第194話 特大、中(やや大)、小
『も、もう……八雲さん、やめてよ……っ!』
頬を仄かに染めて、メニューの影に隠れてしまった先生。
そんな友人の様子を、隣に座る酒々井さんは楽しそうに目を細めて眺めていたし、俺も気になって仕方が無いから、ついつい調理の手を動かしながらも視線を向けてしまう。
すると、先生はメニューの上端から、顔を半分だけひょこっと覗かせて、焦った様子で八雲さんに向き直った。
「あ、あっ、彼女は私の親友で、学生の頃からの付き合いなんです……!」
「あらら〜、ナナったら。すっかりペース乱されちゃって。……初めまして、店長さん。吉岡 七海の友人で、酒々井 真理と言います。……なるほど、なるほど〜へえ?」
酒々井さんは、まるで面白い品評会でも始めるかのように、八雲さんを上から下までじっくりと眺めまわし、最後に小さく口角を上げた。
その視線は、親友がどうしてここまで骨抜きにされているのか、その『原因』をすっかり理解したと言わんばかりに物語る。
「酒々井さん、ですね。店長の和泉 八雲です。こちらこそ初めまして。七海さんからは、よくあなたのことを伺っていますよ」
八雲さんは、そんな相手の品定めするような視線すら、さらりと受け流して微笑むから凄い。百戦錬磨の『お姉さん感』ある酒々井さんを前にしても、全く動じていないのだ。大人の色香を前にして、少しも狼狽える様子がない。
俺や健太なんて、タジタジだったのに。
「あら、店長さん。ナナが私のことを? どんな風に話してたのか、とっても気になるんだけど~」
「昔からの友人で、とてもスタイルがよい方だと伺っていますよ」
「へえ~、そうなんだ。……でも」
酒々井さんは少しだけ身を乗り出し、八雲さんの反応を試すように、じっとその瞳を覗き込んだ。
「店長さんは、私にはアルバイトの声を掛けてくれないのね。ふぅん、ちょっと残念だわ」
「ちょ、ちょっと真理、いい加減に……!」
親友のあまりに直球な揶揄いに、吉岡先生が今日一番の悲鳴を上げる。
だが、八雲さんは眉一つ動かさず、穏やかな微笑を保ったまま言葉を返してみせた。
「いえ、あなたも、とても素敵だなとは思うんですよ。……ただね」
店長は、その言葉の意味をあらかじめ伝えるかのように、酒々井さんの『圧倒的』な部分へと、意図的に、けれど驚くほど潔い視線を向けた。
いやらしさの欠片も無い視線を戻し、彼は穏やかにこう言ってのける。
「当店の制服には、あなたに合うサイズがない」
「…………っ」
はあああ!?
ガッシャン!
あまりにスマートな、けれどあまりに強烈なその返しに。俺の手から滑り落ちたお玉が、ステンレスのシンクに激突して派手な音を立てた。
あんな返し方、ありなのか!?
それとも、なんだ。イケオジは何を言っても許されるのか?
理不尽ッ!?
……この人。この店長は。なんてことを、なんて涼しい顔で言ってのけるんだ。
暗に「君のプロポーションは規格外だ」と最大級の賛辞を贈りつつ、吉岡先生とは明確に線を引いてみせる。
いやらしい下心を一切感じさせず、相手の女性としての魅力を完璧に肯定して、なおかつ自分の守りたい領域はキッチリ死守する。凄すぎて、同じ男として溜息しか出ない。
ふと、その傍らに目をやれば。
カウンターの端で、葵さんが自分の胸元へ視線を落とし、少しだけ頬を膨らませていた。酒々井さんの『特大』を目の当たりにした後で、自分のサイズを再確認し、
『私は、制服に収まってしまうのね……』
と、何だか面白くなさそうに、ささやかな不満を漏らしているように見える。
──いや、葵さん、君は十分大きいから!
そんな何とも言えない、対抗意識を燃やしたような顔をしないでくれ!
たった二度ほど……その、触れただけでもわかる。それに、嫌っていうほど目に焼き付けられたからな。
あの、灰色の見せ下着姿だけは……!
思い出しただけで変な汗が出てくる。
「コホン」
俺はわざとらしく咳払いを一つして、この場に漂う毒気にも似た甘い空気を強引に切り裂いていく。
「葵さん。三番テーブル様、ナポリタンお待たせ」
「あ……っ、はい! 今行きます」
俺の声に、葵さんは慌てて顔を上げた。
さっきまでの複雑な表情は一瞬で消え、そこにあるのはどこか安心したような、穏やかな瞳だけ。
彼女は慌てた様子で料理を受け取ると、逃げるように三番テーブルへの配膳に向かっていった。
さて。
料理を出し終えてしまった以上、俺にはもう、この厨房の奥に隠れ続けている理由は残っていない。
俺は覚悟を決め、いよいよ戦場であるカウンターの前へと足を踏み出す。
「いらっしゃいませ。……吉岡先生。それに酒々井さんも。お久しぶりです」
俺の挨拶に、寂しそうに自らの胸元の『ささやかな膨らみ』を見つめていた先生が、慌てて顔を上げた。
女性ってのは、やはりああいうところが気になるもんなんだな。
……まあ、わからんでもないか。俺たちだって、男同士で風呂にでも入れば、自然とそういう比較や会話になるもんだ。
──と、そこで俺はハタと気づく。
待てよ。見事すぎるカウンターだと思ったあの八雲さんの『サイズがない』という返し。これ、乙女心的には大失敗だったんじゃないか?
だってほら、どうみても。
傍らにいる中サイズ(やや大)の葵さんと、小サイズの先生にとって、特大の流れ弾として直撃しているよな、あれ。
まさかのフレンドリーファイア!?
格差社会ッ!?
「あ、あら……水無月くん。お疲れ様、元気そうでよかったわ」
「やほ~水無月くん。元気にしてた? やだ、制服凄く似合ってるじゃない。また少し、いい男になった?」
「変わらないと思いますけど……」
相変わらずの酒々井さん流の揶揄いに、俺は苦笑いしかできない。
一方で、先生はちらりと店長の方を盗み見てから、俺と、もう間もなくここへ戻ってくるであろう葵さんに、困ったような視線を向け始める。
「……あの、ね。二人とも。今日はその……完全にオフでしょ。他のお客さんもいるなかで『先生』って呼ばれるのも、少し……不自然というか、ねえ」
「先生以外で、呼べということですか?」
俺が率直に尋ねると、先生の視線がまた泳ぎ、ちらちらと八雲さんの方を伺い始めた。
んん? どういうことだ?
あー、なるほど。もしかして、店長から『七海さん』と呼ばれたことを、必死に取り繕おうとしているのかな。
俺たちにも名前で呼ばせることで、「私はみんなとフランクに付き合っているだけですよ」ってことに、しておきたいとか?
……うわ、面倒くせえ。
大人って、なんでこうも素直になれないんだ。
「はぁ~。もう面倒くさいから、ナナちゃんって呼べばいいんじゃない? キャンプでもそう呼ばれてたじゃない」
「ナ、ナナちゃんは友達みたいでしょうが! 却下、絶対却下!」
酒々井さんの、この『空気を一瞬で読み取って、一番弄りやすいところに落とし込む』能力。
……恐ろしいものがあるよな、この人。
そして、それを真っ赤になって食い気味に否定する先生。
まさにそんなタイミングで。
ナポリタンの配膳を終えた葵さんが、音もなく俺の隣へと戻ってきた。
大人の「あざとい願い」などどこ吹く風。
彼女はまるで秩序の守護者のような、一切の妥協を許さない瞳で先生を見つめて言う。
「いいえ。私にとって先生は恩師であり、その事実は場所や時間が変わっても揺らぐことはありません。たとえ学校の外であっても、私は『先生』と呼ばせていただきます」
一分の隙もない、鉄壁の境界線。
あーあ。
せっかくの先生の「防衛策」も、この生真面目すぎる才媛様には通用しなかったらしい。
……とはいえ、俺だって彼女と同意見だ。
先生なりの事情や、照れ隠しのような『大人の都合』があったとしても、安易にその呼称を捨てる気にはなれない。
俺にとっても、吉岡 七海という人は。
親しみを持って名前で呼ぶには、あまりに多くのものを与えてくれ、可愛がって貰い過ぎた。
たぶん、俺は大人になっても、彼女のことを『先生』って呼んでいる気がする。
そんな俺たちの、融通の利かない生真面目さが、この場の空気を塗り替えたとき。
「──ぷっ、あはははは! いやあ、さすが九条ちゃんだ。期待を裏切らん!」
「て、店長っ!?」
それまで黙ってやり取りを眺めていた八雲さんが、ついに耐えきれなくなったように爆笑した。
カウンターに手を置き、背中を曲げて笑うその姿は、いつものダンディな余裕をかなぐり捨てた、心底楽しそうな悪い大人の顔をしていた。




