第111話『表紙の向こう』
第111話『表紙の向こう』
午後の教室に入ると、陽華は空いている席に鞄を置いた。
学生ホールで昼食を取っていた時はあんなに賑やかだったのに、机の上に道具を並べ始めると、また授業が始まるのだという気持ちになる。
隣ではミオが筆箱から鉛筆を取り出していた。
「陽華さん、午後は何をするんでしょうね」
「玲奈ちゃんも気にしてたね。私もまだ分からないけど」
「画材、たくさん持ってきたので使えるといいです」
「私は午前中に結構使っちゃったから、紙が足りるか心配かも」
陽華が鞄の中を覗くと、後ろから玲奈の声がした。
「陽華さん、紙なら私も予備あるよ」
「ありがとう。足りなくなったらお願いするね」
「うん。私も何するか楽しみ!」
遥斗も近くの机で準備を済ませていた。
まだ話している学生もいたが、教員が入ってくると少しずつ声が収まっていった。
「今日は装丁の演習から始めます」
そう言って配られたのは、一枚のプリントだった。
上の方に大きく『雨上がりの手紙』と書かれている。
その下には、久しぶりに故郷へ戻った主人公が、古い手紙を見つけたことから忘れていた出来事を思い出していくという、短いあらすじが載っていた。
「この架空の小説の表紙を考えてください。全員、同じ本を担当します」
陽華はプリントをもう一度読んだ。
雨上がりの道や、古い家の窓が頭に浮かんでくる。
絵にするなら、いろいろ描けそうだ。
「ただし、絵だけでは表紙になりません。タイトルと著者名も入れてください。著者名はプリントの下にあります」
そこで陽華は、用紙の下に小さく印刷された文字を見つけた。
絵のことばかり考えて、そこまで目が行っていなかった。
教員は何冊かの本を机に並べ、表紙を一つずつ見せていく。
人物が大きく描かれたものもあれば、文字と色だけで目を引くものもあった。
「手に取る人は、最初から中身を知っているとは限りません。どんな本に見えるかも意識してみてください」
陽華は、さっき浮かんだ景色を頭の中で並べ直した。
本の表紙にするなら、そこへ文字も置かなければならない。
午前中の課題とは、考える順番が少し違いそうだった。
◇
教員から渡された縦長の枠を使って、陽華は小さなラフを描き始めた。
雨が上がったばかりの街並み。
建物の間には濡れた道が延び、奥の方に雲の切れ間から光が差している。
路面に残る水たまりにも、少しだけ空を映した。
描き進めるうちに道の先が気になり、奥の建物の輪郭を何度か直した。
朝にも道を描いていたことを思い出して、少し笑ってしまう。
好きなものは、そう簡単には変わらないらしい。
けれど、今は本の表紙を作っている。
陽華は枠の上に、仮のタイトルを書いてみた。
「……あれ」
大きな文字を置くと、せっかく描いた建物と重なってしまう。
かといって小さくすれば、表紙の題名がどこにあるのか分かりにくい。
余白を作ろうとすると、今度は道が途中で切れてしまった。
陽華は紙を横にずらし、少し離れて眺めた。
去年、ポスターに文字を入れる時も似たところで悩んだ気がする。
あの時は案内を読んでもらうことが大事だった。
今度は、文字を見てもらうだけでなく、どんな本なのかも伝えたい。
「難しいなあ……」
隣からミオが顔を上げた。
「文字ですか?」
「うん。景色を先に描いたら、タイトルの場所がなくなっちゃって」
「私も、最初に暗い青を置こうと思ったんですけど、文字を何色にするか考えたら迷ってしまって」
「雨だから青?」
「はい。でも、雨上がりならもっと明るくてもいい気がして」
ミオは自分の紙に薄く置いた色を見せた。
青の隣に淡い黄色があり、まだどちらを使うか決めていないようだった。
「同じ雨上がりでも、全然違いそうだね」
「そうなんです。だから、もう少し試したいです」
ミオは紙に目を戻した。
陽華ももう一度自分のラフを見る。
この景色を残したいなら、先に文字の場所を決めた方がいいのかもしれない。
そう思い、隣に空の枠を描いて、上の方に題名だけを書き込んだ。
そこから下に建物の線を入れようとしたところで、三限の終わりを知らせる声がかかった。
◇
短い休み時間を挟み、四限はラフの続きを考える時間になった。
陽華は二枚目の枠に建物を描き足した。
タイトルを先に置いた分だけ空は狭くなったが、道の奥行きは残せそうだった。
ふと顔を上げると、遥斗が紙を少し傾けて見ている。
玲奈は別の机の学生と話しながら、人物の位置を指で確かめていた。
「遥斗さん、どうですか?」
「僕はまだ文字の置き方を考えてます。道を描いたら、余白が思ったより少なくて」
「私も同じだ」
「やっぱりそうなりますよね」
二人で笑っていると、玲奈がスケッチブックを抱えて戻ってきた。
「ねえ、人物の顔って、見えた方がいいと思う?」
「玲奈さんの表紙ですか?」
「そう。手紙を持ってる人を描いたんだけど、顔をこっちに向けるか迷ってて」
「読んでから想像してもらうのも、面白そうだね」
「それなんだよね。顔が分かると描きやすいんだけど、ちょっと決めすぎるかなって」
玲奈はそう言いながら、自分の紙をもう一度見た。
誰かが答えを決めてくれるのを待つ様子ではなく、どちらにするか考えるのも楽しそうだった。
陽華は自分のラフへ視線を戻す。
こちらには、まだ人物も手紙も描かれていない。
濡れた道だけで、あのあらすじを想像してもらえるだろうか。
授業の後半、教員が手を叩いて学生たちへ声をかけた。
「近くの人とラフを見せ合ってみましょう。まだ途中で構いません。見て最初にどう感じたか、言葉にしてみてください」
陽華は斜め前の席にいた女子学生と、紙を交換することになった。
相手の表紙には、雨粒の残る窓と、その向こうの明るい庭が描かれていた。
窓の近くに大きくタイトルが入り、下の方に著者名が置かれている。
「すごい。文字がちゃんと入ってる」
「いや、まだ仮だけどね。松澤さんのも見ていい?」
「うん。二枚あるんだけど、こっちが最初の案」
陽華は街並みを描いた一枚目を差し出した。
相手は紙を受け取ると、少し離してから顔を近づけた。
「……何だか、ちょっと怖い話みたい」
「えっ、怖い?」
「うん。道の奥が暗くて、その先に何かありそうで。あらすじは読んだけど、これだけ見たら秘密を探す話なのかなって」
「そっか……」
陽華は返された紙を手元に置いて、もう一度見た。
水たまりに映る空を描きたくて、周りの建物を濃くしていた。
道の先にも影を残したので、確かに明るい景色には見えない。
自分では雨が上がったあとの静かな感じを描いたつもりだった。
でも、相手が見たのは、何かが待っていそうな道だったらしい。
「嫌だった?」
「ううん。そう見えるんだって、びっくりしただけ。言ってくれてありがとう」
「こっちの二枚目は、もう少し明るく見えるよ。タイトルも読みやすいし」
「本当?」
「うん。でも、最初の方の道も好き。何があるのか気になるから」
陽華は二枚を並べた。
相手は怖いと言いながら、最初の絵も嫌いではないらしい。
どちらが正しいということでもなさそうだった。
相手の紙を返しながら、陽華も窓の絵について感じたことを伝えた。
「こっちは、帰ってきた場所って感じがする。外が明るいのに、窓の内側は静かで」
「あ、それはちょっと考えてた。久しぶりに戻った家のつもりで」
「そうなんだ。私、そういうふうに見えたよ」
「よかった。ありがとう」
互いに紙を返し、机へ向き直る。
陽華は一枚目のラフに鉛筆を置きかけて、手を止めた。
怖く見えるからといって、全部消す必要はない。
でも、自分が思っていたのとは違う表紙になるのなら、それも考えてみたい。
新しい枠を描き、今度は建物の影を少し減らした。
タイトルの位置も変え、道の先へ光が届くように線を引いてみる。
まだ、どんな本に見えるかは分からない。
それでもさっきより、試してみたいことがはっきりしてきた。
授業の終わりが近づくと、教員はラフを次回まで残しておくよう伝えた。
陽華は鉛筆を置き、最初の案と描き直した案を見比べる。
どちらにも好きなところがある。
けれど、同じ本の表紙には見えないかもしれない。
隅に小さく「文字の大きさ」「道の明るさ」と書き留め、紙を重ねた。
それから、もう一つだけ書き足す。
見た人には、どう見えるだろう。
陽華はその言葉を確かめてから、ラフをスケッチブックに挟んだ。




