第122話 深まったもの、そして儚く散りゆくもの
森を抜ける足取りが少し重くなるのは、きっと気のせいじゃない。
歩を進めるごとに木々の密度が低くなり、視界の先に管理棟の屋根が見えてくるにつれ、俺たちの間に流れていた濃密な熱は、急速に日常という冷気に晒されていく。
「ふぅ、そろそろ九条さん、かな」
「そうね……水無月くんの時間、ね」
秘め事は、ポケットの奥に。
そして、心臓の最も深い場所に。
俺たちは、自分たちの密事を隠すための仮面を引き寄せて、眩しい光が待つ広場へと足を踏み入れた。
「お、来た来た。おーい蒼! 九条さん!」
最初に気づいたのは、やはり健太で。
大きな声を上げながらこちらへ駆け寄ってくる友人の姿に、俺は反射的に、隣を歩く彼女との距離を一歩空けてしまう。
「遅いぞお前ら、心配したんだからな……って、うわぁ!? 蒼、お前なんだその姿!」
間近で見た健太が、俺を見て盛大に仰け反った。
続いて、談笑していた高階さんと長谷川さんもこちらに気づき、悲鳴に近い声を上げて駆け寄ってくる。
「水無月くん、大丈夫? 怪我とかないのかなあ」
「うわぁ、本当に真っ黒じゃない。……九条さんは大丈夫なの!?」
三人に囲まれて質問の嵐が降る。それに俺は、
「いや、ちょっと斜面で足を滑らせちゃってさ。せせらぎの近くだったから土が湿ってて、余計に」
と苦笑を浮かべつつ、必死に平静を装った。
泥だらけの揃いのジャケット。
ウェットティッシュで拭ったはずの自分の唇が、まだどこかに紅を残している気がして落ち着かない。
「ごめんなさい。私が不注意だったから、彼が庇ってくれて……代わりに。水無月くん、本当にありがとう」
隣で九条さんが、いつもの『高嶺の花』の声音で、けれどわずかに声を震わせながら頭を下げる。
その顔は、先ほど俺が一枚に収めた、真っ赤に照れ笑う素顔とは別人のように凛としていて。もはや面影もない。
「気にするなって、な?」
「うん……」
俺がそっと彼女の瞳を覗き込むと、彼女は小さく頷き、伏せた睫毛を震わせた。
ほんの一瞬、クラスメイトの枠を超えた親密な熱量が二人の間に流れ、周囲の三人が言葉を失ったように静まり返る。
「あらら~、盛大にやったわねぇ。こけちゃったのかな?」
静寂を割るようにして、どこか余裕を含みながらも、決して逃がしてはくれなさそうな声が届いた。
救急箱を小脇に抱えた酒々井さんが、ひょっこりと健太たちの背後から顔を出している。
「酒々井さん……」
「なにかあったんでしょ。あのね、水無月くん。君は病み上がりなのわかってるのかな。念のため、お姉さんに見せてもらえる? 場合によったら君は今から病院よ」
「……わかりました」
観念したように頷くと、彼女の視線は隣に立つ九条さんへも向けられた。
「そっちの九条さん……だっけ。あなたも診るから、ついてきて」
有無を言わせない大人の凄み。
酒々井さんはそのまま救急箱を持ち直し、近くにいた長谷川さんを呼び止める。
「そこのあなた。お名前、教えてくれる?」
「あ、長谷川です」
「ありがとう、長谷川さん。とりあえず、この二人を診ておくから。吉岡先生にそう伝えておいてくれるかな?」
「はい、わかりました。今から伝えてきますね」
長谷川さんが先生の元へと駆け出していくのを見届けて、俺たちは酒々井さんの後に続いた。
広場に響く同級生たちの話し声が、管理棟の扉が閉まると同時に、遠い世界の出来事のように切り離されていく。
*
「蒼の怪我、ぶり返してないといいけどな。あいつ、意外と無茶するから」
「本当に。やっとギプス外れたところだものね」
「まあでも……九条さんを庇ったのなら、案外、あいつ自身は悔いてないのかもな」
蒼の友人、小園 健太がどこか確信を持ったように呟く。
そんな隣で、高階 萌は二人が消えた扉を、いつになく静かな瞳で見つめていた。いつも元気な彼女が、今になって急に、深い沈黙に包まれている。
「……私も、新しい恋を探すかな」
「……え?」
唐突にこぼれた独り言に、健太が素っ頓狂な声を上げて彼女を振り返る。
萌は少しだけ寂しそうに笑いつつ、けれどどこか吹っ切れたような足取りで歩き出した。一歩、二歩。
「あの二人の間に、誰かが割り込めるわけがないって。さっきの二人を見てたら、急にそう思っちゃった」
「まあな。なんか見てて一生懸命だよな、二人ともよ」
健太の言葉に、萌は「そうね」と小さく頷いて、それから自分を奮い立たせるようにして声を張り上げる。
「ようし。これからは、九条さんの親友ポジション目指そうかなー!」
精一杯の強がりと、新しい決意。
そんな彼女の背中を見つめながら、蒼の友人はいつもの調子のいい、けれど少しだけ真剣な響きを混ぜて口を開く。
「あー、なんなら俺がそのポジションに立候補してやろうか?」
「は? 小園が?」
萌は足を止めて、心底信じられないものを見るような目で健太を凝視する。
「だめか?」
「ダメに決まってるじゃない」
「な、なんでだよ。俺だって、そう見た目も悪くないだろ?」
「はぁ。そういう問題じゃないの。……だって、アンタ、おっぱい星人だもん」
「ぐっ……なんで、それを」
「バーカ」
図星を突かれ、反論の余地を奪われた健太が言葉を詰まらせる。
萌はそれ以上追及することなく、遠くの山並みを見つめて小さく息を吐いた。
「まあ、でも。聞いてくれてありがとう」
その言葉を最期に、高階 萌はもう一度だけ二人が消えた扉を振り返り、今度こそ迷いのない足取りで広場の中心へと戻っていく。
「私も、一度くらいは。蒼くんって呼んでみたかったな……」
蒼と葵が、その生涯で初めて口づけを交わした日。
その傍らで、一人の少女の淡い恋が静かに、跡形もなく消えてしまったことを──二人は、まだ知らない。
そんな賑やかな喧騒から切り離された、ひんやりとした管理棟の一室。
俺と九条さんは、急誂えの救護室へと、静かに足を踏み入れていた。
「さてと……まずは泥だらけの水無月くんから診てあげましょうか」
酒々井さんは手際よく俺の右腕、左腕、そして打ったという背中をチェックしていく。
その指先は驚くほど冷静で、的確だった。
泥だらけのジャケットを脱がされ、診察を受ける間、俺は彼女が何か言い出すのではないかと生きた心地がしなかったのも事実だ。
あのタコスの件もあって、妙に居心地が悪かった。
酒々井さんは、俺の唇に一瞬だけ目を留め、けれど何も言わずに視線を九条さんへと移した。
「次は九条さんね。……そこに座ってくれる?」
促されるままに、九条さんが診察台の端に腰を下ろす。
酒々井さんはその前に膝をつくと、彼女のタイツ越しの細い足首を迷いのない手つきで包むこむ。
「ちょっと、動かしてみて」
「はい、こうですか?」
「どこか、痛むところはない?」
「はい、大丈夫です」
酒々井さんは腫れや熱感がないことを確かめるように指先を滑らせてから、静かに顔を上げた。
「……今は、特に異常はなさそうね。靭帯も大丈夫そう。けど、こういう行事だとアドレナリンが出ていて痛みに気づかないこともあるの」
そう言いながら、立ち上がる。
「今は平気でも、後になってジンジンと痛み出したり、腫れが強くなることもあるから。もし少しでも違和感が出たら、すぐに私に言うのよ? わかった?」
「……はい。ありがとうございます」
「じゃあ二人とも、戻ってよし」
片付けを始めた酒々井さんが、出口へ向かおうとする俺の背中に声をかけた。
「あ、そうそう。……それにしても、君は」
振り返ると、彼女は瞳を少しだけ細めて残念そうに笑っていた。
「どんどんいい顔になっていくわね。お姉さん、妬けちゃうわ」
「……何ですか、突然」
「九条さんもね。自分で気づいてる? お見舞いに来てたあの頃に比べて、随分表情が柔らかくなってるわよ」
その言葉に、九条さんは驚いて、
「私、ですか?」
と戸惑ったように自分の頬に手を当てている。
「さすがにね、いい歳した大人の女が、仲睦まじい若い二人の邪魔をしたりなんてしないから。……あまり警戒しないでよ」
酒々井さんはそこまで言うと、急に九条さんの目前まで歩み寄った。
「それとね、九条さん」
「は、はい」
「私がここを出てからでいいから。……口紅を引き直しなさい。 気が付かないと思った?」
「っ!?」
九条さんの顔が、今日一番の鮮烈な赤に染まり、言葉を失う。
その震える指先は、先ほどまでそこにあった熱を、今更ながらに思い出したかのように自分の唇へと彷徨う。
酒々井さんはそんな彼女の反応を愉しむようにして、俺の方をチラリと見た。
「しょーがない。ナナには黙っといてあげるから」
「う、酒々井さん……ありがとうございました」
俺が絞り出すようにそう告げると、彼女はヒラヒラと手を振りながら、救護室の扉へと向かう。
「そうそう。もし九条さんに振られたら、いつでもおいで。これは、真に受けていいわよ」
最後にそれだけを言い残して。
嵐のような大人の気遣いと色気を残したまま、彼女は救護室を去っていった。




