②わたしの聖域だった彼が邪魔に感じる瞬間
ふとスマホを見ると、凪くんからLINEが入っていた。
飲み会の詳細、そして続く何気ないやりとり。
誘われるままに公園デートを重ねるうちに、私たちは「お花見」という約束を交わしていた。
新しい恋の予感に、胸がどきどきと高鳴る。
凪くんと過ごす時間は、結菜を少しだけ「飼い犬」ではない、一人の女の子に戻してくれるような気がしたからだ。
それなのに、その約束の直前、金曜日の夜にみーくんが突然現れた。
いつもなら事前に連絡をくれるのに、その日は不意打ち。
結局、金曜の夜を過ごし、土曜の朝を迎える。
「今日も泊まる?」
わたしが尋ねると、彼はむしろ「いい?」と問い返してきた。
わたしが困ったように見つめると、彼はいつものように髪を優しく撫でる。
「そんな心配そうな目すんなよ。今日も泊まるよ」
終わった、と思った。
日曜のお花見をどうすればいいのか。キャンセルするべきか、それとも「外せない用事がある」と嘘をつくべきか。
頭の中が真っ白になる。
あれほど求めていたはずのみーくんが、今は凪くんとの未来を「邪魔する存在」に感じられてしまう。
凪くんのために作るはずだったサンドイッチのことも頭をよぎる。
もしわたしがキッチンに立っていたら、みーくんはきっと細かく問い詰めてくるだろう。その時、わたしは正直に話せるだろうか?
……できない。わたしにはまだ、彼を否定する勇気も、真実を語る強さもなかった。
わたしは震える指で、凪くんにメッセージを打った。
『ごめんね。どうしても外せない用事ができて、明日行けなくなっちゃった。また連絡するね』
送信ボタンを押して数秒後、返信が届く。
『そっか、用事があるなら仕方ないね。残念だけど、またどこか遊びに行こう』
凪くん、なんて人だろう。神様みたいに優しい。
でも、その優しさが胸に刺さる。
本当に行きたかった、と、逃したチャンスがたまらなく残念で、胸が締め付けられた。
日曜日の朝。
出かける準備を始めたみーくんを、結菜はぼんやりと見ていた。
「どこか行くの?」
彼は悪びれもせず「人に会いに行く」と答える。
みーくんは、いつもこうだ。
予定があるなら昨日から言えばいいのに。
あまりに勝手で、自己中心的なその振る舞い。
普段なら、わたしは大人しく「わかった」と従っていたはずだ。けれど、今は違う。
わたしの胸の中で、これまでにない熱い怒りが渦巻いている。
キャンセルしたのは、あなたと過ごせると信じていたからだよ? それなのに、なんだよ。
わたしの様子を察したのか、彼はわたしの頭を撫でながら「ごめんな。今日は帰れないけど、また来るから大人しく待ってて」と甘く告げる。
その見当違いな優しさが、今のわたしには酷く残酷に響く。
——いつまでもわたしが、おとなしく待っていると思うなよ。
心の中で毒づきながらも、表面的には「うん、またね」と彼を見送った。
午前十時前。まだ間に合うかもしれない。
わたしはすがるような思いで凪くんにLINEを送った。
「今日の用事がキャンセルになったの。お花見、行けるかも……」
返信を待つ時間は、永遠のように長く感じられた。
しばらくして届いた通知。
凪くんは「予定を入れちゃった、ごめん」と返してきた。
タイミングを外してしまった。
ガッカリして肩を落としたその直後、追いかけるようにメッセージが届く。
『夕方なら、5時すぎていいなら会えるけど、どう?』
「はい!」
反射的に即答していた。
午後五時過ぎ。
駅前で待ち合わせた凪くんは、スマホの画面を私に見せてくれた。
『夜桜、見に行かない?』
そこにはライトアップされた美しい桜と「さくらまつり」の文字。
わたしは「すごい! きれい、行きたい!」と即答し、わたしたちは公園へと向かった。
夜の公園、たくさんの屋台、人混み。普段のわたしなら絶対に縁のない、ハイテンションな夜。
凪くんはおとなしいけれど、彼といると空気が澄んでいる気がする。
人混みを離れ、静かな場所を探して歩いた。
「あ、ここからでも桜きれいに見えるね」
そう言って横を向くと、凪くんは真面目な顔で、じっとわたしを見つめていた。
……なに?
わたしの視線に気づいた凪くんは、「あ、うん、きれいに見えるね」とハッとしたように慌てて視線を逸らした。
帰り道。
夜風が冷たく、わたしが「手が冷えちゃった」と言うと、凪くんはその手をそっと繋いでくれた。
心臓がとくんと跳ねる。
うわぁ……なにこれ。手をつなぐなんて。
彼の手は温かくて、寒かったはずの体がじんわりと熱を帯びていく。
わたしたちは無言で歩いた。
言葉はいらない。ただ、繋いだ手のひらから伝わる体温だけで、わたしたちは今、恋人同士みたいだった。
わたしの家の前に着いてもまだ手をつないだまま、わたしたちは見つめ合う。
今にもキスが降ってきそうな空気。
けれど凪くんは、ふっと目をそらし、ゆっくりと手を離した。
「じゃあまた……週末に、カフェでも行こうか」
「うん、またLINEするね」
そう言い残して去っていく背中に、わたしは精一杯の笑顔でバイバイと手を振った。
胸の高鳴りを抱えたまま、鍵に手をかけた、その瞬間だった。
「おかえり」
暗闇の中から、聞き慣れた声がした。
見ればそこには、冷ややかな瞳でわたしを見下ろす、みーくんが立っていた。




