第196話 八月の水鏡、私の里帰り
「二人とも立派に働いてるのは分かったわ。でも、夏期課題はちゃんとやってる? うちの学校、進学校だけあってなかなかの量でしょう? バイトに明け暮れすぎて終わりませんでした、なんてやめてよ」
「大丈夫ですよ。僕はもう半分くらい終わりましたから」
「さすが水無月くんね。……九条さんは?」
急に話を振られた葵さんは、手にしていた水差しを静かに置きながら、こともなげに答える。
「私はもう、すべて終わらせました」
「「ええっ!?」」
俺と先生の声が綺麗に重なり、八雲さんまでが少しだけ目を大きくしている。
まだ夏休みは前半を過ぎたところだぞ。あの山のような課題を、モデルもこなしながら片付けたというのか? 信じられない……。
「はは。九条ちゃんの、面目躍如……といったところか」
「……だとしても、早すぎませんか」
「ふふ。車での移動中ですとか、楽屋での待ち時間とか。そういう時にやっていたら終わってしまったんです」
さらりと言ってのける葵さんに、俺は完全に言葉を失った。
そうであってもだ。忙しいスケジュールの中で、あんな量の課題をすべて終わらせるだなんて。
これが、才媛と呼ばれる人間のタイムマネジメント能力なんだろうか。
だけど、理由はそれだけではなかったらしい。
「それに……勉強していたら、寂しくもありませんし。ね、蒼くん」
その言葉が落ちた瞬間。
新しい珈琲豆を計量スプーンで掬っていた八雲さんの手がピタリと止まり、酒々井さんも口元に運ぼうとしていた珈琲カップをそっとソーサーに戻した。
「え……」
「やれやれ、お手上げだ。コメントのしようがない」
「ホント、ホント。ご馳走様」
呆れたように肩をすくめる八雲さんと、楽しげにくすくすと笑う酒々井さん。
大人たちの生温かい視線を一身に浴びて、俺はいたたまれずに顔を伏せた。……頼むから、これ以上こんな場所で甘すぎる爆弾を落とさないでほしい。
「……もう。当てられっぱなしで逆にこっちが熱を出しそうよ。でもまあ、理由はともかく、二人とも優秀なのは間違いないわね」
先生は先の二人とはまた違った反応で。
呆れたように息を吐きつつも、どこか誇らしげに俺たちを見つめる。
「水無月くんも半分終わっているなら上出来よ。九条さんに至っては言うことなし。……だからこそ、余裕がある今の内に準備しておきなさい」
「準備、ですか?」
「ええ。──パスポートよ」
唐突に出てきた単語に、俺は思わず聞き返した。
「パスポートって、あの飛行機に乗るときのですか?」
「そう。うちの学校、三年生のクラス次第では、アメリカへ海外研修に行くプログラムがあるのよ。二人の選択次第だけど、十分ありえる話でしょ? 成績は問題ないのだから。いざという時に慌てないように、時間がある夏休みの間に取っておくのがおすすめよ」
「わかりました……」
アメリカ。海外研修か。
そんな遠い話、俺にはまだピンとこなくて、曖昧な返事しかできないや。
「ちなみに……九条さんは持ってたりするの? パスポート」
「ええ、持ってるわよ。水無月くん」
……って、急に『水無月くん』に変わったぞ。
俺が今も、さっきも、先生の前でかたくなに『九条さん』と呼んだことを、どうやらこの才媛サマは少々拗ねていらっしゃるらしかった。
そんな俺たちの様子に気づいているのかいないのか。
すっかりカップも空になり、帰り支度を始めた酒々井さんが、カウンターの端に立つ葵さんにこっそりと小声で耳打ちをした。
「ねえ、ナナって最近よくこのお店に来てるの?」
「私は夏休みに入ってからシフトが減っているので……水無月くん、どうなんですか?」
葵さんが、滑るように俺のそばへと寄ってきて小声で尋ねてくる。さっきの件を色々と含ませた、ジト目気味の視線つきで。
「いや、そういうのって、先生のプライバシーなんじゃ……」
「こう言ってますけど?」
「こう見えて私はナナの親友よ。だからいいのよ。聞く権利があるわ」
酒々井さんの見えない圧に、俺は思わずたじろいだ。
物理的な距離は変わっていないはずなのに、彼女の瞳に射抜かれて、後ろへ下がりたい衝動を覚える。
「うーん、わかりました。その代わり、もし先生に聞かれたら『酒々井さんがどうしても折れてくれなかった』って、正直に言いますからね?」
「もちろん、どうぞ〜。悪役は引き受けてあげるわ」
「……そういうことであれば。じゃあ。休みに入ってからは結構来てるかもしれません」
「……だそうです」
葵さんが酒々井さんへ、報告するように首を傾ける。
「へえ、なるほどねぇ。これは、いよいよかも」
「……ですって、水無月くん」
酒々井さんの言葉をなぞるように、今度は葵さんが俺の方を向いて、その言葉をリピートした。
いや、だからさ!
俺の言葉をいちいち葵さんが復唱して酒々井さんに伝え、また戻ってくるこの無駄極まりない伝言ゲーム、なんなの!?
俺が名前で呼んであげなかったことへの、ささやかな嫌がらせなのか!?
内心で盛大にツッコミを入れていると、ハンドバッグを手にした酒々井さんが、最後に俺に向かって楽しげにウインクを飛ばした。
たぶん彼女流の、はた迷惑すぎる置き土産。
「水無月くんも、九条さんに捨てられたらいつでもおいで。お姉さん待ってるから」
「っ!? もう、早く帰ってください!」
「あははっ、はーい」
俺が答えるより早く、顔を真っ赤にした葵さんがピシャリと言い放つ。けれど、その声に本気の棘は混じっていない。
追い出される形になった酒々井さんは、くるりとカウンターの奥へ視線を向けた。
「じゃ、ナナ。私、先に帰るわね」
「ええ。真理、気を付けて」
友人同士の短い挨拶を交わし、酒々井さんは満足そうに肩を揺らしながら一人で店を出て行った。
かつて俺を翻弄した妖艶さは影を潜め。不器用な俺たちを面白がりつつも見守ってくれるような、大人の余裕と温かさが漂っていたよ。
ほんの少しの色気を添えて。
ちょっと揶揄いが過ぎる時もあるけど。それはきっと彼女の人となりで、どうしようもないことなのだろう。
俺たちは大人たちに、本当に恵まれている。
それでも、本当に嵐のような人だったのは間違いない。俺と葵さんは並んで、カウベルの音と共に消えていったその背中を見送った。
そして、ふとカウンターの奥へ視線を戻すと。
そこには、俺たちのやり取りなど露知らず、八雲さんと何やら和やかに言葉を交わしている吉岡先生の姿があって。
「……なるほど」
確かにこれは『いよいよ』、なのかもしれない。
酒々井さんが残していった言葉の本当の意味を、俺は彼女がいなくなってからようやく理解したのだった。
* * *
盂蘭盆の朝、六時。
青山護国霊園を包む空気は、いつもと少し違う。
それは、これから始まる酷暑を予感させる重い熱を孕みながらも、どこか粛然としていて。じりじりと陽が強くなるにつれ、蝉の鳴き声が激しさを増していく。
耳を打つのは、絶え間なく降り注ぐ蝉時雨だけ。音の驟雨。
陽炎で視界が白く滲むその中で、私だけが、この冷たい石の前で時を止めている。
万が一にも、ここで彼と遭遇するわけにはいかない。
彼がここへ来るのは、陽が十分に昇ってからだろう。だからこそ、蒼くんが目を覚ますよりもずっと早く、私は一人、この静域に立っていた。
あの日からずっと続けてきた、私だけの贖罪と祈りの時間。
手桶の水を、水無月家の墓石へと丁寧に注ぐ。
昨晩のうだるような熱を溜め込んでいた石が、水を吸い込んで深い色へと変わっていく。
「おはようございます。蒼くんのお父さん、お母さん」
「今年も、暑くなりそうです。……でも、安心してください。蒼くんは毎日、元気にしていますよ」
小さくても、届くと信じて。
この地に満ちる安寧を乱さぬよう、私はさざ波を立てるような静かな声で言葉を重ねる。
「この前は、バレーボール大会で優勝したんです。嬉しくて、つい、学校だというのに蒼くんに抱き着いてしまいました」
あの時の彼の戸惑ったような、でも嬉しそうな顔を思い出して、自然と口元が緩む。
聞いてくれていますか。彼は今、あんなにも優しい顔で笑うのですよ。
それから濡れた布を手に取り、一生懸命に石を磨き続けた。
ちっとも辛くない。むしろ、こうして二人に触れられる時間が、私には何より大切で。
だってここは──かつて私を救い、断ち切られようとしていた私の命を、すんでのところで繋ぎ止めてくれた、命の恩人の眠る場所なのだから。
この二人がいなければ、彼に抱きついたあの眩しい記憶も、今の私の幸せも、何一つ存在しなかったのだ。
今またこうして、彼の隣で笑っていられる日々が訪れたのも全て。
でも、大好きな二人だったからこそ、救われたことが何よりも辛かった。
私の命と引き換えに、二人の未来が消えてしまったという事実は、今も癒えない傷となって、私の胸の奥を締め付ける。
墓石に触れる指先から、冷たい水の感触が伝わる。
本当なら、あなたたちを『お父さん』『お母さん』と呼びたかったの。願わくば、蒼くんと一緒に、家族として笑い合いたかった。あの頃みたいに。
叶うはずもないその願いを、私は誰にも言わず、この石の中にだけ閉じ込める。
その代わりに、ここで誓う。
あなたたちが遺した、世界でたった一つの宝物を、私が一生をかけて守り抜くと。
……でもね、蒼くんのお父さん、お母さん。
本当は、私も彼に愛して欲しい。
彼の特別になりたいと、誰よりも強く、そう願い続けてきたの。
この二人になら、そんな子供じみた本音だって素直に言える。彼の隣で、彼の愛を独占したいと願う不遜な私を……愚かな娘をどうか、許してください。
私は最後にもう一度、磨き上げた墓石を優しく撫でた。
指先に残る石の冷たさが、今の私の熱を鎮めてくれる。
「……また、十月に来ますね」
「それまでは、もう少しだけ、この甘い猶予を彼と過ごさせてください」
ふたりは何も応えてくれない。
ただ、磨き上げられた墓石は、朝の青い光を反射して、私の心を見透かす水鏡のように輝いていた。
私は一礼して、歩き出す。
蝉の声が一段と激しく降り注ぎ、街が完全に目覚めようとしていた。
墓石を磨き続けた腕に残る、鈍い疲労が心地よかった。
もう、直接恩を返すこともできない私にとって、この痛みにも似た重みだけが、今の私が彼らに捧げられる、唯一のものだったから。




