第123話 せせらぎ─4
管理棟の外では、すでに健太たちが荷物を抱えて待っていた。
俺と九条さんは一度だけ顔を見合わせ、頷き合う。酒々井さんが去った後、彼女は乱れた服を整え、口紅もひきなおした。
残された証は、もうこの泥だらけのジャケットとポケットの奥にだけ。
「皆、待たせたな」
「蒼! 大丈夫だったのか?」
「水無月くん。骨折とか、ぶり返してなかった?」
三人が一斉に駆け寄ってくる。
その真っ直ぐな善意が、今は痛いほどに眩しすぎた。
「俺も九条さんも大丈夫。ただ、後で痛んだり腫れたりしたら知らせろってさ」
「そかそか、よかったぜ。あんま心配させんなよな」
「悪かったな」
「あ、吉岡先生には、ちゃんと伝えておいたからね」
「ありがとう、助かったよ」
俺の言葉に、長谷川さんが少し控えめに、けれどホッとしたような笑顔を見せてくれる。
九条さんも俺に続くようにして、いつもの美しい所作で小さく頭を下げた。
「そんな。当たり前のことをしただけだから。……あ、そうだ。先生も心配してたよ。後で見にくるって」
その言葉にほんの一瞬だけ、俺たちは誰にも気づかれないよう視線を交わした。
「二人とも怪我無くてよかったね。ならさ、いつまでも立ち止まってたら日が暮れちゃうし。そろそろその場所へ案内してよ」
高階さんが明るく声を張り上げ、俺たちの背中を促す。
「おっと、そうだな。じゃあ案内するよ」
「そうね、設営の時間も考えないと」
俺と九条さんが先頭に立ち、木々の奥へと三人を導いていく。
木漏れ日が舞う、やや開けた樹間の道をそれた先に、その場所はあった。
丸太に無造作に彫られた名前──『せせらぎ─4』。それが、俺たちが今日を過ごすこの区画の名前だった。
「うお、すげえ……! 真横に小さな渓流って、マジで最高じゃんか」
健太が感嘆の声を上げ、続いて高階さんと長谷川さんも、目の前の情景に瞳を輝かせている。
「素敵。まるで森の隠れ家みたい~」
「うんうん、SNS映えしそう~。よくこんな場所見つけたね」
「じゃあ早速、ここにテント立てちまおうぜ」
木漏れ日が揺れる地面に、俺と健太は重いテントバッグをドサリと下ろした。
「俺と健太で組んでいくから、女子のみんなは設営のサポートを頼めるかな?」
「わかった、任せて!」
「はい」
高階さんの元気な返事に重なった、九条さんの短くも素直な返事。
それに、ただ一人事情を知らない長谷川さんだけが、戸惑うように目を丸くしている。
学院の誇る才媛が、まるで当然のように男子に従う姿。
そのありえなさに長谷川さんが固まる一方で、健太と高階さんは慣れたもののように、さっさと作業に取り掛かっていた。
巨大なシートを広げ、アルミ製のポールをスリーブに通していく。カチャカチャという乾いた金属音と、布の擦れる音が、静かな森に小気味よく響く。
これまでは怪我を理由に、あるいは彼女の献身に甘えて。俺はいつも受け取る側だった。けれど、もう違う。
ギプスが外れた今、彼女に少しずつ返していきたい。
そう強く願いながら俺は腕に力を込め、ぐいとポールを押し上げた。
「九条さん、俺がロープを結ぶあいだ、緩まないように引いててくれる?」
「わかったわ」
普段の優雅な彼女からは想像もつかないほど、彼女は一生懸命だった。
細い指先に力を込め、踏ん張るようにしてロープを引く。その白い頬が微かに上気して、俺がロープの長さを調整し、ペグに結び付けるまでの間を、彼女は必死にロープがピンと張った状態を保ち続けてくれた。
「……よし。ありがとう、九条さん。助かったよ」
「ふふ、どういたしまして」
高階さんと長谷川さんも、ポールの端を支えたり、ペグを手渡したりと、テキパキと動いてくれる。
「水無月くん、こっちのペグ打っちゃっていい?」
「あー、高階さん。それは俺がするから、ハンマー貸してくれるか」
「え、でも」
「危ないからな。指を打ち付けたりしたら、爪割れちゃうだろ?」
「……ありがとう」
返した俺の言葉に、高階さんは一瞬だけ動きを止め、それから微かに寂しそうに目を細めた気がした。
「ああ、悪い。誰かそっちのシートの端、押さえててくんね?」
「小園くん、これのこと?」
「そう、そこ! 長谷川さんサンキュ!」
声を出せば、常に誰かが応じ支えてくれる。
そうして気づけば、斜光を浴びて輝く二つのテントが、俺たちのチームワークの象徴として並んで完成した……ただ一つの問題点を残して。
「……あー。これ、ちょっとやっちまったかな?」
「何がだ……」
「いや、今更ですまんけど。二つのテント、近すぎねえか?」
健太が頭を掻きながら、出来上がった二つのテントを見比べた。
間隔は一メートルもない。夜になれば、隣のテントの寝息どころか、小さな囁きさえ聞こえてきそうな近さだ。
「別に、これくらいいいんじゃないか?」
「んー。そもそも先生は『男女が同じテントにいたら覚悟するように』とは言ってたけど、並べて立てるなとは言ってなかったと思う」
「……確かに。言われてみりゃそうか」
「というか、今からやり直すとか無理すぎない? もう、このままでいいって」
高階さんの一言に、長谷川さんがほんのりと頬を染めて、テントの入り口を不安げに見つめている。
「え、でも。私はちょっと恥ずかしいかも……」
「じゃあ多恵は一番遠い方で寝ればいいんじゃない? 私か、九条さんが近い方で寝るし」
「いいの?」
高階さんがさらりと言ってのけたその提案に、九条さんは否定することなく、ただ「そうね」と小さく頷く。
その視線がほんの一瞬だけ、俺の方を捉えた。
一メートル先の暗闇。そこに彼女が横たわるのだとしたら。
いつもの寝室とは違う。薄いナイロン一枚隔てた先で、あの泥に塗れた秘密を共有するのかと思うと、俺の心臓は再び、静かに暴れ始めた。
女子側のポジションは、絶対に俺が確保しないとな。
*
「うおっ、冷たっ! 逃げるなよ、こいつ!」
設営を終えた俺たちを待っていたのは、三人が先ほど写真で送ってくれたあの小川での鮎のつかみ取りだった。健太が派手に水を跳ね上げ、高階さんと長谷川さんも裾を捲り上げて歓声を上げている。
「うええ、ぬるぬるする! 待って、私無理かも!」
高階さんが銀色の魚体に翻弄されて悲鳴を上げるのを、長谷川さんが笑いながら追いかける。
……そして、その真横で健太が、時折激しく揺れる双丘に目を奪われているのを、俺は見逃さなかった。
なるほど、あいつが運動神経の良さに反して一向に魚を捕まえられない理由は、どうやらその雑念にあるらしいぞ。
「やれやれ九条さん、これは俺たちが頑張らないと。五人の昼飯が危なそうだ」
「ふふ、そうね。頑張りましょうか」
濁り始めた水面を避けるように、少し離れた上流で、俺と九条さんは並んで水面に目を凝らした。
「あ、水無月くん、そっち行ったわよ」
「よし来た」
彼女が指差す先、一筋の銀光が素早く走る。
俺はまだ少し動きの鈍い左手を添え、右手で滑らかな魚体を一気に追いかけた。
「捕まえた……!」
「すごい、水無月くん!」
弾ける水飛沫と、彼女の屈託のない笑顔。
森の空気に当てられたのか、俺たちは学校での『壁』なんてとうに忘れ、ただの高校生として笑い転げていた。
その後に味わった、炭火でじっくりと焼き上げた鮎の塩焼きは、言葉にならないほど旨かった。立ち上る香ばしい匂いと、淡白ながらも凝縮された身の旨味。
熱々のそれを頬張りながら、
「美味しいね」
と言い合う。五人の笑い声が溶けていくその時間は、どんな贅沢な料理よりも、俺の心を温かく満たしてくれた。
いよいよ日が落ち、辺りが深い藍色に包まれる頃。
キャンプ場のあちらこちらから、炭が爆ぜる音と香ばしい肉の匂いが立ち上り始めた。俺たちの区画もその内のひとつ。
「いいから、今日はみんな座っててくれ。俺が焼くから」
「え、でも。水無月くん、病み上がりなのに……」
「そうよ、私が代わるわ。座っていて?」
俺がトングを握ると、長谷川さんが心配そうに顔を覗き込んでくるし、当然、九条さんは代わろうとしてくる。
それを俺は笑って首を振り、制した。
「この数か月、人にしてもらうばかりだったからさ。ギプスも外れたことだし、今日は俺にやらせてくれよ」
炭火の熱を顔に受けながら、俺は丁寧に網の上の肉を見守り、誰にもトングを渡さなかった。
「ほら健太。じゃんじゃん食えよ」
「おおー肉! いただきまーす」
「ほら、高階さんも長谷川さんも、頑張って食べないと健太が皆食っちまうぞ」
「本当だ、小園早すぎ!」
「水無月くん、ありがとう。いただきます」
賑やかに箸を動かす三人に肉を配りながら、俺は網の上で一番いい状態に育った肉を、迷わず彼女の皿へと運んだ。これぞ肉奉行の特権。
「はい、九条さんもどうぞ」
「……え? あ、ありがとう」
ランタンの揺れる火に照らされた彼女は、いつもの美しさとはまた違った、柔らかな趣がある。影が濃く落ちるからか、鼻筋や目のラインが際立ち、思わず見見惚れてしまいそうになる。
そんな彼女の皿が空くのを待たず、俺は次々と良い焼き加減の肉を追加していく。
「ちょ……ちょっと水無月くん、私はそんなに食べられないわ。あなたも食べて?」
「九条さんは細すぎるよ。今日くらいお腹一杯食べなよ。……おっと、ほら高階さんも、これいけるぞ」
「ありがとう~」
「おっ、やってるわね~。見回りがてら、良い匂いに釣られて来てみたら、水無月くんの班だったのね」
夜の静寂に、良く通る声がした。
見回りに来た吉岡先生が手元の懐中電灯を消し、ランタンと炭火の明かりの輪に加わってくる。
「あ、ナナちゃん先生! 見回りお疲れ様です」
「だーれーが、ナナちゃん先生よ。いい加減、その呼び方はやめなさいって、いつも言ってるでしょう?」




