第107話『それぞれの春』
第107話『それぞれの春』
春休みになってから、陽華は机に向かう時間が少し増えた。
向かいの家の屋根を描いたスケッチにも、鉛筆の線がだいぶ重なっている。
完成と言ってしまってもいいような気はするけれど、窓の外を見るたびに直したいところが見つかる。
陽華はスケッチブックを少し離して眺めた。
屋根の角度は、最初に描いた時のまま残してある。
今ならもう少し正確に描けるかもしれない。
でも、あの朝に描きたかった線も、嫌いではなかった。
「……見せてみようかな」
妹に友達と遊べばと言われたことも、少しだけ頭に残っていた。
けれど、それ以上に自分がみんなの絵を見たかった。
陽華はスマートフォンを取り、以前ファミレスで話したことを思い出しながら、遥斗たちへ連絡を送った。
春休みの間に、描いたものを持ち寄って会いませんか。
何度か読み返してから送信する。
少しして遥斗から返事が来た。
都合のいい日を教えてくれて、最近描いたものもあるという。
ミオも参加したいと返してくれた。
玲奈からは、何を持っていこうか迷う、という楽しそうなメッセージが届く。
陽華は三人の返事を見比べ、思わず笑った。
少しずつ日程を合わせていくうちに、会える日も決まった。
◇
待ち合わせの日、駅前にはまだ少し冷たい風が吹いていた。
陽華が時計の見える広場へ着くと、遥斗が先に立っていた。
肩にかけた鞄から、スケッチブックの端が少し覗いている。
「遥斗さん、お待たせしました」
「陽華さん。いえ、僕もさっき来たところです」
「よかった。今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそ。声をかけてもらえて嬉しかったです」
そう話しているところへ、ミオが小走りでやってきた。
「おはようございます。遅くなってないですか?」
「大丈夫だよ。私たちも今来たところ」
「よかった。持ってくるものを最後まで迷ってしまって」
「ミオちゃんでも迷うんだ」
「迷いますよ。今日は課題じゃないですから」
ミオは少し膨らんだ鞄を抱え直した。
何を持ってきたのか気になったけれど、陽華は店に着いてからのお楽しみにすることにした。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「みんな、お待たせ!」
「玲奈ちゃん、おはよう」
「おはよう、陽華さん。あれ、私が最後?」
「はい。でも、まだ待ち合わせの時間前ですよ」
「よかったあ。走ってきたら暑くなっちゃった」
「走らなくても大丈夫だったのに」
「それはそうなんだけどね」
玲奈が笑うと、遥斗もミオもつられて笑った。
四人が揃ったところで、近くの喫茶店へ向かう。
休みの日にこうして顔を合わせるのは、学校で会うのとは少し違った。
誰も授業の時間を気にしていない。
それでも、歩きながら交わす言葉はいつもどおりだった。
店では窓際の四人席に案内され、飲み物を注文した。
テーブルの上が片づいたところで、玲奈が鞄に手を伸ばす。
「ねえ、もう見せちゃっていい?」
「玲奈さん、早いですね」
「だって、今日それが楽しみだったんだもん」
「ふふ。じゃあ、私も出そうかな」
陽華もスケッチブックを取り出した。
最初に開いたのは、向かいの家を描いたページだった。
「これ、家の窓から見える景色なんだけど」
「屋根が近いですね。ここ、影が二つに分かれてる」
遥斗が指を近づけ、線には触れないまま止めた。
「朝と午後で形が変わるから、何度か描き足したんです」
「へえ。ずっと同じ場所から描いてたの?」
「うん。動かないから描きやすいと思ったんだけど、光は結構変わるんだね」
「この薄いところ、好きです」
ミオが指したのは、屋根の向こう側に残した白い部分だった。
「そこ、まだ描いてないんだよ」
「そうなんですか? でも、ここが明るく見えます」
「……じゃあ、もう少しこのままにしようかな」
自分では描き残したところだと思っていた。
けれどミオに言われて見直すと、確かにそこだけ光が残っているようにも見える。
遥斗が自分のスケッチブックを開いた。
曲がった道の先に、低い塀と建物の角が描かれている。
「あ、この道、どこですか?」
「家の近くなんです。買い物の帰りに通って、ちょっと気になって」
「遥斗さん、道の絵好きだよね」
「そうかもしれません。先が見えない曲がり角とか、つい見ちゃうんですよ」
「分かる気がする。私は、角を曲がった先が気になるかな」
「それもいいですね。実際に歩くと、思ってたのと全然違う時があります」
陽華が塀の影を眺めていると、玲奈が隣から身を乗り出した。
「私だったら、ここに誰か歩かせたくなる」
「玲奈さんらしいですね」
「だって、道だけだとちょっと寂しくない?」
「僕は道だけでも好きですよ」
「うん、知ってる」
軽い言い合いに、陽華は笑った。
どちらの見方も分かる気がする。
同じ絵に人がいるところも、誰もいないところも、想像できた。
次にミオが、小さな紙を何枚か取り出した。
一枚には青と黄色が重なり、別の一枚には緑が何度も塗り直されている。
「これ、何か描こうと思ってたわけじゃないんですけど」
「色を試してたの?」
「はい。少しずつ重ねたらどうなるかなって」
「こっち、きれいだね。青が透けてるみたい」
「そこ、ちょっと失敗したんです」
「えっ、そうなの?」
「はい。乾く前に重ねちゃって。でも、思ってたのと違う色になったので、そのままにしました」
「失敗したって言わなきゃ分からないよ」
玲奈がそう言うと、ミオは照れたように笑った。
「分からなくても、私は分かりますから」
「それはそうか」
今度は玲奈が薄いスケッチブックを開く。
電車を待つ人、椅子から立ち上がる人、鞄を持ち替える人。
どれも短い線で描かれていて、顔はほとんど描き込まれていなかった。
「玲奈ちゃん、こんなに描いたんだ」
「ちょっと気になると描いちゃうの。手とか、足とか」
「この人、今にも歩き出しそうですね」
「そう! 遥斗さん、そこ見てくれた?」
「はい。重心がこっちにあるからかなって」
「あ、それそれ。そこが面白かったんだよね」
玲奈は嬉しそうに頷き、もう一枚ページをめくった。
途中で止まった線や、何度も描き直された足が並んでいる。
「これなんて、結局うまく描けなかったんだけど」
「でも、何してる人か分かるよ」
「ほんと? 陽華さん、優しく言ってない?」
「ううん。靴を履こうとしてるところでしょ?」
「当たり! それならよかった」
玲奈が笑う。
何も知らない人が見たら、ただの描きかけに見えるかもしれない。
でも、何を見て描こうとしたのか聞いていると、止まった線の先まで見えてくる気がした。
飲み物が少なくなった頃には、テーブルの上に四人の絵が少しずつ重なっていた。
描いているものも、使っている色も違う。
一枚ずつ眺めながら話しているうちに、陽華は自分が持ってきた屋根の絵をもう一度見た。
ミオが気に入った白い部分は、やっぱり残しておこうと思う。
でも、遥斗の描いた道を見たあとでは、屋根の下の路地も気になってきた。
「陽華さん、どうしました?」
「ううん。帰ったら、また違うところ描いてみたくなっちゃった」
「分かります。私も今、描きたいもの増えました」
「えっ、ミオちゃん、まだ増えるの?」
「増えますよ」
ミオが真顔で答えたので、四人で笑った。
◇
店を出ると、昼間より少し風が冷たくなっていた。
駅へ向かう道で、玲奈が前を歩く人の手元にちらりと目を向ける。
その人は肩からずり落ちそうな鞄を持ち直していた。
「今の、ちょっと描きたかったな」
「もう見てるんだ、玲奈ちゃん」
「だって、いい動きだったんだもん」
遥斗は笑いながら、少し先の道が曲がるところを見た。
ミオは建物の間から見える空を眺めている。
陽華もつられて顔を上げた。
夕方の光が、壁の片側だけを明るくしている。
一人で歩いていたら、気づかず通り過ぎたかもしれない。
陽華は鞄の中のスケッチブックを思い出した。
今日見せた絵は、まだ描き足せるところがある。
けれど帰ったら、まず別のページを開いてみるのもいい。
そんなことを考えながら、陽華は三人と並んで駅へ歩いていった。




