第121話 切り取った一枚の中の「あおい」
君に、夢中になりすぎていたのかな。
よくよく見れば、そこにはテントを張るのに適度な広さがあり、木漏れ日を優しく遮る樹々が程よく繁る。
そして何よりも、耳に心地よいせせらぎの音までもが揃っている。
泥と涙、そして銀の細糸が渡ったこの場所は、俺たちにとって一生忘れられない地となった。だが同時に、こここそが、探していた理想の場所なのではと思うに至る。
「葵さん、何気にここ、テントを張るのにいいと思わないか?」
「うん……いいと思うわ。でも、ここだと、その。さっきのことを常に思い出して、しばらく恥ずかしいかも……」
俺が確認するように問いかけると、葵さんは頬をまた少し染めて、周囲をそわそわと見渡している。
この、誰よりも美しい女性は、そうなんだ。
実は、びっくりするくらい照れ屋だったりするのだ。
一見すれば、あらゆる不躾な視線も、軽薄な求愛も撥ね退ける、完璧なる『鉄壁の高嶺の花』に見えながらも。
その実、俺が差し出す真っ直ぐな好意に対しては、驚くほどに免疫がない。
「でも、本当に素敵な場所ね」
「だろ? 木漏れ日が綺麗だし、せせらぎもある」
その言葉を背中に受けつつ、俺はスマホを構えてここの写真を撮り、グループトークへ放り込んだ。
水無月:「河原よりこっちの方がいいと思わないか? 木々に癒されるし、せせらぎもあるぞ」
九条葵:「私も、こちらをおすすめするわ。とっても素敵よ」
健 太:「お、そっちも川があるのか。しかも良さそうじゃん」
高階萌:「河原すごい人多そうだし、そっちのが良さそう。ちょっと多恵にも聞いてみる」
水無月:「よろしく」
高階萌:「多恵もそっちの方がいいって!」
水無月:「了解。じゃあ決まりだな。管理棟に集合しようか」
「よし、これで決まり、と」
俺はスマホをポケットに仕舞い込むと、泥だらけのジャケットの襟を正し、隣に佇む彼女に向かって頷く。
「じゃあ管理棟へ……戻ろうか。何だか名残惜しいけど」
「ええ……。そうね」
彼女はいつもの凛とした面持ちを取り戻すと、一歩前へ踏み出す。
けれど、俺の真横を歩き出したその足取りは、俺と同じく、どこか名残惜しそうに揺れていて。視線までもが、たびたび交錯するものだから──
つい、やってしまった。
これは明確なる、俺の出来心だ。
「葵さん」
管理棟へと向かう道すがら、俺は堪らず彼女の手首をそっと引き寄せる。
「な……に? 蒼く──」
不意を突かれて、小さく開かれたままの彼女の唇。
俺はそこに、迷うことなく自分のそれを重ねた。
二度目は、ほんの一瞬。
先ほどまでの情熱的な抱擁とは違う、羽が触れるような、軽やかで、けれど確かな名残惜しさを込めた衝動で君を求めた。
「……っ!?」
離れ際、彼女の顔がみるみるうちに、新緑の光さえ焼き尽くしそうなほどの朱に支配されていく。
驚きに目を見開く君がいる。
彼女は震える指先で、今しがた熱を分け合った自分の唇に触れると、今度は両手で自分の口元を覆い隠してしまった。
「も、もうダメ。これでおしまい」
「どうして? 嫌だった?」
「っ、そうじゃなくて。……その、所かまわずするようになってしまうから、もうダメ。わかった?」
彼女はそう言って、縋るような、それでいて自分自身の反応に困り果てたような潤んだ瞳で俺を仰ぎ見る。
驚くほどに免疫のない彼女の反応が、たまらなく愛おしくて。
──今、この瞬間を残しておきたい。
そんな衝動に駆られ、俺はポケットから再びスマホを取り出すと、真っ赤な顔でうろたえる彼女にレンズを向けてしまう。
「あっ、それはもっとダメよ」
それに気づいた葵さんが、慌てて両手で顔を隠そうとする。
「どうして?」
「今は……その、ぶさいくだから、だめよ」
「いやいや、かわいいよ?」
「絶対嘘よ。涙の跡でたぶん目も酷く腫れてるし、口紅だってきっと……」
いつもの完璧な彼女からは想像もできない、弱々しい抗議。俺は一歩踏み込み、彼女の指先が作る隙間を覗き込みながら、静かに声を落とした。
「俺、自分でも驚くくらい君の写真、持ってないんだ。可哀想だと思わないか?」
「うう、でも……今は、駄目」
頑なに顔を覆い続ける彼女。
俺はその細い手首をそっと、できるだけ優しく掴んだ。
「……っ、蒼くん?」
微かな抵抗を見せる彼女の力を、優しく解くようにして顔の前から退ける。
露わになったのは。
新緑の光を浴びて、羞恥と愛おしさに顔をくしゃくしゃに歪め、朱に染め上げた本当の九条 葵の姿。
これこそが今、俺が残しておきたいもの。
──カシャ。
小さな電子音が、森閑に吸い込まれていく。
頬を赤く染め、困ったように照れ笑う葵さん。切り取り、液晶の中に閉じ込めたその姿は、俺だけが見ることのできる、仮面を外した『九条 葵』の本当の表情だ。
「無理矢理でごめん。でも……大事にするし、誰にも見せないから」
「うん……」
そう呟いてスマホをポケットに収めると、俺は今度こそ、彼女を連れて日常へと歩き出した。
「……あ、いけないっ」
隣を歩いていた彼女が、唐突に足を止めて小さな声を上げた。
「ん? どうかした?」
不思議そうに問いかける俺に、彼女は白く細い指先で自らの唇に触れながら、おずおずと俺の口元を指差した。
「唇?」
「そ、蒼くん……唇が、真っ赤だわ」
「え、本当に?」
慌ててスマホのインカメラを起動して確認すると、画面の中の俺は、自分でも驚くほど艶やかな紅に唇を染めていて。
さっきの、あの熱い抱擁の証が、これでもかと残ってしまっている。
「うわ……これ、このままじゃ戻れないな」
「ど、どうすれば。……鞄は管理棟に置いたままだし、拭うものなんて何もないわ」
彼女は必死に自分のポケットをまさぐり始めた。
そうして、不意に彼女の指先が動きを止め、歓喜に震える声を上げる。
「あったわ、蒼くん! さっきバスでチョコを食べた時の、ウェットティッシュよ、ほら!」
彼女が取り出したのは、少しだけ折れ曲がった小さな個包装。
「さすが葵さん。……それなら、なんとかなる」
俺は彼女からそれを受け取って、白いシートで己の唇をなぞっていく。
「取れたかな?」
「ええ、大丈夫だと思うわ」
俺はふと、拭き終えたシートを見やる。
「うわぁ、見てよ。これ」
真っ白だったシートは、今や彼女の唇から移った、鮮烈なまでの紅で赤く染まっている。自分たちの情熱の証をまざまざと突きつけられて、葵さんは息を呑み、驚いたように瞳を揺らした。
「ごめんなさい……まさか今日、こんなことになるだなんて思ってなかったから」
「……謝る必要なんてないさ。それにその赤、似合ってるし」
俺は少し困ったように笑いつつ、真っ赤に汚れたそのシートを丸めると、誰にも見つからないように深く、ポケットの奥底へと押し込んだ。
「……行こうか。みんな、待ってる」
「……はい」
君は学院一の才媛で、それも過去に例がないほどの。
おまけに、人気モデルのMINAでもあるよな。
あとは、何があるだろうか……。
九条家のお嬢様。そう、それもか。親すらいない俺とは何もかもが違い過ぎる。それと、時折君を翳らせる、あの黒い帳もそうだ。
君にはまだ、教えて貰えない何かが、ある。
けど、例えどんな困難があろうとも、素顔の君が傍に居てくれる限り、きっと大丈夫さ。
本気でそう信じて疑わないほどに、俺は彼女に、どうしようもなく溺れている。
秘め事はポケットの奥に。




