第105話『春、少し違う朝』
第105話『春、少し違う朝』
目が覚めた時、部屋の中はもう明るくなっていた。
陽華は枕元の時計を見て、いつもならそろそろ起きる時間だと思った。
布団の中で少しだけ体を伸ばし、昨日までと同じように学校の準備を考えかける。
(あ、今日から休みだった)
一年生の授業は昨日で終わった。
今日は急いで支度をする必要もない。
そう分かっているのに、一度目が覚めると今度はなかなか眠れなかった。
窓の方へ顔を向けると、カーテンの端から朝の光が差し込んでいる。
まだ春らしい暖かさとは言えないけれど、少し前より日が明るくなった気がした。
陽華はしばらく布団の中で過ごしてから、結局いつもと大して変わらない時間に起き上がった。
階段を下りると、台所から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
母が朝食の支度をしていて、父はすでに食卓についている。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いのね」
「うん。いつもの時間に目が覚めちゃって」
「学校はもうお休みだったよね?」
「昨日で一年生の授業が終わったよ」
「そっか。じゃあ、今日から春休みね」
陽華は頷いて椅子を引いた。
母が食卓に朝食を並べる間、父は湯飲みに手を伸ばしていた。
いつもと変わらない朝だった。
陽華もパンを一口食べ、まだ少し眠たい目をこする。
「もう一年終わったのか」
父がそう言ったのは、陽華が二口目を食べようとした時だった。
思わず顔を上げる。
「うん。一年生はね」
「早いもんだな」
「私もそう思う。入学したの、そんなに前じゃない気がするもん」
父は小さく頷いた。
そこで会話は終わるかと思ったけれど、今度は少し間を置いてから尋ねてきた。
「一年やってみて、どうだった」
陽華はパンを皿に戻した。
どうだったと聞かれて、最初に浮かんだのは難しかった課題のことではなかった。
昼休みの賑やかな声や、隣で絵を描いていたミオの横顔。
外へ出て描いた風景も、みんなで一枚の絵に取り組んだ時間も思い出す。
「……楽しかったよ」
自分でも、思っていたよりすんなり言葉が出た。
「楽しかったの?」
「うん。課題が大変な時もあったけど、描いたことないものもいっぱい描いたし」
「そう」
「友だちの絵を見るのも面白かった。自分じゃ思いつかない描き方とか、色の使い方とか」
話しながら、つい手が動いていた。
母がその手元を見て、小さく笑う。
「ずいぶん楽しそうね」
「あ、うん。なんか、いろいろあったから」
照れくさくなってパンに手を戻すと、父が湯飲みを置いた。
「そういえば、前に言っていたコンクールはどうなったんだ」
「ああ、ちゃんと出せたよ」
「そうか」
「展示も見に行ってきた。学校の友だちと」
「自分の絵も飾ってあったの?」
「うん。周りにいろんな人の絵があって、自分のがそこに並んでるの、ちょっと変な感じだった」
陽華はあの日の会場を思い出した。
自分の絵の前に立った時、何度も描き直していた線が、もう手の届かないところにあるように見えた。
その隣には知らない誰かの作品があって、少し歩けばまた別の絵が並んでいた。
遥斗もミオも玲奈も、それぞれ違うところを見ていた。
一緒に回りながら、同じものを見ても感じることが違うのだと改めて思った。
「ほかの人の作品も見られて、面白かったよ」
「そうか。出してよかったな」
「……うん。そう思う」
父の言葉に少し驚いた。
以前の自分なら、結果のことを聞かれるのではないかと身構えたかもしれない。
けれど今は、会場で見たものの話をもう少ししたいと思っていた。
そう思った自分にも、少し驚く。
母が空いた皿を重ねながら、今度は春休みの話を始めた。
春休みの予定はまだ何も決めていない。
それでも学校へ行く日の慌ただしさがなくなるのは、ちょっと嬉しかった。
「休み中も絵を描くの?」
「うん。何か描きたいなって思ってる」
「課題じゃなくて?」
「そう。何を描くかは、まだ決めてないけど」
そう答えると、父が少し考えるように視線を落とした。
「次は二年生か」
「うん」
「二年で卒業だったな」
「そうだよ」
さっきまで軽かった気持ちが、ほんの少しだけ引っかかった。
父がその先に何を言おうとしているのか、何となく分かる気がした。
「卒業してからのことも、そろそろ考えておかないとな」
やっぱり、と陽華は思った。
前だったら、その言葉の続きを聞く前に嫌な気持ちになっていたかもしれない。
何も決まっていないのは自分が一番よく分かっている。
何度も言われなくても分かっている。
そんな言葉が、口から出そうになったこともあった。
けれど今は、一度湯飲みに手を伸ばしてから答えた。
「うん。考えてるよ」
「何か決まってるのか?」
「まだ、はっきりとは決まってない」
「そうか」
「でも、何をやりたいのかとか、どんなことができるのかとか、前よりは考えられるようになったと思う」
言い終えてから、少し恥ずかしくなった。
大げさなことを言ったつもりはないけれど、自分でそう言い切ってしまうと落ち着かない。
「まだ一年あるから、ちゃんと考えたい」
父はすぐには返事をしなかった。
陽華も、無理に何かを付け足すことはしなかった。
やがて父はゆっくり頷いた。
「そうか。まあ、あっという間だろうからな」
「うん。それは本当にそう思う」
思わず笑うと、父もほんの少し口元を緩めたように見えた。
そのまま朝食は終わり、陽華は自分の食器を台所へ運んだ。
母に礼を言って部屋へ戻る途中、さっきの会話が頭に残っていた。
(……普通に話せたな)
あの頃と同じように、父は将来のことを心配している。
陽華だって何か答えを持っているわけではない。
大学を辞める時、「大丈夫」と言ったことを覚えている。
あの時は、何が大丈夫なのか自分でも分からなかった。
専門学校へ行きたいと話した時も、絵で生活できるのかと聞かれて答えられなかった。
今だって、きっと同じ質問をされたら迷うと思う。
でも、楽しかったことなら話せる。
まだ決まっていないことも、決まっていないと言える。
それだけで父と何でも話せるようになったわけではないし、明日また同じように話せるかも分からない。
それでも、今朝は話を途中でやめたくならなかった。
部屋へ戻ると、机の横に昨日持ち帰った鞄が置いてあった。
中からスケッチブックを取り出して、机に広げる。
一年の間に描いたものを何枚かめくると、授業で使ったページも、休み時間に何となく描いたものもあった。
少し前なら消していたかもしれない線が、そのまま残っているページもある。
陽華はそれを見て、ちょっと笑った。
「……何描こうかな」
窓の外に目を向ける。
向かいの家の屋根と、その上に広がる明るい空。
窓枠の影が床へ斜めに伸びていて、昨日より少しだけ日差しが柔らかく見えた。
特別な景色ではない。
毎朝見ているはずなのに、今日は何となく描いてみたかった。
(これにしようかな)
陽華は白いページを開き、鉛筆を持った。
窓枠の端から、まず一本線を引く。
少し曲がった気がしたけれど、消すのはあとでもいい。
その隣へもう一本、屋根の線を引いてみる。
春休みは始まったばかりだ。
急いで仕上げる課題も、今日中に決めなければならない題材もない。
陽華は窓の外をもう一度見てから、紙の上へ鉛筆を戻した。
まだ冷たさの残る朝の光が、少しずつ部屋の中へ伸びていた。




