第106話『休みの途中で』
第106話『休みの途中で』
春休みに入って数日が過ぎた。
午後の陽華の部屋には、窓から柔らかな光が差し込んでいる。
机に広げたスケッチブックには、向かいの家の屋根と、その上の空が描かれていた。
休みの初日に描き始めてから、気が向くたびに少しずつ手を加えている。
朝と午後では影の落ち方が違うので、見比べているうちに描きたいところがまた増えてしまった。
陽華は窓の外を見て、屋根の端に短い線を足した。
消しゴムを手に取ったところで、階下から玄関の開く音がした。
「ただいまー」
妹の声だった。
続いて母と話す声が聞こえ、少しして廊下を歩く足音が近づいてくる。
部屋の扉は開けたままだった。
その前に制服姿の妹が顔を出す。
「お姉ちゃん、やっぱり部屋にいた」
「おかえり。やっぱりって何?」
「だって、いそうだなって思ったから」
妹はそう言って笑い、遠慮なく部屋を覗き込んだ。
片手にはスマートフォンを持っている。
昔から、陽華が何をしているのか気になると、こんなふうに顔を出してくる。
「また絵描いてるの?」
「うん。休みだし、好きなもの描こうかなって」
「へえ。何それ?」
「窓の外」
妹が窓とスケッチブックを交互に見た。
「……あ、ほんとだ。向かいの家じゃん」
「そうだよ」
「なんでわざわざ向かいの家?」
「なんとなく、描いてみたくなって」
「お姉ちゃんって、そういうの好きだよね」
呆れたような声だったけれど、妹はそのまま絵を眺めている。
陽華は鉛筆を机に置いた。
「何か変?」
「変っていうか、毎日見てるものじゃん。私だったらもっと違うの描くかな」
「例えば?」
「えー、何だろ。友達とか、街とか?」
「そういうのも描くよ」
「じゃあ何で今日これなの?」
「だから、描きたくなったからだってば」
陽華が笑うと、妹も「そっか」と笑った。
答えが気に入ったのかどうかは分からない。
それでも妹はそれ以上聞かず、机の横へ寄った。
スマートフォンの画面を見て、何かおかしかったのか小さく吹き出す。
「何かあったの?」
「友達から写真来た。ちょっと見て」
差し出された画面には、何人かの女の子が並んで笑っている写真が映っていた。
陽華には顔と名前がまだ一致しない子もいる。
「楽しそうだね」
「でしょ。これ撮るのに何回もやり直したんだよ」
「そうなの?」
「一人だけずっと目つぶっちゃってさ。最後みんな笑っちゃった」
説明しながら、妹はまた笑い出した。
学校でのことを話す時の妹は、いつもこんなふうに楽しそうだ。
陽華が同じ年頃だった時は、写真を撮ろうと誰かに声をかけるだけでも緊張していた気がする。
「お姉ちゃんは?」
「え?」
「春休み、誰かと遊びに行かないの?」
「ああ。まだ約束はしてないかな」
「やっぱり。ずっと家にいるつもり?」
「ずっとってわけじゃないよ」
「でも、今のところ絵描いてるだけでしょ?」
「……まあ、今のところはね」
妹は得意そうに笑った。
少し見透かされたようで悔しい。
けれど学校へ行っていた間のことを思い出して、陽華は言い添えた。
「でも、学校の友達とはいろんなところに行ったよ」
「え、そうなの?」
「うん。一緒に絵を描きに行ったり、ご飯食べに行ったり」
「お姉ちゃんが?」
「……そんなに意外?」
「だってお姉ちゃん、人を誘ったりするの苦手じゃん」
「それは……そうだけど」
否定できないのが少し悔しかった。
それでも、遥斗やミオ、玲奈と過ごした時間はちゃんとある。
誰かに誘ってもらった日も、自分から声をかけた日もあった。
「私から誘ったことだってあるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「へえ。お姉ちゃん、やるじゃん」
「もう。何でそんなに上からなの」
「褒めてるんだけど」
「そうは聞こえなかったよ」
妹は声を立てて笑った。
陽華もつられて笑ってしまう。
こういう時の妹は、言い方を変えようなんて少しも思っていないらしい。
昔からそうだった。
陽華が言葉を選んでいるうちに、妹は思ったことを先に口にする。
その勢いに押されて黙ってしまうことも多かった。
けれど今日は、言い返したあとも嫌な気持ちにはならなかった。
「で、どんな友達?」
「同じクラスの遥斗さんとミオちゃん。それから、違うクラスの玲奈ちゃん」
「ふうん。結構仲いいんだ」
「うん。みんな絵が好きで、話してると面白いよ」
「絵の話ばっかり?」
「そんなことないよ。ご飯の話とか、普通の話もするし」
「何それ、普通の話って」
「今の言い方、変だった?」
「ちょっとね」
また笑われて、陽華は頬をかいた。
でも、何を話そうか考えるより先に友達の名前が出てきたことが、少し嬉しかった。
妹は画面に届いた新しいメッセージを確認し、立ち上がった。
「じゃ、私も着替えてくる」
「うん」
扉のところまで行った妹が、ふと思い出したように振り向いた。
「そうだ。お姉ちゃん、今度その友達と遊べば?」
「え?」
「だって、そんなに楽しそうに話すならさ」
「……うん。そうだね」
「じゃ、またあとで」
妹は軽く手を振って廊下へ出ていった。
数歩先でスマートフォンの通知音が鳴り、すぐに楽しげな声が聞こえる。
陽華は開いたままの扉を見て、小さく息を吐いた。
あっという間に来て、あっという間に行ってしまった。
相変わらず賑やかな子だ。
(あの子は、ああいうところがすごいな)
知らない人にもすぐ話しかけて、思ったことをためらわずに言える。
陽華にはなかなか真似できない。
ただ、真似しなくてもいいのかもしれない。
学校では、陽華の話を待ってくれる人がいた。
自分もその人たちの話を聞くのが好きだった。
妹とは話し方も過ごし方も違うけれど、どちらがいいということでもない。
陽華は机へ向き直り、窓の外を見た。
さっきより影が少し伸びている。
その形を鉛筆で追いかけながら、ふと遥斗たちの顔を思い浮かべた。
春休みの間に、またみんなの絵を見られたらいいな。
今度は何を描いているんだろう。
そんなことを考えていると、手元の線も少し軽くなった気がした。
陽華はスケッチブックを少し引き寄せ、屋根の下の影を描き足した。




