第103話『同じ絵の前で』
第103話『同じ絵の前で』
賞状を持つ手に、少しだけ力が入っていた。
優秀賞という文字は、見直しても変わらない。
嬉しいはずなのに、ミオは何度も会場の前方へ目を向けてしまう。
父はまだ特別ゲストの席の近くにいて、誰かと話していた。
来るとは聞いていなかった。
そもそも、自分が応募したことさえ伝えていない。
少し前に見せたスケッチは、何かに出すかまだ決めていないと答えたままだった。
「ミオちゃん?」
陽華の声に振り向くと、三人ともミオの方を見ていた。
賞状を見せてもらったばかりの遥斗は、何か言いかけて口を閉じる。
ミオは前方へ視線を戻した。
今なら、まだ父もそこにいる。
「あの……さっき紹介された飯村左近って、私の父なんです」
「えっ、お父さん?」
「そうなんですか?」
「じゃあ、同じ名字なのって……」
「はい」
陽華が驚いた顔で父の方を見た。
遥斗もつられるように前を向き、玲奈はミオに視線を戻す。
「知らなかった。ミオちゃん、言ってなかったもんね」
「はい。話す機会もなくて」
「そっか。びっくりしたよ」
ミオは賞状の端を指でなぞった。
あの人が父親だと分かったら、みんなはどんな顔をするだろう。
そんなことを気にしていたのに、三人の反応は思っていたよりずっと普通だった。
「……少し、話してこようと思います」
「うん。行っておいで」
陽華が頷く。
ミオは一歩踏み出しかけて、足を止めた。
父に話すことは、まだ何も考えていない。
「あの、よかったら……一緒に来てもらえませんか?」
「私たちも?」
「はい」
「もちろん」
「俺も大丈夫ですよ」
「私も行くよ」
それだけで少し安心した。
ミオは三人と並び、父のいる方へ歩き出す。
ちょうど相手との話が終わったらしく、父が一人になったところだった。
「……お父さん」
声をかけると、父が振り向いた。
仕事先で見る時のようなきちんとした服装だったけれど、目が合った時の顔はいつもと変わらなかった。
「ミオか」
「来てたんだね」
「ああ。招かれてな」
「全然知らなかった」
「俺も、お前が出してるとは知らなかったぞ」
父はそう言って、ミオが持っている賞状へ目を向ける。
「優秀賞、おめでとう」
「……うん。ありがとう」
「展示を見せてもらった時に名前を見つけて驚いた。賞のことは俺も今日知ったんだ」
「そうだったんだ」
ミオは賞状を見下ろした。
名前を呼ばれた時、自分より先に父の顔を見てしまいそうになったことを思い出す。
けれど今、父からおめでとうと言われて、少しだけ胸のあたりが軽くなった。
「それで、そちらは?」
父に尋ねられ、ミオは一緒に来た三人へ顔を向けた。
「学校の友達。松澤陽華さんと、榊原遥斗さんと、錦玲奈さん」
「松澤です。初めまして」
「榊原です」
「錦です。ミオちゃんにはいつもお世話になってます」
玲奈が言うと、父は少し笑った。
「こちらこそ。ミオが学校でどんなふうに過ごしているのか、あまり聞いていなくて」
「私たち、よく一緒に絵を見たり描いたりしてるんです」
「そうか。みんなも今回応募したのか?」
「はい、私たちも」
「なるほど。じゃあ、今日は楽しみが多かったな」
陽華が笑って頷く。
ミオはその横顔を見て、何となく不思議な気分になった。
父と陽華たちが、同じ場所で普通に話している。
それだけのことが、今まで一度もなかった。
「ミオ、あの絵をもう一度見に行かないか」
「……私の?」
「ああ」
ミオは小さく頷いた。
父と四人で展示板の方へ戻る。
表彰式の前より人は少し増えていたが、ミオの絵の前にはちょうど誰もいなかった。
暗くなりきる前の青。
窓からこぼれる暖かな光と、その近くに残した小さな反射。
描き終えてから何度も眺めたはずなのに、父が隣に立つと少し違って見える。
父はしばらく黙って絵を見ていた。
「……前より、色が柔らかくなったな」
その言葉に、ミオは父の顔を見た。
「柔らかい?」
「ああ。お前の青は前から目を引いたが、今のは周りの光も自然に入ってくる」
「……うん」
「学校で、いろいろ学んでるんだな」
ミオはすぐには答えなかった。
学校で覚えたこともある。
けれど、この絵を描きたいと思えたのは、それだけではない。
何でもない写真を見て、陽華が好きだと言ってくれたこと。
二枚のスケッチを並べて、自分が好きな方を選んだこと。
遥斗と絵を見ながら、どこを残すか話したこと。
全部が、この青を描くまでの時間の中にあった。
「そうだね。……学校に来て、いろんな人の絵も見るようになったから」
「そうか」
父はまた絵へ目を戻す。
少しして、窓の近くを指で示した。
「この明るいところは、もう少し抑えてもよかったかもしれないな」
「うん。それも試したよ」
「試したのか?」
「別の紙で。青はもっとはっきりしたけど……私は、こっちの方が好きだったから」
口にしてから、ミオは自分でも少し驚いた。
父が言ったことを、間違っているとは思わない。
実際に試して、良いところも分かった。
それでも最後に残したい色は、自分で決めた。
父はミオの顔を見てから、もう一度絵を眺める。
「なるほどな」
短い返事だった。
何かを直すようにとも、そのままでいいとも言われなかった。
ミオは目の前の青を見つめた。
(……ちゃんと言えた)
昔なら、父の言葉を聞いたあと、どこを直せばいいかばかり考えていたかもしれない。
今は、そこに残したかったものを自分の言葉で話せた。
「私、この青、好きなんです」
隣で陽華が言った。
ミオが顔を向けると、陽華は少し照れたように笑う。
「最初に見せてもらった時から。なんか、ずっと見ていたくなる色で」
「陽華さん、前にもそう言ってましたね」
「うん。何回見ても好きだよ」
「俺は光のところもいいと思います。奥の窓の明かりが、ちゃんと残ってるから」
「私は、窓の近くの小さい反射が好き。さっき見た時、そこに目が行ったんだ」
遥斗と玲奈も、思い思いに絵を見ている。
その言葉が揃っていないのが、ミオには嬉しかった。
同じ絵でも、三人の目に入るものは少しずつ違う。
父もそれを聞いていた。
「ミオの絵を、そんなふうに見てくれてるんですね」
「はい。ミオちゃんの絵を見ると、私も描きたくなるんです」
「そうか。それは嬉しいな」
父が穏やかに頷く。
ミオはその横で、賞状を持ち直した。
父に褒めてもらえたことも嬉しかった。
でも、それと同じくらい、今ここで三人と一緒に自分の絵を見ていられることが嬉しい。
しばらくすると、少し離れたところから父を呼ぶ声がした。
父はそちらへ顔を向け、ミオたちに向き直る。
「そろそろ戻らないとな」
「うん」
「今日は本当におめでとう。また家で話そう」
「……うん。ありがとう、お父さん」
父は三人にも軽く頭を下げてから、呼ばれた方へ歩いていった。
ミオはその背中を見送る。
何もかも分かってもらえたわけではない。
それでも、いつもより少し長く、自分の絵について話せた気がした。
「ミオちゃん、ほかの展示も見に行く?」
陽華の声に、ミオは振り向いた。
遥斗はもう次の展示板を見ていて、玲奈は賞状を落とさないようにと笑っている。
「はい。まだ見たい絵があるので」
「じゃあ、行こうか」
四人で歩き出す前に、ミオはもう一度自分の絵を見た。
青は、さっきと同じ場所に残っている。
自分が好きで選んだ色だった。




