第109話『何を見せたいか』
第109話『何を見せたいか』
新しい教室にも少し慣れ始めた月曜日の朝、陽華は画材の入った鞄を抱えて制作室へ向かった。
廊下では同じ学年の学生たちが、時間割を見ながら行き先を確かめている。
陽華も入口の札をもう一度見てから、中に入った。
窓側の机ではミオが筆箱を開き、鉛筆を並べていた。
「ミオちゃん、おはよう」
「陽華さん、おはようございます。ここで合ってますよね?」
「うん。イラストレーションⅡって書いてあったよ」
「よかったです。違う教室だったらどうしようかと思ってました」
ミオは安心したように笑った。
陽華が鞄を下ろすと、少し離れた机にいた遥斗が顔を上げる。
「陽華さん、おはようございます」
「遥斗さん、おはよう。もう準備してたんだね」
「久しぶりの制作授業なので、何を持ってくればいいか迷いました」
「私も。結局、いつもの道具は全部入れちゃった」
「それが一番安心かもしれませんね」
そこへ玲奈が、別の学生と話しながら入ってきた。
相手と手を振って別れてから、陽華たちに気づいて近づく。
「おはよう! みんな早いね」
「玲奈ちゃん、おはよう」
「今日から本格的に描くんだよね。何するのかな」
「まだ聞いてないよ」
「そっか。楽しみだなあ」
玲奈はそう言って自分の席へ向かった。
陽華もスケッチブックを開く。
白いページを見ると、これから何を描くことになるのか気になってきた。
やがて教員が入ってきて、授業が始まった。
黒板に書かれたのは、短い一文だった。
「今回の課題は『自分が見せたい場面を一枚の絵にする』です」
誰かが小さく「広いなあ」とつぶやき、教室のあちこちで笑いが起きた。
教員も少し笑ってから、説明を続ける。
題材は身近な景色でも人でも、想像した場面でもいい。
使う画材も選べるが、まずは小さなラフを何枚か描いて、何を中心に見せたいのか考える。
最終的には一枚にまとめるけれど、今日はそのための案を試す時間だという。
「描けそうなものを探すのも大事です。でも、見てほしいところがどこなのかも考えてみてください」
陽華はノートにその言葉を書き留めた。
何を描くかではなく、何を見せたいか。
似ているようで、少し違う気がする。
一年生の時も自由に題材を選ぶ課題はあった。
それでも、こうして改めて聞かれると、すぐには答えられない。
◇
制作室に紙をめくる音や鉛筆の音が広がっていく。
陽華はまず、頭に浮かんだ景色を小さな四角の中に描いた。
建物に挟まれた道と、その先の曲がり角。
春休みに遥斗が見せてくれた道の絵や、自分の家の窓から見た屋根の影が、どこかに残っているのかもしれない。
けれど、そのまま写したいわけではなかった。
道の幅を広く取ってみると、奥へ続く感じは出たものの、手前が少し寂しく見える。
陽華は鉛筆を止め、紙を少し離した。
ここを誰かが歩いていたら、どうなるだろう。
隣の小さな枠に、同じ道をもう一度描いてみる。
今度は視点を少し低くして、手前に買い物袋を持った人の後ろ姿を入れた。
人を大きく描くと、さっきまで気になっていた曲がり角があまり目立たない。
小さくすれば、今度は何をしている人なのか分かりにくい。
「うーん……」
つい声が漏れた。
隣の席のミオが顔を上げる。
「どうしました?」
「人を入れてみたんだけど、思ったより難しくて」
「見てもいいですか?」
「うん」
ミオは二枚を見比べた。
「同じ道なんですね」
「そうなんだけど、こっちは人がいると道が狭く見えちゃって」
「私は、こっちのほうが何か起こりそうに見えます」
「何か起こりそう?」
「はい。でも、どこへ行く道なのか気になるのは最初のほうです」
陽華はもう一度二枚を見た。
ミオの言うことは分かる。
自分がどちらを見せたいのかは、まだ分からないけれど。
「ありがとう。もう少し考えてみるね」
「私も、まだ色をどうするか迷ってます」
ミオの机には、形の違うラフがいくつか並んでいた。
色を置く前に、どこに何を配置するか試しているようだった。
少し離れたところでは遥斗が紙を回し、建物の角度を確かめている。
玲奈は人物を描いていたが、いつものように姿だけを何枚も描くのではなく、その周りに椅子や窓の線を足していた。
「玲奈さん、何度も場所を変えてますね」
「うん。人はこの向きがいいんだけど、背景が入らなくて」
「少し引いて描いてみたらどうですか?」
「それも試したんだけど、今度は動きが小さくなっちゃうんだよね」
遥斗と玲奈が短く話しているのが聞こえる。
陽華は自分の紙へ目を戻した。
描きたいものが決まっているように見える二人にも、迷うところはあるらしい。
そう思うと、少し肩の力が抜けた。
教員が机の間を歩いてきて、陽華の前で足を止めた。
「松澤さん、今は二つ試しているんですね」
「はい。同じ道なんですけど、ちょっと変えてみたくて」
「どこを変えたんですか?」
「最初は道の先が気になって描きました。でも、人を入れたら、その人がどこへ行くのかも気になって……」
説明しながら、陽華は二枚を並べ直した。
教員は少し間を置いて頷く。
「なるほど。どちらのほうを見せたいと思いますか?」
「それが、まだ決められなくて」
「なら、もう一枚試してみてもいいですよ。人の大きさや位置を変えるだけでも、印象は変わりますから」
「はい。やってみます」
教員は次の机へ移っていった。
陽華は新しい枠を一つ描いた。
今度は人を少し奥に置く。
道の先も見えるように、建物の線を一本ずつ引き直した。
最初の二枚とは、また少し違う感じがする。
でも、これで決まったというほどではない。
陽華は消しゴムを手に取ったものの、すぐには使わず、三枚を並べて眺めた。
◇
二限が終わる頃には、机の上に何枚もの小さなラフが広がっていた。
陽華は描いた順に並べ、端へ小さく印をつけてからスケッチブックに挟んだ。
どれか一枚を選ぶつもりだったけれど、結局まだ選べていない。
それでも、最初にはなかった三枚目の案が増えている。
「陽華さん、どうでした?」
鞄を片づけた遥斗が声をかけてきた。
「まだ決められなかった。遥斗さんは?」
「僕も、もう少し試すつもりです。描く場所を変えると、道の見え方が全然違って」
「分かる。私も同じところで止まっちゃった」
「じゃあ、次もラフが増えそうですね」
「うん。増えすぎないようにしないと」
陽華が笑うと、ミオが紙を揃えながら言った。
「私は、もう少し増やしたいです」
「ミオちゃんは増やすほうなんだ」
「はい。まだ比べたいので」
そこへ玲奈がスケッチブックを抱えて戻ってきた。
「私も今日は決まらなかったよ。人は描けたんだけど、周りがねえ」
「みんな、まだ途中だね」
「まあ、始まったばっかりだしね」
玲奈はそう言って笑い、先に廊下へ出ていった。
遥斗とミオも鞄を持って、その後を追う。
陽華も鞄を持って立ち上がる。
春休みには、描きかけの絵をみんなに見せた。
今度は同じ課題でも、持ち帰るものが少しずつ違う。
スケッチブックには、道だけの絵と、人がいる絵と、その中間のような絵が挟まっている。
次に開いた時、どれが気になるだろう。
そう考えるのが少し楽しみになって、陽華は三人の後を追った。




