第104話『冬の終わりに』
第104話『冬の終わりに』
展示の続きを見終えた頃には、窓の外が少し暗くなり始めていた。
会場を出ると冷たい風が頬に当たり、陽華は思わず襟元を押さえる。
隣では玲奈が肩をすくめていた。
「うわ、寒い。中にいた時は全然気にならなかったのに」
「結構長く見てたもんね」
「まだ気になる絵があったんですけどね」
「ミオさん、全部見ようとしたら閉館までかかりますよ」
「それでも足りなかったかもしれません」
真面目な顔で答えるミオに、玲奈が吹き出した。
陽華も笑いながら、ミオが持っている賞状へ目を向ける。
父親と話していた時のミオの顔を思い出した。
少し緊張していたけれど、自分の描いた青について、ちゃんと言葉にしていた。
「ねえ、みんな。このあと時間ある?」
思い切って声をかけると、三人が陽華を見る。
「まだ大丈夫ですけど、どうしました?」
「よかったら、ご飯食べに行かない? 四人で」
「えっ、いいね!」
「ミオちゃんのお祝いもしたいし。コンクールの打ち上げってことで」
「打ち上げかあ。そういえば前にもやったね」
「玲奈ちゃんが言い出した時だよね」
「覚えてる。あの時もお腹空いてたんだよね」
「玲奈さん、今日もそうなんじゃないですか?」
「……うん、そうかも」
遥斗の言葉に玲奈が素直に頷き、四人で笑った。
ミオも少し嬉しそうに賞状を持ち直す。
「私の受賞のお祝いまでしてもらって、いいんでしょうか」
「もちろん。でも、ミオちゃんだけじゃなくて、みんなお疲れさまってことで」
「それなら、私も行きたいです」
「決まりだね」
向かったのは、以前にも四人で打ち上げをしたファミレスだった。
入口をくぐった途端、玲奈が「あ、ここだ」と笑う。
案内された席に腰を下ろし、四人でメニューを広げた。
以前と同じ店なのに、陽華は少し不思議な気持ちになった。
あの頃は四人で一枚の絵を完成させたばかりだった。
今日は、それぞれの絵を会場に並べてきた帰りだ。
「私、今日は甘いものも食べたいな」
「玲奈さん、まだ料理も決めてませんよ」
「デザートは先に決めてもいいでしょ」
「それはそうですね」
「ミオちゃんまで賛成してくれるんだ」
玲奈が笑う横で、遥斗はメニューの写真を見比べている。
陽華も少し迷ってから料理を決め、四人で注文を済ませた。
ドリンクバーの飲み物を持って席へ戻ると、玲奈がグラスを持ち上げる。
「じゃあ、ミオちゃんの優秀賞、おめでとう!」
「おめでとう、ミオちゃん」
「ミオさん、おめでとうございます」
「ありがとうございます。……なんだか、まだ実感がなくて」
「それと、四人とも応募お疲れさま!」
「うん。お疲れさま」
「お疲れさまです」
グラスが軽く触れ合う。
陽華は一口飲んでから、向かいに座る玲奈を見た。
玲奈も飲み物を置き、にこにこと笑っている。
「陽華さんの絵、知らない人が見てたよね」
「うん。ちょっと恥ずかしくて、近くにいられなかった」
「俺、横で見てましたよ」
「えっ、そうだった?」
「陽華さん、すぐ一歩下がってましたから」
「……見られてたんだ」
「描いた本人が一番落ち着かないんですね」
ミオがそう言って笑う。
陽華は頬が熱くなるのを感じたけれど、不思議と嫌ではなかった。
「玲奈ちゃんはどうだった?」
「私も緊張したよ。自分の絵の前にずっと立ってるの、なんか変じゃない?」
「分かる。私も自分の絵なのに知らない絵みたいに見えた」
「でも、みんなに見てもらえたのは嬉しかったな」
「俺も玲奈さんの絵、あの二人の動きが印象に残ってます」
「ほんと? そこ頑張ったんだよね」
玲奈は嬉しそうに身を乗り出した。
遥斗も、紙袋を持った人物の足の向きが気になったのだと話す。
そこへミオが、二人の間の空き方もよかったと言い添えた。
気がつくと、四人はまた絵の話をしていた。
注文した料理が運ばれてきても、誰かが思い出したように別の作品の話を始める。
陽華も食べながら、会場で見た色や構図をいくつも思い返した。
「……また、みんなの絵を見たいな」
ふと漏れた言葉に、玲奈が顔を上げた。
「学校で?」
「うん。学校でも、ほかのところでも」
「じゃあ、今度描いたのも見せ合おうよ」
「いいですね。私も見たいです」
「俺もです」
すぐに次の約束が決まったわけではなかった。
それでも、そんな話を四人でできたことが嬉しかった。
食事が終わる頃には、話題は絵から授業のことへ移り、また絵の話に戻っていた。
陽華は三人の声を聞きながら、前にもここで笑っていたことを思い出す。
あの時と同じではない。
でも、今の四人で笑っているこの時間も、ちゃんと楽しかった。
◇
コンクールが終わっても、学校ではいつもの授業と制作が続いた。
ミオの受賞はしばらく話題になり、陽華も時々、あのファミレスでの打ち上げを思い出した。
けれど毎日が特別なことばかりではない。
課題に向かい、分からないところを考え、描き直してはまた手を動かす。
そんな時間を重ねているうちに二月が過ぎ、三月になった。
一年間の制作物を見返したり、残っている課題を仕上げたりする機会も増えてきた。
陽華は春頃のスケッチを取り出し、ページをめくった。
今なら描き直したくなる線がいくつもある。
それでも、その時は一生懸命描いたのだと思うと、簡単には消したくなかった。
(あの頃は、これを見せるだけでも緊張してたな)
今だって、自分の絵を見てもらう前は落ち着かない。
けれど、気に入っているところも、迷っているところも、少しずつ言葉にできるようになった。
ほかの人の絵を見て、自分も描きたくなることも増えた。
その日の授業が終わり、廊下に出ると、向こうから玲奈が歩いてきた。
片手にはスケッチブックを抱えている。
「あ、陽華さん」
「玲奈ちゃん。今、終わったところ?」
「うん。手を描いてたら、ちょっと時間かかっちゃって」
「手って難しいよね」
「ほんと。やっといい感じになったと思ったら、今度は腕が気になって」
玲奈が困ったように笑い、陽華もつられて笑う。
「もうすぐ春休みだね」
「うん。陽華さんは休み中も描く?」
「たぶん。まだ何を描くか決めてないけど」
「私も。描きたい人がいっぱいいるんだよね」
「ふふ、玲奈ちゃんらしいね」
教室の方から玲奈を呼ぶ声がして、玲奈はそちらへ顔を向けた。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
「うん。またね、玲奈ちゃん」
「またね、陽華さん」
玲奈が手を振って歩いていく。
陽華はその背中を見送ってから、自分も歩き出した。
コンクールの日も、その後の打ち上げも楽しかった。
でも、それだけですべてが前と同じになったわけではない。
それでも、こうして廊下で立ち止まって話せるのが嬉しかった。
◇
一年生として最後の授業が終わった日、教室はいつもより少し賑やかだった。
春休みの予定を話す声や、課題の続きを気にする声があちこちから聞こえてくる。
陽華は道具を片付けながら、自分の席を見渡した。
初めてこの教室に入った時は、周りの学生にどう声をかければいいかさえ分からなかった。
自分より若い人ばかりの中で、うまくやっていけるのだろうかと思っていた。
今は、その教室で一年間を過ごしたことが少し不思議だった。
「陽華さん、もう片付きました?」
振り向くと、鞄を肩に掛けた遥斗が立っていた。
その後ろにはミオもいる。
「うん。今終わったところ」
「じゃあ、一緒に帰りませんか」
「はい。私も準備できました」
「うん、行こう」
三人で教室を出ると、廊下にはまだ学生たちの声が残っていた。
学校の門をくぐったのが、ついこの前のことのように思える。
けれど、あの頃は誰かと一緒に帰るのが当たり前になるなんて想像もしていなかった。
外に出ると、風はまだ冷たいものの、日差しは少し柔らかくなっていた。
「とうとう春休みですね」
「そうだね。まだ実感ないな」
「私は休みの間も描きたいものがたくさんあります」
「ミオさん、足りなくなりそうですね、休みが」
「遥斗さんだって描くでしょう?」
「もちろん。最近、歩いてるだけで道の形が気になっちゃうんですよ」
「写真、増えそうだね」
「きっと増えますね」
三人で笑いながら歩く。
陽華は二人の声を聞きながら、この一年に描いた絵を思い返した。
春には何も分からないまま教室に入り、夏には外へ出て絵を描いた。
秋には気まずい時間もあったけれど、冬には四人でコンクールの会場を回り、同じテーブルを囲むことができた。
まだ迷うことはあるし、これから何を描くのかも決めていない。
でも、そのことが今は少し楽しみだった。
「陽華さんは、春休み何するんですか?」
「まだ決めてないけど……何か描きたいな」
「いいですね。何を描くか決まったら、教えてください」
「うん。遥斗さんもね」
「もちろんです」
「私も見たいです」
「ふふ。じゃあ、ミオちゃんのも見せてね」
「はい」
いつもの分かれ道で二人と別れ、陽華は一人で歩き始めた。
鞄の中には、一年間で使い込んだスケッチブックが入っている。
白いページはまだ何枚も残っていた。
今なら、その白さを少し楽しみにできる気がする。
見上げた空は、冬の頃よりも明るかった。
明日から春休みだ。
陽華は鞄の持ち手を握り直し、いつもの道を歩いていった。




