第116話『帰ってからの話』
第116話『帰ってからの話』
昼食を済ませて午後の教室に入ると、陽華は鞄からノートとスケッチブックを取り出した。
午前中はずっとパソコンの画面を見ていたので、机に広げた紙が少し白すぎるように感じる。
隣ではミオが筆箱を開き、何本かの鉛筆を机の端へ並べていた。
「ミオちゃん、午前の紙はしまった?」
「はい。折れないようにファイルに入れました」
「よかった。木の色、あとでまた見たくなりそう」
「私もです。画面の方も残してあるので」
ミオが笑ってノートを開く。
午後の「企画・作品制作」は、何を作りたいか自分で考えていく時間だった。
陽華も思いついたものをいくつか書き出したが、並べてみるとどれもまだぼんやりしている。
それでも、書いた言葉の横に小さな線を足したり、余白へ形を描いたりしているうちに、時間は進んでいった。
遥斗は何度か席で紙を裏返し、玲奈は鉛筆を持ったまま考え込んでいた。
最後まで何か一つに決まったわけではない。
陽華はノートを閉じる前に、気になっている言葉だけ丸で囲んだ。
また開いた時に、そこから考えればいい。
授業が終わると、玲奈が椅子の背にもたれた。
「はあ、今日はいっぱい考えた気がする」
「玲奈ちゃん、最後まで手動いてたよ」
「だって描いてみないと分かんないんだもん」
「それはそうですね」
遥斗は答えながら、机に残っていた消しゴムのかすを集めた。
ミオもノートを鞄に入れ、立ち上がる。
「そうだ」
玲奈が何かを思いついたように顔を上げた。
「みんな、今日帰ったら何する?」
「帰ってから?」
陽華は鞄の口を閉めかけた手を止めた。
「うん。学校の話はいっぱいするけど、そういう話って意外としないなと思って」
「そうかな。いつも何か話してる気がするけど」
「ほら、今日だって絵のことばっかりだったでしょ」
「それは授業だからじゃない?」
「そうなんだけどさあ」
玲奈が笑う。
陽華もつられて笑いながら、机の横に立てた鞄を持った。
「私は、帰ったら机の上を片づけようかな」
「何か広げてるんですか?」
遥斗に聞かれ、陽華は頷く。
「昨日、昔描いた絵を探してたんだ。片づけたつもりなんだけど、まだラフが出てて」
「ほら、もう絵の話!」
「あ、本当だ」
玲奈が指をさすので、陽華は思わず口元を押さえた。
「じゃあ玲奈ちゃんは?」
「私は部屋の片づけ。今度こそ」
「今度こそ?」
ミオが首を傾げる。
「昨日もやろうと思ったんだけど、途中で別のこと始めちゃって」
「それ、分かるかも」
「陽華さんもですか?」
「引き出しを開けたら、何入れてたか気になっちゃうことあるよ」
「そう、それ! 気がつくと違うことしてるの」
話しているうちに、四人は教室を出ていた。
廊下には帰り支度を終えた学生が行き交い、少し先の窓から夕方の光が差し込んでいる。
陽華が歩く速度を緩めると、遥斗も隣で足を合わせた。
「遥斗さんは? 帰ったら何するの?」
「僕は買い物に寄ろうと思ってます」
「何買うんですか?」
ミオが聞くと、遥斗は少し考えてから答えた。
「卵ですね。今朝、ないのに気づいたので」
「卵だけ?」
玲奈が振り向く。
「そのつもりですけど」
「何作るか決まってるの?」
「まだです。帰ってから考えようかと」
「卵買ってから考えるんですね」
ミオの言い方が妙に真面目で、陽華は笑ってしまった。
遥斗も少し困ったように笑う。
「卵があれば、何かにはなるかなと思って」
「それ、意外と大胆じゃない?」
「そうですか?」
「私だったら何作るか決めてから買うなあ」
「でも玲奈ちゃん、部屋の片づけは始めてから考えるんでしょ」
陽華が言うと、玲奈は一瞬黙った。
「……それは別の話」
「別なんだ」
「別!」
四人の笑い声が廊下に重なった。
外へ出ると、まだ日差しは残っていたが、朝より少し風が涼しくなっている。
陽華は鞄を肩に掛け直し、校門の方へ歩いた。
「ミオちゃんは、帰ったら何するの?」
さっきは聞く側に回っていたミオが、少し考える。
「お茶を飲んで、ちょっと休みたいです」
「いいなあ。そういうのが一番いいかも」
「陽華さんも飲みますか?」
「飲むけど、座ったらそのままずっと休んじゃいそう」
「私は、飲み終わるまで何もしないって決めることがあります」
「それ、いいね」
陽華は感心した。
机の前に座ると、何かしなければと思うことがある。
何もしないためにお茶を入れる、というのは少し楽しそうだった。
「でも、たまに忘れちゃうんです」
「何を?」
「お茶を飲むのを。置いたまま、ほかのことをしてて」
「ああ、それは私もやる」
玲奈がすぐに頷いた。
「温かいのを飲むつもりだったのに、気づいたら冷めてるやつ」
「そうです」
「それ、お茶を入れた意味はあるんですか?」
遥斗が言うと、ミオが目を丸くした。
それから、少し笑う。
「ありますよ。入れる時はちゃんと飲むつもりなので」
「そういうものですか」
「そういうものです」
ミオがきっぱり答えたので、玲奈が声を上げて笑った。
陽華も笑いながら、横断歩道の手前で足を止める。
信号は赤だった。
車が一台通り過ぎ、四人の前を風が抜けていく。
「なんか、みんな帰ってからもいろいろあるんだね」
「陽華さん、今の話聞いてそう思いました?」
遥斗が尋ねる。
「だって、いつも学校では描いてるところばっかり見てるから」
「まあね。卵買ってるところまでは見ないもんね」
「玲奈ちゃん、それは誰でもそうじゃない?」
陽華が笑うと、玲奈は楽しそうに肩をすくめた。
「でもさ、次に遥斗さん見たら卵のこと思い出しそう」
「明日には忘れてください」
「無理かも」
「玲奈さん」
遥斗は困った声を出したけれど、口元は笑っていた。
ミオも顔を伏せて小さく笑う。
信号が青に変わり、四人は並んで歩き出した。
少し先で、玲奈が別の道へ曲がるために足を止めた。
「じゃあ私、こっち。明日ね!」
「うん、また明日」
「玲奈さん、気をつけて」
「ミオちゃんも!」
玲奈が手を振って行く。
ミオもその先の角で二人と別れ、陽華は遥斗と少しだけ同じ道を歩いた。
「遥斗さん、卵以外に買うもの思いついた?」
「まだです。お店に行ったら思いつくかもしれません」
「玲奈ちゃんに聞かれたら、ちゃんと報告しないとね」
「それは勘弁してください」
陽華が笑うと、遥斗も笑った。
買い物へ向かう遥斗と別れ、陽華は一人で歩き始める。
さっきまで続いていた声がなくなると、道を行く人の足音がよく聞こえた。
夕飯のことを考えて、家に何があったか思い出そうとする。
その途中で、遥斗が卵を買い忘れたらどうしよう、という考えが浮かんだ。
(……さすがに買うよね)
陽華は小さく笑った。
教室では、互いに描いている絵のことならずいぶん話してきた。
それなのに、家へ帰って何をするかなんて、知らないこともある。
明日、遥斗に卵を買えたか聞いてみようか。
玲奈もきっと聞く気がする。
そんなことを考えながら、陽華は歩く速さを少し上げた。




