第112話『立ち上がる瞬間』
第112話『立ち上がる瞬間』
火曜日の朝、玲奈はクロッキー帳を抱えてデッサン室に入った。
前の方に丸椅子が一脚置かれている。
周りを見れば、もう鉛筆を削っている学生もいれば、まだ鞄から道具を出している学生もいた。
玲奈は陽華たちを見つけて手を上げた。
「おはよう!」
「玲奈ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
「玲奈さん、おはようございます」
陽華の近くに鞄を置き、玲奈はクロッキー帳を開いた。
昨日は本の表紙に描く人物の顔を見せるかどうかで、ずいぶん迷った。
結局決められなかったけれど、いくつか向きを変えて描いているうちに、また人物を描きたくなっていた。
今日はドローイングⅡだ。
一年生の時にも人物を描く授業は好きだったし、今朝も何をするのか楽しみにしていた。
「前に椅子があるね。今日も人物かな」
「そうかもしれないね。玲奈ちゃん、楽しそう」
「そりゃあね。人を描くの、好きだもん」
玲奈が笑うと、陽華も笑った。
やがて教員が前に立ち、学生たちへ声をかけた。
「今日は人物の姿勢と動きを見ていきます。最初は短い時間で、全身を捉える練習から始めましょう」
教員が一人の学生を前に呼び、立った姿勢を取ってもらう。
片足に少し体重をかけ、肩の高さも左右で違っている。
玲奈はその足元を見てから、紙の上に頭と足先の位置を決めた。
肩から腰へ線を引き、膝の向きを確かめる。
細かなところまで描く前に時間が来たけれど、体がどちらへ傾いているかは残せた。
次は椅子に座った姿勢、その次は立ったまま上体を少しひねった姿勢。
短い時間で次々に変わるので、玲奈も鉛筆を休めていられなかった。
「はい、そこまで。少し見直してみてください」
玲奈は描いた三枚を並べた。
立った姿はそれなりに描けている。
ただ、ひねった姿勢の絵は肩が大きすぎて、首が妙な位置に見えた。
「うわ、首がおかしい」
「どれ?」
陽華が覗き込んでくる。
「この三枚目。体をひねってるつもりなんだけど、顔だけ横に付けたみたい」
「あ、本当だ。でも足の向きは分かるよ」
「そこは気にしてたんだけどねえ」
玲奈は笑って、三枚目の肩に薄い線を足した。
少し直すだけでも形は変わる。
それでも、見た時に感じた姿勢をそのまま描くのは、やっぱり簡単ではなかった。
◇
休憩が終わると、教員は前に置いてあった椅子へ座った。
「今度は、立ち上がる途中を描いてみましょう。まずは鉛筆を置いて、動きを見てください」
教員は背中を起こして座り直し、足を床につけた。
それから少し上体を前へ傾け、腰を椅子から浮かせて立ち上がった。
動きそのものは、いつも見ているものだ。
玲奈も何度となく人が立つところを描いてきたつもりだった。
けれど、こうして見るだけの時間を取ると、思っていたより体のあちこちが動いている。
教員はもう一度座り、同じ動作を繰り返した。
「途中の形を一つ選んで描いてみてください。モデルに無理な姿勢を続けてもらう必要はありません。何度か動いてもらって、見えたところを確かめましょう」
学生たちは近くの相手と二人組になり、使う椅子を用意した。
玲奈は隣にいた女子学生と組むことにした。
「私、先に立つ方やろうか?」
「いいの? じゃあお願い。何回かやってもらうと思う」
「全然いいよ。立ったり座ったりするだけだし」
玲奈は椅子を渡し、相手が座るところを見た。
膝が曲がり、足が床につく。
そこから上半身が前へ動いて、腰が浮き、最後に背中が伸びていく。
最初はどこを描けばいいのか迷い、腰が浮いたあたりの姿勢を選んだ。
もう一度やってもらい、紙に頭と足の位置を取る。
背中を斜めに描き、曲がった膝をつなぐ。
腕も少し前へ出ていた気がする。
だが、描き終えてみると、立ち上がろうとしているようには見えなかった。
ただ腰を曲げて、そこで止まっている人みたいだ。
「……なんか違うなあ」
「どうした?」
「立つ途中のつもりなんだけど、全然立ちそうに見えない」
「ああ、分かる。止まってる絵になるよね」
「そう、それ!」
玲奈は相手に紙を見せて笑った。
背中を少し伸ばしてみたが、今度は椅子から離れたところで中腰になっているように見える。
足の向きを直せば、腰の位置が気になった。
一つ直すたびに、別のところがおかしくなる。
「もう一回、立ってもらってもいい?」
「いいよ。少しゆっくりやるね」
「ありがとう。今度は足も見てみる」
相手がゆっくり立ち上がる。
玲奈は膝より先に、肩が前へ出るところを目で追った。
腰が椅子から離れる頃には、体の重さが足の上に移っているように見える。
手だけで動きを追うと、そこを見落としてしまう。
玲奈は描きかけの紙を見た。
頭の位置はずっと後ろにあり、足だけが体を支えている。
これでは立ち上がれそうにない。
(あ、上だけ描き直しても駄目なんだ)
玲奈は隣に新しい枠を取り、今度は頭と足の位置を先に確かめた。
相手が椅子から腰を浮かせるところを何度か見て、上半身が前へ傾く線を入れる。
背中をなぞるより先に、頭から腰へつながる大きな動きを描いてみた。
まだ脚がぎこちないけれど、さっきより立とうとしている感じがする。
「お、ちょっとよくなったかも」
「見せて」
「これ。さっきのよりは動きそうじゃない?」
「うん。前に体を運んでる感じがする」
「だよね! よかった、少し分かってきた」
二人が交代すると、今度は玲奈が椅子へ座った。
ゆっくり立ち上がってみると、上半身を前へ倒す時にはもう足に力が入っている。
腰が椅子を離れる瞬間、膝と足の裏が思っていたより頼りになった。
普段なら何も考えずにやっている動きだ。
玲奈は立ってから、思わず足元を見た。
「こんなに前に傾いてたんだ」
「うん。もう一回お願いしてもいい?」
「もちろん。何回でもどうぞ」
再び座り、今度は自分の肩がどこへ動くかを意識しながら立ち上がる。
描く側の学生は紙に鉛筆を走らせていた。
何度か交代しているうちに、玲奈のクロッキー帳にも途中の姿勢が増えていった。
横向きの体、少し斜めから見た体、膝が伸び始めた体。
どれもすっきり描けたわけではない。
それでも、最初の一枚とは少し違っていた。
「ねえ、これどうやって描いたの?」
相手が開いていたページを見て、玲奈は思わず聞いた。
そこには人物の輪郭より先に、頭から腰へ斜めに伸びる一本の線が入っていた。
「最初に体の傾きだけ描いたんだ。輪郭から描いたら間に合わなくて」
「なるほど。私、肩とか膝の形から取ろうとしてた」
「そっちの方が細かいところは分かりやすいんだけどね」
「ううん、これ面白い。ちょっと試していい?」
「いいよ。私も錦さんの足の描き方、見てた」
玲奈は笑い、また新しいページを開いた。
相手が立ち上がる前に一本だけ薄い線を引く。
次の動きを見て角度を直し、そこへ足の位置を足していった。
輪郭はまだ途切れている。
けれど、その一本があると、次にどこを見ればいいのか少し分かる気がした。
やがて片づけの声がかかった。
玲奈は描きかけの紙を閉じず、最初の一枚と並べて眺めた。
最初は、どこかに止まってしまったような人だった。
後から描いたものは、少しだけ前に進みそうに見える。
でも、足元をもっと直したい。
その隣の一枚は、背中がまだ途中だ。
「錦さん、お疲れさま。椅子戻してくるね」
「うん、ありがとう。私も片づける」
相手が立ち上がり、椅子を持ち上げようとする。
玲奈はその動きを何となく目で追った。
上半身が前へ傾き、体が足の上へ移っていく。
さっき何度も見たはずなのに、今度はその一瞬がはっきり目に入った。
「あ、今の!」
「え、何?」
「ごめん、ちょっとだけ!」
玲奈は慌ててクロッキー帳を開き、見えた傾きを一本の線にした。
相手はもう立ち上がっていて、今の姿勢には戻っていない。
そのまま思い出せるところまで膝と腰の位置を書き足す。
線は少なく、足先もまだ描けていなかった。
でも、さっき見えた動きが少し残った気がする。
「描けた?」
「うーん、途中まで。でも今の、もう一回描きたいな」
「それ、今日ずっと言ってない?」
「言ってるかも!」
二人で笑いながら、玲奈はクロッキー帳を閉じた。
まだ満足できる一枚はない。
それなのに、帰りに誰かが椅子から立つところを見たら、きっとまた目で追ってしまう。
玲奈は鞄へ帳面をしまい、使った椅子を戻す相手の後を追った。




