4 絆の血と女神の口づけ
修練が始まった。
毎日ただひたすら木の棒を振るう。
上から下へ。
右から左へ。
上段斬り。
袈裟懸け。
逆風。
無心で、ただ目の前の暗闇を切り裂く。
夢中で棒を振り続け、体力の限界まで、そして、その果てまで――。
気が付けば、気絶して倒れていることもあった。
「……ん?」
そんなある日、口元に苦みのある何かがしたたり落ちていることに気付いた。
「ララ……?」
ララべリアを俺はいつしか『ララ』と愛称で呼ぶようになっていた。
そのララが俺に向かって白い手を差し伸べている。
彼女は岩につながれているが、その鎖は十メートルほどあり、俺が素振りをしている場所まで近づくことは可能だ。
「カイ、私の血を飲んで」
ララが言いながら、反対側の手の爪で手首を傷つけた。
つーっと赤い血が滴り落ちる。
「血を……飲む?」
「私の加護で老衰では死なないわ。でも、あなたは激しい修練で生命力を極限まで消耗している。女神の血で回復しないと、魂が耐えきれずに消滅するの」
ララの微笑みは優しかった。
優しくて、儚げだった。
なるほど、女神の加護があれば死なない――というのは、そういう意味だったのか。
「――ありがとう」
俺はその血をすすり飲んだ。
苦く、温かい。
それはただの血液ではなかった。
濃厚な魔力と生命力が、乾ききった体に流れ込んでくる。
枯渇していた体力が瞬く間に回復していくのが分かる。
傷ついた筋肉が再生し、より強靭なものへと作り替えられていく感覚があった。
修行を続け、この血で回復をすれば、俺はそのたびに強くなれる――。
修練の合間に、俺は白骨が転がる場所へ戻ることがあった。
俺は岩壁に、一本ずつ傷を刻んだ。
白骨一つにつき、一つ。
彼らの名前は分からない。
何を知り、何に逆らい、何を失ったのか。
ただ、ここで死んだ者がいたことだけは残しておきたかった。
せめて俺の記憶に、そして奈落に、その記憶を刻んでおきたかった。
「何をしているの?」
ララがたずねた。
「忘れないためだ」
俺は木の棒を握り直した。
「地上に戻ったら、こいつらの無念も持っていく。その約束だ」
「……そう」
ララはうなずいた。
「なら、私も覚えておくわ」
「無理に覚えなくていい」
「いいえ。覚えておきたいの」
ララの声は穏やかだった。
「記憶は……思い出は大切なものよ」
ハッとするほど切なげで、悲しげな表情だった。
俺はそれ以上何も言わなかった。
ただ、もう一度だけ岩壁を見た。
そして修練に戻る。
来る日も来る日も、俺はひたすらに木の棒を振った。
極限まで己を追い込み、飢えと疲労で倒れる。
そのたびに、ララが自身の血を与えてくれた。
俺は回復し、ふたたび立ち上がり、棒を振る。
何度も、何度も、何度も。
単調な素振りを繰り返していると、時には心が壊れそうなほど苦しくなる。
そんなときはララが俺に寄り添い、昔話をしてくれた。
『天界』と呼ばれる神々の世界で暮らしていたころの穏やかな暮らし。
楽園の風景。
慈愛にあふれた神々。
そして下界に降りれば、人間たちとの交流があった。
昔を懐かしむ彼女の顔は優しげで、俺も温かい気持ちになれた。
そうやって癒されながら、また復讐の念を燃やしなおして、俺はふたたび修行を始める。
何度も、何度も、何度も。
ある日、俺はララの異変に気づいた。
素振りを終えて、いつものように彼女から血をもらおうとした時だ。
ララの顔が以前よりも白くなっていた。
「どうした、ララ。顔色が悪いぞ」
「なんでもないわ、カイ。少し疲れただけ」
ララは微笑んだが、その表情には力が感じられない。
「……嘘をつくなよ」
俺は納得できずに問い詰めた。
「本当のことを言ってくれ」
ララはしばらく黙っていたが、やがて告げた。
「……邪神の呪いよ」
「呪い?」
「私の血を分けるたび、力と記憶が失われていくの」
「……!」
俺は息を呑んだ。
「天界で見た景色や、大切だった人たちの顔。思い出が少しずつ消えていくのよ」
「じゃあ、今までもずっと――」
言葉を失う。
俺を助けるために、彼女は自分自身を削っていたのだ。
「でも、邪神に関する知識や世界の真実は残っているわ。それだけは魂に刻み込まれているから」
ララが言葉を続ける。
それは俺にとっては必要な知識だ。
けれど、ララにとって――より必要な記憶は思い出の方だろう。
「……もう、お前の血は飲まない」
俺はララの手を放し、背を向けた。
「そんな犠牲を払わせてまで強くなりたくない」
「駄目よ、カイ」
ララは首を振った。
「あなたが歩みを止めれば、ここで全てが終わってしまう。今のあなたは私にとって希望なの」
「希望……」
「邪神によってここに落とされ、幽閉され……朽ちていくこともできず、永遠に絶望を続けるだけだった私にとって、あなたは希望なのよ」
ララが俺を見つめる。
その瞳には涙があった。
「もう一度言うわ。私のせいで歩みを止めないで」
「違う、俺は――」
ララはみなまで言わせず、俺の唇に自らの唇を重ねた。
「っ……!?」
突然の口づけに、俺は驚いて立ち尽くす。
ぬるりとした血の味が伝わってきた。
ララが自分の舌を噛んで、その血を口移しに流し込んできたのだろう。
「ララ、何を――」
「これでいいの」
唇を離したララは切なげにほほ笑んだ。
「記憶が消えるたび、私は『女神』ではなくなっていく……でもね、その分だけ、あなたの『ララ』になっていける気がするの」
彼女の眼帯越しに、恍惚とした視線を感じた。
「俺の、ララ……?」
「私の中の記憶や力が消えても、それはあなたの中で生き続けるわ」
呆然とする俺に対し、ララが言葉を続ける。
「私が失っていくものを、あなたが力に、剣に変えてくれている。そう思えば、少しだけ怖くない」
もし、そうだとしたら――。
俺の強さは、俺一人のものじゃない。
彼女が削った命と記憶の上にある。
ララが、俺に力を与えてくれている――。
「今は預かっておくよ。だけど必ず、お前に全部返してやる」
俺は覚悟を決めた。
彼女から受け取った命と記憶は、いつか必ず返す――その方法を見つけてみせる。
けれど、すべては力を得てからの話だ。
すべては、ここから出て――為すべきことを成した後だ。
俺はふたたび木の棒を握り、闇に向かって構えた。
「信じているわ、カイ」
ララは優しく笑った。




