第10話『残っていたもの』
第10話『残っていたもの』
休日の午後、陽華は自分の部屋でスケッチブックを開いていた。
机の上には学校で使っている鉛筆と消しゴム、その横にはずっと前から持っている古い鉛筆削りが置いてある。
新しいものと古いものが同じ机に並んでいるのが、少しだけ変な感じだった。
陽華は描いている途中の紙から顔を上げ、机の向こうに置いたモチーフを見る。
形を確認して、また紙へ戻る。
一本線を引く。
少し違う気がして消す。
もう一度引く。
今度はさっきより少しだけ短くした。
(ここかな)
全体を見る。
また気になるところが見つかる。
鉛筆を止めた時、授業中に言われた言葉を思い出した。
「松澤、あんまり最初から決めすぎるなよ」
先生はそう言っていた。
別に怒られたわけではない。
陽華の絵を見ながら、いつもの調子で言っただけだった。
(決めすぎる、か)
自分ではそんなつもりはない。
ただ、なるべくちゃんと見て描きたい。
変なら直したい。
違っていたら消したい。
その繰り返しだ。
陽華は消しゴムを持ち上げる。
さっき引いた線へ近づけて、少し止まった。
◇
高校生の頃も、よく絵を描いていた。
美術部へ入ったのも特別な理由があったわけではない。
昔から絵を描くのが好きだったから、そのまま入った。
放課後になれば美術室へ行き、友達と話しながら描いたり、一人で黙って描いたりした。
一度だけ作品が入選したこともある。
結果を聞いた日は嬉しかった。
家へ帰って母に見せたら、自分のことみたいに喜んでくれた。
父も、
「よかったな」
と言った。
その頃は、絵を続ける未来を考えたこともあった。
美術系の学校を調べたこともある。
でも高校三年になると、それだけでは決められなくなった。
「美術の方に行くのか?」
父に聞かれた時も、陽華はすぐに答えられなかった。
「まだ分かんない」
本当に分からなかった。
絵は好きだった。
でも好きだから、そのまま仕事にできるのかは分からない。
周りが進路を決めていく中で、自分だけがいつまでも迷っているような気がした。
父がいくつか大学を調べてくれた。
就職のことも話した。
陽華も資料を見た。
その方が安心なのかもしれないと思った。
最後まで納得したのかと言われたら、よく分からない。
ただ、反対するほどの理由も持っていなかった。
結局、父が勧めた大学へ進んだ。
◇
大学へ入ってから、すぐに嫌になったわけではなかった。
授業へ行き、友達も少しできた。
最初のうちは、これでよかったのかもしれないと思っていた。
けれど少しずつ、大学へ行くことそのものが重くなった。
朝起きて、行かなきゃと思う。
電車へ乗って、今日も一日ここにいるのかと思う。
何が嫌なのか、自分でもうまく説明できなかった。
だから余計に困った。
明確な理由があれば、まだ誰かに話せた気がする。
休む日が増えた。
そのうち、行かない日の方が楽になった。
そして大学を辞めると決めた。
「やめて大丈夫なのか?」
父に聞かれた。
陽華はその時の自分の顔を、もうよく覚えていない。
「大丈夫」
そう答えたことだけは覚えている。
何が大丈夫なのかは、自分でも分かっていなかった。
でも大丈夫じゃないとは言えなかった。
◇
大学を辞めてから、いくつか仕事をした。
始める時は毎回、今度こそと思った。
今度はちゃんと続けよう。
今度は大丈夫。
そう思って始める。
それでも長く続かない。
辞めて、また探して、また始める。
家にいる時間が増えるほど、父とは話さなくなった。
心配されていることくらいは分かっていた。
でも父の言葉はいつも、自分ができていないことを確かめられているように聞こえた。
だから聞きたくなくなった。
そのうち必要なこと以外、ほとんど話さなくなった。
恋人ができた時期もあった。
自分に彼氏ができるなんて、付き合い始めた頃は少し不思議だった。
八か月ほどで別れた。
大きな喧嘩をしたわけではない。
ただ続かなかった。
大学も。
仕事も。
恋人も。
そうやって並べると、何だか全部同じように見えた。
(私、何なら続くんだろ)
そう思ったことがある。
その時も答えは出なかった。
◇
陽華は机の上を見る。
使いかけの鉛筆。
少し汚れた消しゴム。
端の擦れた古いスケッチブック。
大学を辞めたあとも、まったく描かなかったわけではない。
仕事から帰ってきて、何となくテレビを見ながら描いたこともある。
休みの日に窓の外を見て、近所の家を描いたこともある。
何か月も描かなかった時期だってあった。
絵を仕事にしたいと強く思っていたわけでもない。
上手くなろうと必死だったわけでもない。
それでも画材を全部捨てたことはなかった。
スケッチブックも、何冊か残していた。
理由を考えたこともなかった。
(なんでこれだけ残ってるんだろ)
古いスケッチブックを手に取る。
適当な線で描かれたマグカップ。
途中まで描いた手。
形の崩れた猫。
今見ると直したいところばかりだった。
それでも、捨てようとは思わなかった。
専門学校を調べ始めたのも、最初から明確な目標があったわけではない。
このまま何となく仕事を探して、また辞めてを繰り返すのが怖くなった。
だったら一度、ずっと残っていたものをちゃんとやってみようと思った。
それだけだった。
「絵でこれから食べていくことが出来るのか?」
専門学校へ行きたいと話した時、父はそう聞いた。
陽華には答えられなかった。
できるとは言えなかった。
できないとも言いたくなかった。
「分かんない」
結局、そう答えた。
父はしばらく黙っていた。
反対されたような気がした。
今でもあの言葉を思い出すと、少し胸の奥が重くなる。
でも父が何を考えていたのか、本当のところは分からない。
◇
陽華はまた課題の紙を見る。
二十八歳。
卒業する頃には三十歳。
入学する前は、その数字ばかり気になっていた。
教室へ入って十八歳や十九歳の学生を見た時は、やっぱり場違いだったかもしれないと思った。
だから遥斗が二十六歳だと知った時は少し安心した。
ミオが十八歳だと知った時は、やっぱり遠いと思った。
今は昼休みに三人でご飯を食べている。
昨日はミオの方から声をかけてきた。
その前の日には、自分から画材屋へ誘った。
「今日はいいです」
思い出すと、まだほんの少しだけ恥ずかしい。
(調子乗ったかもって思ったんだよな)
断られた瞬間、そう思った。
誘わなければよかったのかもしれない。
まだそこまでじゃなかったのかもしれない。
いろいろ考えた。
でも次の日になったら、ミオは普通に、
「お昼行きますか」
と聞いてきた。
何も変わっていなかった。
(断られたからって、別に間違いじゃないんだよね)
当たり前のことなのかもしれない。
でも陽華には、少し新しかった。
相手が嫌ならどうしよう。
変に思われたらどうしよう。
今言っていいのか。
まだ早いのか。
いつも先に正しい答えがあるような気がしていた。
絵も同じなのかもしれない。
どこへ線を引けば正しいのか考える。
違ったら消す。
なるべく間違えないように、全体を決めてから描こうとする。
ミオは違った。
「私は全部描こうとすると、途中で分からなくなります」
そう言っていた。
「だから見えたところから描きます」
陽華にはできない描き方だった。
だから、あの書きかけの絵が気になったのかもしれない。
形が全部決まっていないのに、ちゃんとそこに何かがあった。
人との関係も、最初から形が決まっているわけではない。
ミオの捨てた絵を拾った。
隣で描いた。
一緒に昼を食べた。
画材屋へ誘ったら断られた。
でも次の日も一緒に昼を食べた。
一つずつ並べてみると、どこにも最初から決まった形なんてなかった。
(そっか)
陽華は小さく息を吐く。
何が分かったのかと聞かれたら、まだうまく答えられない。
ただ、全部決めてからじゃなくてもいいのかもしれない。
少しだけ、そんな気がした。
◇
机の上の課題へ戻る。
さっきから気になっている一本の線を見る。
消しゴムを持ったまま、しばらく眺めた。
(……どうしよう)
やっぱり少し違う気はする。
でも今すぐ消さなくてもいい気もした。
陽華は消しゴムを机へ置いた。
別の場所へ鉛筆を置く。
そこからもう一本、線を引いた。
それで合っているのかは分からない。
少し描いてから考えればいい。
卒業したあと何をするのかも。
絵で食べていけるのかも。
今度こそちゃんと続けられるのかも。
まだ分からないことばかりだった。
それでも今は学校へ行っている。
絵を描いている。
大学も仕事も恋人も、途中で終わった。
でも絵だけは、気づいたらまだここに残っていた。
陽華はもう一度モチーフを見て、鉛筆を動かした。




