第114話『しまってあった一枚』
第114話『しまってあった一枚』
二限の授業が終わると、陽華は机の上のノートを鞄にしまった。
隣ではミオが筆箱の中を確かめていて、少し離れたところからは玲奈の笑い声が聞こえる。
水曜日はこれで授業が終わりだ。
まだ外が明るい時間に帰れるのは、なんだか少し得をした気分になる。
「陽華さん、今日はもう帰ります?」
「うん。家でちょっと探したいものがあって」
「探しものですか?」
「さっき書いた、春の静物の絵。どこにしまったかなって」
「ああ、箱と瓶の」
「そう。ちゃんと残ってると思うんだけど」
ミオは少し考えてから頷いた。
「私も昔の紙、探してみようかな」
「ミオちゃんも?」
「はい。何を描いたか、忘れてるのもありそうなので」
「分かる。書き出してみたら、思ってたよりいっぱいあったもん」
遥斗が鞄を肩にかけ、近づいてきた。
「二人とも、帰りますか?」
「うん。遥斗さんは?」
「僕もそろそろ。帰ったら、昨日の続きを少し見ようと思ってます」
「みんな帰っても絵だね」
「本当ですね」
三人で笑っていると、玲奈も帰り支度を終えて加わった。
廊下へ出るまでに何度か別の学生と挨拶を交わし、校舎を出たところでそれぞれの帰り道へ分かれた。
陽華は鞄の中のノートを思い出す。
一限の授業で「もう一度見たいもの」と書いた、あの静物画。
描いた時のことは覚えているけれど、どんな線を残していたかまでは思い出せない。
家に着いたら、まず作品を入れたファイルを探してみよう。
◇
帰宅した陽華は、鞄を自分の部屋に置いてから、本棚の下の段を覗き込んだ。
一年生の間に使ったスケッチブックが何冊か重なっている。
その横には、授業で描いた大きな紙を折らずにしまうためのファイルが立ててあった。
最初に手に取ったのは、夏頃に使っていたスケッチブックだった。
めくると、外で描いた木の影や、途中まで線を引いた道が出てくる。
「これ、ここに入れてたんだ」
描いた場所は覚えているのに、こんなに小さく描き始めていたことは忘れていた。
次のページには、同じ景色を少し違う位置から描いた線が残っている。
つい見比べてしまい、陽華は慌ててページを閉じた。
今日は静物画を探しているのだ。
大きな紙を収めたファイルを開くと、授業で使った紙が何枚も重なっていた。
何を描こうとしたのか、すぐには分からないラフもある。
端に小さく書いた日付を見て、ようやく思い出すものもあった。
一枚ずつ取り出しては戻しているうちに、床に座り込んだまま随分時間が過ぎていた。
「……あ、これかな」
紙の端から、見覚えのある四角い形が覗いていた。
そっと引き出して広げると、箱と瓶、それから布が描かれていた。
春の実習で使ったモチーフだ。
陽華は紙の上下を確かめ、机の上に置いた。
懐かしいと思うより先に、瓶の形が気になった。
左側の輪郭が少し膨らんでいて、口のところも傾いている。
箱の角には何度も引き直した線が重なり、その近くに消しゴムの跡が残っていた。
布の影は、思っていたよりずっと濃い。
「うわ……ここ、こんなだったっけ」
思わず笑ってしまった。
あの頃は、なるべく正確に描こうとしていた。
箱の大きさを測って、瓶の位置を決めて、違うと思ったら消す。
何度直しても、まだ少しずれている気がした。
先生から、最初から決めすぎるなと言われたことまで思い出す。
その時は、決めないで描く方が難しいと思った。
今でも、線の位置を気にせず描けるわけではない。
ただ、違うと思ったら別の線を試してみることも、前よりは増えた気がする。
陽華は紙を少し離して眺めた。
布の折り目に、細い線が何本も重なっている。
そこも形はおかしい。
けれど、その線を追っていると、布がどう曲がっているのか確かめたかったことが何となく伝わってきた。
何度も消しているのに、そこだけは線が残っている。
「ここ、結構好きかも」
口に出してから、陽華は少しおかしくなった。
自分の絵なのに、今初めて見つけたところみたいだ。
ふと、同じ授業でミオが描いていた紙を思い出した。
ミオは途中まで描いた絵を、一度ゴミ箱へ入れた。
気になって拾ってしまったのは、自分だった。
瓶の輪郭が途中で切れていて、布には消していない線がいくつも残っていた。
それなのに、なぜか目を離せなかった。
(あの時、何であんなに気になったんだろう)
今でも、うまく説明できる気はしない。
ただ、見ていたくなったことは覚えている。
あの時、こっちの方が好きかもと伝えたら、ミオは少し驚いた顔をした。
最後には、その紙を自分の鞄へ入れていた。
今も持っているのだろうか。
さっきミオが昔の紙を探してみようと言ったのを思い出し、陽華は小さく笑った。
机に置いた自分の静物画を、もう一度見る。
ミオの絵とは全然違う。
でも、こちらにも消さずに残った線があった。
当時は気づかなかっただけかもしれない。
廊下から足音がして、開けていた扉の向こうに母が顔を出した。
腕には畳んだ洗濯物を抱えている。
「陽華、これ置いておくね」
「うん、ありがとう」
「あら。ずいぶん広げてるのね」
「学校で、前に描いた絵を整理する授業があって。探してたら、いろいろ出てきちゃった」
「そうだったの。これも学校で描いたの?」
「うん。一年生の春頃のやつ」
母は洗濯物を椅子に置き、机の静物画へ目を向けた。
「箱と瓶と……布かしら」
「そう。今見たら、瓶の形がちょっと変で」
「そうなの?」
「ほら、こっちが膨らんでるでしょう?」
「ああ、言われてみれば」
「描いてる時は、何度も直したつもりだったんだけどね」
陽華が笑うと、母も笑った。
「でも、よく取ってあったわね」
「うん。何となく捨てられなくて」
「これも学校へ持っていくの?」
「まだ分からない。どれを作品集に入れるか、これから考えるところだから」
「そっか。じゃあ、また見られるようにしておかないとね」
「うん。これは残しておくつもり」
母は頷いて、部屋を出ていった。
陽華は洗濯物を脇へ寄せ、机の前に座り直した。
昔の絵を見せるのは、少し恥ずかしかった。
でも、今はまたファイルにしまって終わりにするのが惜しい気もしていた。
今週描いた道のラフをスケッチブックから取り出し、静物画の隣へ置いてみる。
描いているものが違うので、どちらが上手いかは比べにくい。
それでも、今のラフには、迷って引いた線がいくつも残っていた。
最初に考えた形とは別の形を、隣に試したところもある。
昔の絵では、違うと思った線を消してばかりいたのに。
(……まあ、今でも消すけどね)
陽華は苦笑した。
一年前と別人になったわけじゃない。
迷うところは迷うし、描き直したくなるところもたくさんある。
でも、今日見つけた布の線は、消さなくてよかったと思える。
陽華は一限で使った用紙をノートから取り出した。
用紙の「春の静物」の欄を見つけ、その横に小さな丸を付ける。
まだ作品集に入れると決めたわけではない。
ただ、もう一度見てみたかった絵を、ちゃんと見つけられた。
今なら気になるところも、好きだと思えるところもある。
用紙をノートに戻し、静物画をファイルへ収める。
さっきまで入っていた場所より、少し取り出しやすいところに挟んでおいた。
今度また見たくなった時、すぐに見つけられるように。
陽華はファイルを本棚へ戻し、机の上に残した道のラフを眺めた。
その端に描いた線が少し曲がっている。
直そうか迷ってから、今日はそのままにしておくことにした。




