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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第五章 水無月は、七に守られ、八に導かれて。そして九へと至る

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第193話 真理、葵、七海

 あれから二人で、たくさん話をした。

 ほんの少しだけ、触れあえもした。

 そうして目が覚めた時、隣に彼女の姿はなかった。


 けれど、貸し出したスウェットが整然と畳まれ、その上に、

『蒼くん、いってきます。葵断ちなんて許さないから』

 と書かれた、カエルさんのイラスト付きのメモが置いてあるのを見て……。

 俺の胸に一瞬湧いた寂寥(せきりょう)なんて、朝食のトーストが焼けるよりも早く、跡形もなく溶けて消えてしまっていた。

 

 恐ろしいほどの美貌と頭脳の持ち主なのに。

 絵のセンスだけはどうしようもなく壊滅的で、それがまた何とも可愛らしくて。

 実は──美術の授業で君に返しそびれてしまった『あの絵』を、俺はいまもこっそり飾っていたりする。

 

 ……昨晩、見つからなくて本当によかった。

 もしバレていたら、恥ずかしがった彼女に没収されるのは目に見えていたからな。俺は手元のメモを眺め、その秘密の場所へと視線を向ける。

 お前(このメモ)の、殿堂入りが決まった瞬間だった。

 厳重保管案件、要追加だ。

 

 そうして、次は畳まれたスウェットに手を伸ばしてみる。

 持ち上げてすぐ、君が残した香りが仄かに舞って。今度は俺が、その灰の部屋着を着たくなってしまっている。

『匂いを嗅ぐのだけは、やめてほしい』

 昨晩はあんなに焦っていた俺自身が、あろうことか、今度は自分からそうしたくてたまらなくなっているだなんて。

 

 残された、微かな君の香りに、つい甘えたくなってしまったのか。

 

「こんなので……葵断ちなんて、できるはずが無い」

 

 ぽつりと漏れた本音。

 こいつはいよいよ……重症かもな。

 前から多少自覚はあったけれど、近頃は特に病状が進行している気がする。

 

 そんな自分への呆れと、くすぐったい幸福感を胸の奥にしまい込んで。

 それからの俺は、カレンダーの数字を指折り数えながら、アルバイトと勉強に精を出す日々を送った。


 そうして訪れる、アルバイト中の密かな至福の時間。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」


 カラン、とカウベルが鳴るたびに店内に響き渡る、よく通る澄んだ声。

 お洒落なカフェの制服に身を包み、完璧な笑顔でお客様を案内しているのは、モデル『MINA』こと九条 葵、その人である。


 そう、彼女は俺と同じこのカフェ『Cafe Nine Flow』でアルバイトをしているのだ。

 普段、学業優先で仕事をセーブしている反動からか、夏休みなどの大型休暇ともなれば、彼女はマネージャーにモデル業をしこたま入れられてしまう。


『ちっとも夏()()じゃないわ』

『私だけ休みがないのは、おかしい』

 ──などと。

 つい先日も、俺の隣で不満げに唇を尖らせていたのだから間違いない。


 けれど、ありがたいことに。

 どれだけ八月が殺人的なスケジュールで埋め尽くされていようとも。

『蒼くんと同じ場所で働きたい』

 という彼女自身の、驚くほど真っ直ぐで強い願いによって、このカフェでのシフトもしっかりと死守されている。

 

 だからこそ、わざわざデートの日を待たずとも、俺たちは週に何度かこうして顔を合わせることができている。

 とはいえ、容赦のないモデル業とカフェのアルバイト。それに学生の本分たる勉学にも追われているせいか、二人きりでちゃんとしたデートをする時間が全く取れていなかったのも事実だった。


 それでも、会えさえすれば。

 俺たち二人に、なんの不満もなかった。


「蒼くん。三番テーブル様、ナポリタンお願いね?」


 すれ違いざま。

 他のお客さんや八雲さんからは見えない角度で、葵さんが俺にだけ、想いを込めた艶やかなウインクを飛ばしていくから、気が気じゃない。


「……っ、了解」


 小さくため息をつきながら、俺が厨房のカウンター越しにオーダーを受け取ったその時だった。

 カラン、と入り口の扉が開く音がして、新しい客の気配が店内に流れ込む。


「いらっしゃいませ。……あっ」


 今日も美しい接客スマイルを浮かべているはずの葵さんが、珍しく語尾を乱していた。

 何事か気になり、厨房のカウンターから顔を覗かせると、入り口には着飾った私服姿の女性の二人組が立っていて。

 驚いたことに、一人は俺たちの担任である吉岡先生。

 そしてもう一人は──

 あの事故での入院生活、そしてホームルームデイで岩場に落ち、泥だらけになった俺たちを介抱してくれた看護師の酒々井(しすい)さんという組み合わせだった。

 

 怪我の治療だけでなく、俺たち二人の『口紅の秘密』を共有してしまった人であり……そして、かつて大人の色気で俺を可愛がり(からかい)、あわや『葵さんの天敵』になりかけた、ある意味で最も扱いに困った女性でもあった。

 

 ちなみに親友の健太は、今も彼女の根強いファンだったりする。いまだに、

『酒々井さんに、会いてえなあ。なあ、蒼。今度俺と一緒にまたMIYASHITA PARKの屋上行かね?』と誘ってくる始末だったり。

 まあ、あいつが崇めるのも無理はないか。

 それはわからんでもない。布地を強烈に押し上げる、あの圧倒的な『アレ』のインパクトは絶大だ。

 ──と。

 そんな失礼な感嘆を、厨房の奥からこっそり抱いた瞬間だった。


 目前のコンロが発する熱気が嘘のように引き、首筋に薄氷を押し当てられたような鋭い悪寒が走る。

 入り口で背を向けているはずの『黒髪の美しいお方』からの、理不尽なまでに極寒な気配!

「寒っ!」

 そんな馬鹿な。……うん、きっと気のせいだ。

 だって、彼女はこっちを向いていない。俺はただ、ナポリタンの具材を炒めているだけだぞ。

 そうに違いない。そう思いたい。

 

「こんにちは、九条さん。はぁ、今日も暑いわね。もうすっかり夏よ。……水無月くんも、頑張ってるの?」

「はい、先生。今は厨房で腕を振るっているところです。呼んできましょうか?」

「仕事の邪魔をしたら店長に怒られてしまうから、それはよしておくわ。また落ち着いた時にでも」


 吉岡先生とそんな言葉を交わしたあと、葵さんはふっと表情を引き締め、その隣に立つ女性へと視線を向け、ぺこりと小さく会釈をする。


「お久しぶり、九条さん。……あの時以来ね」

「……お久しぶりです、酒々井さん。キャンプではお世話になりました」


 先生の友人の含みのある微笑みに、葵さんは無意識にか背筋をピンと伸ばし、少しだけ硬い声で応えていた。

 過去のいきさつを思い出したのだろう。

 二人の間に流れる空気は、どこかまだギクシャクとした独特の緊張感に包まれている。丁寧な言葉を交わしてはいても、そこにはまだ、消えきらない微かな余熱……目に見えない火花が燻っているようだった。

 

 ……君子危うきに近づかず、だな。これは。


 俺はそっと視線を逸らし、三番テーブルのナポリタンを一気に仕上げるべく、コンロのある厨房の奥へと引っ込む。

 背後では、葵さんが二人をカウンター席へと案内する声が聞こえてきた。


「先生。今日も、カウンターでよろしいですか?」

「ええ、九条さんお願い」

 そんなやり取りが聞こえた、すぐ後。


「やあ、いらっしゃい。……おや、()()()()


 厨房とカウンターの内側を仕切る、大きな開口部。

 そのステンレスカウンター越しに、店長の広い背中と、その向こう側に座る吉岡先生たちの顔が、額縁に収まった絵画のように見えるはずだった。

 俺が麺茹で鍋(パスタポット)の前に立っていなければ、な。


「今日はまた一段と華やかだね。……あまりに綺麗なので、一瞬、うちのアルバイトとして声を掛けそうになってしまったよ」


 ガラン、と。

 フライパンを準備しようとした俺の手からお玉が滑り落ちて、ステンレスに乾いた音を立てた。

 

 おいおいおいおい。

 ……この人は。この八雲さんは、自分が今、どれだけ破壊力のある言葉を投げかけたか分かっているのだろうか。

 この人の褒め言葉には、(てら)いがないだけにタチの悪い魔力がある。


 いつか葵さんに、『ひょっとしたら、とんでもない女たらしの才能があるんじゃないか』とか、『たまにびっくりするくらいスマートに殺し文句を言うんだもの』と呆れ半分に言われたことがあるけれど。

 ……もしかして俺のあれ、全部この人の影響だったりするのか?


 そんな恐ろしい仮説に冷や汗を流している間にも、カウンターの向こう側では、一人の女性が完全にノックアウトされていく。


「も、もう……八雲さん、やめてよ……っ!」

 声がいつもと違う。妙に上ずっている。

 

 俺たちの先生が一人の女性になっていく様を、目の当たりにさせられて。いや、この立ち位置だと、『聞かされて』と言った方が正しいか。

 視覚か聴覚かなんて、そんなことはどうでもいい。

 

 それよりもだ。この甘さを帯び始めた空間のなかで、俺たちは一体どうすればいいのだろう。

 ……なあ、葵さん。今、君はどんな顔をしてそこに立っているんだ?

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