し驚いた。
自分が描きたかったのは、曲がり角の先の景色ではなく、そこを見た時の感じだったのかもしれない。
でも、そのためにどこまで線が必要なのかは、まだよく分からない。
「ただ、こっちは何もないところが広すぎる気もするんですよね」
「そうだね。もうちょっとだけ、こっちに何かあってもいいのかな」
「少し試してみます」
「うん。見せてくれてありがとう」
陽華が自分の席へ戻ると、遥斗は二枚を重ねず横へ置いた。
言われたとおりに何かを足すのではなく、まず小さな枠の中で線を変えてみる。
塀の長さを少し変えるだけでも、曲がり角までの距離が違って見えた。
道の幅はそのままでも、建物の端が近づくと、奥が狭く感じる。
また元に戻してみる。
さっきの方がよかったようにも思える。
簡単には決まらないが、比べたいところは前よりはっきりしてきた。
少し離れた机では、玲奈が人物の入ったラフを並べていた。
紙の中で椅子の位置を変えながら、人物の手元と背景を見比べている。
ミオは別の紙に小さな構図をいくつも描き、まだ色を置かず、線と線の間を何度も見比べていた。
遥斗が視線を戻すと、自分の机にも似たような大きさの紙が何枚も増えていた。
描いているものは違うけれど、四人ともまだ途中だ。
二限の終わりが近づく頃、教員が作業を区切るよう声をかけた。
遥斗は鉛筆をしまい、描いた順にラフを並べた。
最初に描いた、角の向こうまで見える一枚。
先をほとんど描かなかった一枚。
塀の長さを変えた小さな紙が数枚。
どれも、そのまま一枚の絵にできるとは思えない。
けれど、最初に気に入っていたスケッチとは別に、もう一度見たい紙が増えていた。
「遥斗さん、片づけます?」
陽華が鞄を持って声をかけてきた。
「はい。今しまいます」
「今日はどうだった?」
「ラフが増えました」
「私もだよ。なかなか減らないね」
「本当ですね」
二人で笑うと、先に帰り支度を終えた玲奈が振り向いた。
「お昼、行かない?」
「行こうか。ミオちゃんも?」
「はい。今行きます」
ミオが紙を揃え、遥斗もスケッチブックを閉じた。
何枚かを挟み直す時、曲がり角の手前を描いた小さな一枚が見えた。
その先を全部描いてしまう前に、もう少し手前の線を確かめたい。
遥斗はその紙を取り出しやすい位置へ挟み、三人の後を追った。




