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HERO(9)

 口の辺りがチクチクと気持ち悪かったので目を開けてみると、俺の鼻の下の辺りをヒカルの爪がカリカリと引っ掻いていた。

 俺が大きなくしゃみをひとつすると、ヒカルは振り向いて「静かにっ!」と怖い顔をしてみせるので俺はしょんぼりする。

 後ろ手で縛られて転がされたまま、どうもヒカルは俺の口に貼られたガムテープを剥がそうとしているようだった。だが、そんなことをしていたら、斎藤に見つかって殴られやしないだろうか?

 そんなことを考えて斎藤の方を見ると、バイトでよほど疲れたのか斎藤はいびきをかいて眠ってしまっていた。なんとも情けない監視役だ。

 俺がもごもごとガムテープ越しに声を出そうとすると、ヒカルは「待ってて、すぐ剥がすわ」と言った。ヒカルはどうやったのか、既に口のテープを剥がしてしまっていた。


「痛いな、ゆっくりやってくれよ」半分剥がれたガムテープの隙間から、俺は声を出した。

「わがまま言わないで」

「あ、またくしゃみが出そうだ」

「駄目よ、絶対駄目だからね」


 なんとか俺の口からガムテープが剥がされ、俺たちは並んで横になった。二人とも手はまだ腰の辺りで縛られたままだ。


「鼻血出てたから、窒息死しないかと心配になって……」


 ヒカルは小声で、少し照れたようにそう漏らした。茶色いウェーブの掛かった髪はべとつき、汗をかいた額に張り付いてしまっていた。

 プレハブ小屋の割れた窓から青白い月の光が差し込んでいた。今何時なのだろうか?俺は時計を探すが、予想していた通り、狭い小屋の中に時間が分かりそうなものは見当たらなかった。陽が昇ってボクサー男たちが戻ってくる前にどうにかしないといけない。


「調子はどう?」横になったまま首だけこちらを向けて、ヒカルが聞く。

「大丈夫だ。丈夫なだけが取り柄だからな。斎藤をボコボコにしてお前を抱えてここから脱出するくらい訳ないさ」

「その手足のガムテープがなければね」

「う……」


 ヒカルの言う通りだった。

 俺は試しに手首を前後に動してみるが、どれほどのテープを使えばこうなるのか、固定された手首は前後にほんの一ミリさえ動かなかった。続いて、俺は両足を縛ったガムテープに挑戦してみる。足は比較的緩く巻かれてあるようで力を入れると軽く前後に動いたが、次の瞬間痛めていた左足の足首の辺りに激痛が走った。

 俺は叫び声を上げないようにするのがやっとだった。どうやらまた腱を伸ばすか、どうかしたらしい。


「ちょっと、ひどい顔してるけど大丈夫?」

「問題ない。ちょっと足を捻っただけだ」

「昔怪我したところ、また痛めたんでしょう?私のせいだ、私の……。本当に、ごめんなさい」


 唐突に、ヒカルがそんなことを言い出すので、俺はしかめていた顔を必死で元に戻した。額から一筋の汗が流れ落ちていく。


「急にどうしたんだ?お前らしくないぞ」

「私のせいで、岩岡さんまで二回も危ない目に遭わせて――。私、自分があいつらを憎いっていう、その気持ちしか考えてなかった。岩岡さんのことなんて少しも考えてなかった。私、最悪だよ」


 ヒカルは目に涙を溜め、一息にそれだけ言った。大人としてぽんぽんと頭のひとつでも叩いてやるべきかとも思ったが、それはまだ、もう少しの間できそうになかった。


「謝るんじゃない。元々ヒーローっていうのはな、心が弱い人たちや、傷ついて心に隙がある人たちを助けるためにいるんだぜ。心の弱い人はヒーローの力にビビって都合のいい時だけ祭り上げたり、自分たちの都合で見放したりするだろ。ヒーロー物の番組には、大体ヒーローが悪者にされる回ってのがあるしな。それでもヒーローはいなくなったりしない。ヒーローにはいつかちゃんと自分が必要とされる時が来るって分かってるからだ。ヒーローは裏切られたり、自分が傷ついたりすることを最初から受け入れてるんだ。俺にはまだその覚悟はないかもしれないけど、俺はヒカルのために体を張れて良かったと思ってるぜ。俺の言ってる意味、分かるかな?」

「分かんないよ」


 長々と語った俺はショックを受けるが、ヒカルが笑っていたのでまぁ良かったかな、とも思う。

 俺はその笑顔に満足して、また足のガムテープを外すべく両足を動かし始める。


「ぐ」激痛に、漏らすまいと堪えていた声が漏れた。


 ヒカルが不思議そうな顔でこちらを見ているが、まだ俺が何をしているか気付いていないようだ。

 足に力を入れるごとに、少しずつ両足の揺れ幅は大きくなっていく。だが始まって一分もしないうちに、俺は尋常じゃない量の汗を流していた。


「ちょ、ちょっと何やってんのよ!?」


 ヒカルは俺の様子がおかしいのに気付いたようで大きな声を出して、慌てて口を閉じた。斎藤に目をやるが、まだ目覚める気配はない。


「足のガムテープが、もう少しで外れそうなんだ」

「でも、凄い汗じゃない。足の怪我、ひどく痛むんでしょう?」

「大丈夫、大丈夫だ」

「大丈夫って――」


『今日から俺は!』という漫画がある。三橋と伊藤という二人組の不良が他の学校の不良たちと喧嘩しながら学園生活を送る漫画なのだが、その中に相良という凶悪な不良がいて、そいつは三橋に本気を出させるために三橋のガールフレンドの理子をさらって監禁してしまう。理子を助けに行った三橋は相良に手錠を掛けられて捕まってしまうが、暴行を受ける理子を見て自分の手の皮を剥いで手錠を外し、覆い被さるように理子を守る。そんな二人を、相良によって車でひかれてぼろぼろになった仲間の伊藤が助けに来る。

 あの時の三橋と伊藤は誰が何と言おうとヒーローだった。特別な能力のない、ただの人間がヒーローになれないなんて決めやがったのはどこのどいつだ。

 そして俺は直感的に理解する。俺がさっき言ったことはやはり正しかったのだ。ヒーローとは犠牲を払って人を助けることであり、自由でも顔でも体の一部でも、犠牲を覚悟できない人間はヒーローになんかじゃない。自分が傷つくことを恐れていたらヒーローにはなれないのだ。

 両足はかなり前後に動くようになっていたが、歯を食いしばりすぎて口から血が流れ落ちた。あまりの痛みに俺は号泣していた。みっともなく声をあげて泣いていた。左足が焼けつくようだった。意識が遠くなり、脳にノイズがかかったようだった。だが、テープを解いて立ち上がることができれば、斉藤をぶっ倒すことだって助けを呼びに行くことだってできるのだ。


「やめて、岩岡さんやめてよ……」


 ヒカルの泣き声の混じった声が遠くから聞こえた。ヒカルをまた泣かせてしまったことを、俺は悲しく思った。

 そして俺はまた――

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