第197話 母棗の愛
万が一があってはいけない。
駅へと続く表通りは避け、私は霊園の中央を貫く細い通りへと歩を進める。
お盆のこの時期、早朝から墓参に訪れる人々の足を拾うため、霊園内の路地にも流しのタクシーがゆっくりと入り込んできているのだ。
幸い、前方から空車のランプを灯した一台が、逃げ水に揺れながらゆっくりと近づいてくるのが見えた。
青々と葉を茂らせた桜の巨木が落とす、濃い影の下。
そこでそっと片手を挙げると、黒塗りの車体は吸い寄せられるように私の傍らで停車した。
スカートの裾を軽く押さえながら後部座席に身を沈め、自動ドアが閉まる。
私はバックミラー越しに、運転手へと静かに告げた。
「世田谷区の岡本三丁目まで。岡本の富士見坂の上でお願いできますか」
「かしこまりました。世田谷の岡本ですね」
初老の運転手が行き先を復唱し、車が滑らかに走り出す。
冷房の効いた車内が涼しい。そのままシートに深く背を預け、私は一つ、ゆっくりと息を吐き出した。
たった今、水無月家の墓前に置いてきた『くじょう あおい』としての情愛と脆さを、心の最も深い場所へ厳重に封じ込める。
ここから先は、九条の娘としての時間が必要になるかもしれない。
纏うべきは、いかなる感情にも揺らぐことのない母譲りの氷の鎧。
一週間ほど前、お母様から今日戻るようにとだけ連絡があったわ。
理由は『例の件よ』の一言だけ。
ちょうどよかった。お母様と真希さんには、私自身もあの件について──そう、藤堂の一件について、改めてきちんとお礼を言っておきたいと思っていたところだったから。
窓の外、世田谷の静謐な住宅街が後ろへと流れていく。
車が富士見坂の勾配に差し掛かると、エンジンの唸りが高くなる。まるで私の内心の強張りを代弁しているかのようで、自然と膝の上の手に力が入った。
タクシーを門前へと誘導し、停車させる。
「ふわぁ……随分と立派なお家だねえ」
「そうですか」
運転手さんの素直すぎる感嘆に、私はそれだけを返す。
大切な人たち以外には、驚くほど愛想がない私。無駄な口を開かぬよう教え込まれてきた九条の教えは、どうやら私の骨の髄にまで染み付いてしまっているらしい。
たった一人、あの人の前という例外を除いて。
代金を支払い、外へと一歩踏み出した瞬間、八月の暴力的な熱気が肌にまとわりついた。
「暑いわね……」
思わず漏れた独り言。
鞄の奥にはこの家の鍵が入っているけれど、高校生になってから初めての帰宅。……いいえ、今の私にとっては、ここは『帰省』先になるのかしらね。
どっちなのだろう。
そんなことを考えながらインターフォンへ指を伸ばすと、応答よりも早く、静かに玄関が開いたわ。
そこに立っていたのは、いつもの使用人たちではなかった。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
一本筋の通った、涼やかな声が通り抜ける。
一条 真希さん。
九条の分家にあたる一条家の子女であり、お母様の右腕として辣腕を振るう才女。私に護身術を叩き込んだ師でもある。
「真希さん。……ただいま戻りました」
「左様でございますか。……ふふっ、今日は一段と九条らしいお顔をされていますわね。私は、あの方の前で見せるような『素』のお嬢様の方が好みですけれど」
「す、素って何よ。……もう、帰って早々揶揄わないでちょうだい」
せっかく纏った氷の鎧が、早くもピキリとひび割れる。
本当に、この人には敵わない。私の心の揺らぎを、組手で隙を突くように、正確かつ容赦なく弄って遊んでくる。
「失礼いたしました。……ですが、棗様も同じことをおっしゃられると思いますよ」
「やっぱり、引き返そうかしら」
半分本気でそう呟いて、私はわざとらしく踵を返そうとする。
そして、すぐに後悔した。
真希さんには、そんな私の子供じみた抵抗など一切通用しないことを思い出したから。ただ強烈に愛でられて、私の羞恥が増すだけ。
そんなことを今さら思い出すだなんて。
やはりここは、私にとって久方ぶりの帰省先なのだと、情けないほどの気恥ずかしさと共に思い知らされる。
「ああっ。……やはり、お嬢様はお可愛い……っ。返すのが惜しくなってしまうくらいに」
感嘆を漏らし、熱っぽい瞳を潤ませる真希さん。
その過剰な愛でようは、私が必死に用意してきた『九条家の葵』という氷の鎧を、いとも容易く、甘く溶かしていくから始末が悪い。
いけない。……これでは鎧どころか、ただの甘いアイスクリームのようだわ。
形を保てなくなる前に、一刻も早くこの場を離れなくては。
「っ……! もういいから、中に入らせてちょうだい!」
私は染まり始めた顔を隠すように、足早にリビングへと進んだ。
背後で真希さんが「ふふっ」と満足そうに笑う気配を感じながら。
冷房の効いた広すぎるリビングの扉を開けると、そこには、真希さんに負けず劣らず私を可愛がって(弄って)くる、我が家の絶対者が座っていた。
ああ、頭が痛い。
これっぽっちも勝てる気がしない。どうしたらいいの?
「お母様、お久しぶりです。ただいま戻りました」
私は入り口で一度足を止め、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げる。
けれど、ソファから立ち上がったお母様は、私のそんな儀礼などまるで目に入っていないかのように、優雅に、それでいて滑るような足取りでこちらへと歩み寄ってきた。
「あらあら、葵ちゃん。本当にお帰りなさい」
私が顔を上げ終えた時には、母はもう目の前にいた。
挨拶を続けようとした私の言葉を遮るように、細い腕が私の肩を包み込み、そのまま優しく抱きしめられる。
ふわりと漂う、お母様が愛用している白檀の香りが、一瞬で私を『この家の娘』という本来の居場所へと引き戻していく。
「お、お母様……もう子供じゃありませんから。恥ずかしいです」
「あら、久しぶりに帰ってきた我が子を抱くのに、何が問題なの? これは母親の特権よ。大人しく撫でられていなさいな」
母は事も無げにそう言うと、いとおしむように私の頭や背中を幾度も撫で続ける。その柔らかな手つきに、どう返したらいいのかわからなくなる。
……ふと思ってしまう。
一度愛したものを、どこまでも深く慈しみ、守り抜こうとするこの苛烈さ。
底の知れないこの過保護なまでの愛情深さは、ひょっとすると……私も、この母から色濃く受け継いでしまったのかもしれない。
そうして、ひとしきり私を愛でたあと。
お母様はようやく腕の力を緩めてくれたけれど、代わりにその瞳は至近距離で私を捉えたまま離さないから、状況は何も変わらない。
「葵ちゃん、また綺麗になったのではないかしら。……そう思わない、真希?」
「ええ。本当にお綺麗になられました。見惚れてしまうほどに」
「蒼ちゃんの、おかげかしら」
「……その可能性は、大いにあろうかと存じます」
「や、やめてちょうだい! どうしてそうなるの!?」
逃げるようにお母様の手から離れると、今度は少し離れた場所から、お母様が満足そうに私の全身を見つめ直した。
その瞳は、愛娘の成長を喜ぶ慈愛と、九条の最高傑作としての価値を測る冷徹な審美眼が同居していて。
深く、冷たく、けれど確かに私を絡め取る愛氷の眼。
「お婆様の血、かしらね。私よりも色濃く出ているわよ、その美しさは。……もっとも、今はあなた自身が、それを上手く隠してしまっているけれど。ねえ?」
お母様はそう言って、私の頬を指先で軽く撫でてくれた。
この母は、私の計画の全貌をすべて知っている。
高校進学と同時に一人暮らしを始めたことも。
この家に生まれ落ちながらモデルとして働き、自らの足で立つ術を得ようとしたことさえも。
そして、この国の女子最難関である『お茶の葉女子』を辞めたことも。
……知っていて、あえて今日まで自由にさせてくれていたのだ。
どちらにせよ、この母を欺いて私にできることなど、何一つなかった。あの頃、ただ一途に彼を想うことしかできなかった、無力な中学生だった私には。
──だからこそ、包み隠さずすべてを打ち明けたのだ。
「……お母様。あの時、私の我儘を認めてくださって、ありがとうございました」
~あとがき~
第197話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。
氷の鎧を纏って実家へと帰省したはずが、お母様の棗様や真希さんの前では、あっけなく「甘いアイスクリーム」にまで溶かされてしまった葵さん。
蒼くんの前で見せるものとはまた違う、逃げ場のない愛に翻弄される彼女の「娘」としての姿を描きました。そして、あの『重愛』のルーツが、実はこの圧倒的なお母様から受け継がれた遺伝であったことが垣間見える回となりました。
もし今回の九条家でのやりとりに、お母様に甘やかされる葵さんに「面白かった」「可愛い」と感じていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、作品を応援していただけると執筆の大きな励みになります。
30万PVという大きな節目を越え、物語はいよいよ彼女たちの不可逆な夏休みへと進んでいきます。
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