第16話「氷嵐の中の歩み」
壇上へと続く十数段の白大理石の階段は、もはや階段としての原形を留めていなかった。
吹き荒れる魔力嵐によって、階段全体が青白く光る氷山そのものへと変貌している。
表面には鋭利な氷の刃が無数に逆立ち、触れるものすべてを切り裂く罠のように天へと切っ先を向けていた。
大気を切り裂く突風は轟音を響かせ、皮膚を剥ぎ取るような暴風となってフィオナの細い身体を容赦なく打ち据える。
一段目へと踏み出した瞬間、靴底の薄い革を通して、骨の髄まで貫くような殺人的な冷気が駆け上がった。
足の裏の皮膚が一瞬にして凍りつき、次に体重を乗せた刹那、パキリと皮膚が裂ける激痛が走る。
白い氷の上に、フィオナの生きた血がにじみ、鮮やかな紅い花となって散った。
しかし、その血液さえも、床に落ちた瞬間に凍りついていく。
粗末な囚人服の布地は、猛吹雪の冷気を吸って硝子のように白く硬化した。
突風に煽られるたびに、凍りついた裾がパキパキと音を立てて砕け散り、白い霧となって虚空へと舞い上がっていく。
両手首に巻かれた包帯もカチカチに凍結し、裂けた皮膚の擦り傷に無数の氷の針が突き刺さるような痛みが絶え間なく襲いかかった。
剥き出しになったうなじや耳朶は白く凍傷を負い、感覚を失った皮膚を舞い散る氷刃が無慈悲に切り裂いていく。
フィオナが三段目を踏みしめた時、手探りで掴んだ大理石の欄干が冷気の圧力に耐えかね、轟音を立てて崩落した。
足場を失いかけたフィオナの身体が激しく揺らぐ。
背後から鋭い氷片の突風が吹きつけ、彼女は咄嗟に腰を落とし、階段の氷の窪みへと肘を引っ掛け、自らの体重を必死に繋ぎ止めた。
荒い呼吸のたびに喉が引き攣る。
それでも、フィオナの両手は、胸元に抱いた宝物を決して手放そうとはしなかった。
左手には母の歪んだ銀香炉。
右手には、生命の血を注ぎ込んで精製した黄金の硝子瓶『融解の香心』。
銀香炉に残った微かな陽だまりの香気と、硝子瓶に宿る精油の魔力が、フィオナの肺腑を凍結から守る唯一の聖域となっていた。
吸い込むたびに微かに香るラベンダーと蜂蜜の清らかな薫気が、折れそうな魂を内側から支え続けている。
「フィオナ殿……! 戻ってください……!」
後方から響くレオンの絶叫も、吹き荒れる氷嵐の轟音にかき消され、遠い幻聴のようにしか届かなかった。
視界は舞い散る冷気の粒子によって白一色に塗り潰され、前方にそびえる氷の階段と、その頂に座るジルの影だけが、フィオナの世界のすべてだった。
一歩、また一歩。
裂けた足の裏からにじむ血で白い氷山を紅く染め上げながら、フィオナは一段ずつ、死の階段を登り続けた。
階段の中腹へ差し掛かった時、突風の圧力は倍加し、立っていることすら困難なほどの暴威となる。
突如、飛来した氷塊が右手の硝子瓶の縁をかすめ、ピシリと微細な亀裂の走る音が響いた。
フィオナの心臓が凍りつきそうになる。
この瓶が砕ければ、すべてが終わる。
フィオナはためらうことなく囚人服の袖を歯で引き裂き、傷口を覆っていた麻布を解いて、硝子瓶の外周へと三重に巻きつけた。
さらに自らの手のひらから流れる生温かい血液を布に染み込ませ、体温の魔力で亀裂を凍結の圧力から守り抜いた。
調香師としての機転と執念が、至宝の香液を守り抜いたのだ。
膝がガクガクと震え、凍結した階段の縁に爪先を取られて崩れ落ちそうになる。
足の感覚は失われ、自らの神経が肉体を制御しているのかどうかさえ曖昧になっていく。
肺に吸い込む空気はあまりに冷たく、気管が凍りついて声すら出ない。
視界の端が暗く狭まり、意識の糸が今にも千切れそうになった。
その極限の寒気の中で、フィオナの脳裏に過去の記憶の奔流が蘇った。
幼い頃から、他者が心に隠した悪意の匂いを嗅ぎ分けることができた。
その異能を人々は魔女と呼び、忌み嫌う。
異母妹であるエレナはフィオナの手柄を奪い取り、義母は薄暗い納屋へと追いやり、工房の職人たちは嘲笑を投げつけた。
誰からも愛されず、誰の役にも立てず、やがて居場所を失い、雨の降る裏路地をあてもなく歩いた。
あの冷たい雨の路地裏、フィオナは帰る場所を失い、途方に暮れていた。
その絶望の底で出会ったのが、ジル・クローデルである。
死の呪詛に蝕まれ、路地裏で倒れ伏していたジルを、フィオナが母の温香で救い出したあの日。
そしてジルは、泥にまみれたフィオナの手を自らの大きな手で包み込み、調香師としての自分を初めて必要としてくれたのだ。
誰もが冷酷無情と恐れ、怪物と忌避した氷結卿。
しかし、あの男は誰よりも不器用で、誰よりも純粋だった。
公爵邸へ迎えられた時、ジルは彼女の調香師としての裁量を守ると約束し、やがて傷んだ手に合わせた白磁の調香道具を贈ってくれた。
深夜の調香室では、眠り込んだフィオナに毛布を掛けようとし、指先へ不器用な口づけを落としてくれた。
そして霊峰の断崖で、自らの命を投げ打ってフィオナを引き上げてくれた、あの鋼のような熱い腕。
あの人は、誰よりも深く傷つきながら、それでも誰かを守るために戦い続けてきたのだ。
他者の悪意を浴びせられ、孤独な怪物として疎外されながらも、高潔な心を決して捨てなかった人。
あの冷酷な氷の奥底に秘められていたのは、世界で最も純粋で、温かな魂だった。
その真心に触れたからこそ、フィオナは己の傷痕を受け入れ、前を向いて生きる勇気を得られたのだ。
(死なせない……!)
(あの人を、あんな冷たい氷の中に一人で置いていくものですか……!)
フィオナの胸の奥底で、激しい熱情の炎が爆発した。
麻痺していた四肢に、魂の熱量が激流となって注ぎ込まれる。
胸元の『融解の香心』が眩い黄金の燐光を放ち、フィオナの身体を包む冷気の暴風を押し広げた。
フィオナは歯を食いしばり、折れかけた膝に力を込めて、再び氷の階段を力強く踏みしめた。
最後の一段を前にして、鋭利な氷の突風が正面から吹き荒れる。
フィオナの身体が後方へと押し流されそうになったその瞬間、彼女は凍傷で白く変色した右手を伸ばし、氷に覆われた大理石の欄干の残骸を力任せに掴み取った。
ジリジリと、凍結した石肌に手のひらの皮膚が張り付き、激痛とともに肉が裂ける。
しかし、フィオナはその痛みに眉一つ動かさず、裂けた指先を氷の割れ目に引っ掛け、全身の力を込めて身体を引き上げた。
最後の一段を踏み越え、フィオナの両足は、猛り狂う吹雪が渦巻く壇上の頂点へと確かに着地した。
嵐の中心は、不気味なほどの静寂に支配されている。
舞い散る冷気の粒子の向こうに、鉄の椅子に座るジルの姿があった。
フィオナは震える足で歩み寄り、ジルの椅子の前で静かに膝をついた。
間近で仰ぎ見るジルの姿は、あまりにも痛ましく、壮絶を極めていた。
全身を覆う青黒い氷晶は数寸の厚みに及び、頑丈な胸板の中央には、心臓を食い破るかのように巨大な氷の花が鋭利な棘を広げている。
首筋から顎、そして力強く美しかった唇に至るまで、白銀の氷結に閉ざされていた。
そのまぶたは微動だにせず、かつてフィオナを射抜いたあの蒼氷色の光は見えない。
ジルの身体からは、人間の生気など感じられなかった。
放たれているのは、何万年も太陽の光を拒絶し続けた永久凍土の、果てしない死の冷気だけだった。
凍りついた鉄の椅子からも、彼が流した血の凍結した痕跡が冷酷な霜となって広がっている。
それでも、フィオナはジルの凍りついた膝へと、自らの傷だらけの両手をそっと重ねた。
冷たさに手の感覚が瞬時に麻痺していくが、彼女はその冷たさから決して逃げない。
凍結したジルの右手の甲に自らの額を押し当て、熱い吐息を吹きかける。
耳を澄ますと、分厚い氷の鎧の奥深くから、チチ……と、壊れた懐中時計の最後の残響のような、かすかな魂の軋み音が届いた気がした。
心臓の鼓動は停止寸前まで微弱になっていたが、彼の魂は氷の最深部で、決して砕けることなくフィオナの訪れを待ち続けていたのだ。
(一人にはさせません……)
(もう二度と、あなたを冷たい闇に置き去りにはしません)
「……お待たせいたしました、ジル様。お約束通り、戻ってまいりました」
白く凍りついた唇から、温かな息の霧がこぼれ落ちた。
フィオナは胸元に抱いていた黄金の硝子瓶を両手で掲げ、震える指先でしっかりとコルク栓に手をかける。
母の銀香炉を足元の大理石に据え、最後の熱源として残された自身の生命魔力を呼び覚ました。
二人の運命を分かつ、乾坤一擲の解呪の刻が始まろうとしていた。




