第15話「狂気の反撃と絶対零度の檻」
「死ね! すべて我が呪詛の餌食となって滅び果てるがいい!」
ガブリエルは狂気に歪んだ咆哮を上げ、両手で掲げた『黒氷の触媒核』を白大理石の床へと力任せに叩きつけた。
激しい破砕音が広間に木霊する。
砕け散った黒い魔石の破片から、常世のものとは思えぬ漆黒の魔力波が爆発的に噴き上がった。
それは炎ではなく、触れるものすべてから生命の熱を根こそぎ奪い去る、死の冷気の衝撃波だった。
衝撃波が同心円状に広がり、大理石の床に蜘蛛の巣のような深い亀裂を走らせる。
逃げ遅れた親衛隊兵士の甲冑が触れた瞬間に白い霜で覆われ、金具が悲鳴を上げて軋んだ。
魔石を砕いた元凶であるガブリエルが、真っ先に自らが解き放った呪詛の奔流に呑み込まれた。
「ぐあああああっ! 熱い……いや、冷たい! 身体が……!」
指先から腕、胸板、そして首筋へと、青黒い分厚い氷が生き物のように這い上がっていく。
毛皮のマントが瞬時に凍結して硝子のように砕け散り、皮膚の水分が一瞬にして凍りついてひび割れた。
絶叫を上げた口を開いたまま、金縁眼鏡をかけたガブリエルの肉体は、醜い狂気と恐怖の表情を留めたまま一体の不気味な氷像へと変貌した。
広間には、何百年も封印されていた地下墓所を暴いた時のような、湿った土と硫黄が混ざり合った耐え難い死臭が立ち込める。
自らの野心のために他者を呪い、王国の覇権を貪ろうとした男の、因果応報を思わせる姿だった。
しかし、呪詛の暴走は主を失っても止まらない。
砕かれた触媒石の破片から噴き出した無尽蔵の黒い冷気は、巨大な渦を巻き、強い引力に導かれるように壇上のジル・クローデルへと殺到した。
大広間の空気が一瞬にして凍てつき、吸い込む大気そのものが鋭利な氷の針となって喉と肺を切り裂く。
四方の壁面には分厚い霜が張り付き、華麗な金装飾が冷気によって次々と弾け飛んだ。
「う……あ……あああああっ!」
壇上の鉄の椅子に拘束されたジルが、激痛の絶叫を上げた。
ガブリエルの魔石から放たれた黒魔力がジルの体内の呪詛核と直接連結し、眠っていた古代の氷結圧を極限まで励起させたのだ。
ジルの首筋から胸元、そして全身にかけて、青黒い禍々しい氷晶が恐るべき速度で肥大化していく。
拘束していた頑丈な鉄の輪が、内側から膨張する氷の圧力に耐えかねて、耳障りな金属音とともに無惨に弾け飛んだ。
自らの身体を覆う氷の鎧に全身を締め付けられ、ジルの強靭な骨が軋む鈍い音が壇上に木霊する。
蒼氷色の瞳の奥に宿っていた意識の光が、押し寄せる極寒の闇に呑まれて急速に掻き消えていった。
ジルの胸元で、悲鳴のような甲高い金属音が響き渡る。
首から下げられていた『白氷の懐中時計』の硝子面が、内側からの圧力に耐えかねて粉々に破裂したのだ。
文字盤の針が深紅の危険域の果て、停止の刻限へと跳ね上がり、ピクリとも動かなくなった。
ジルの心臓の周囲を、巨大な青黒い氷の結晶が外骨格のように覆い尽くしていく。
トクン……トクン……と微かに刻まれていた命の鼓動が、急速に弱まり、やがて消え入るような沈黙へと吸い込まれていった。
冷酷無情な氷結卿として恐れられながらも、誰よりも優しく不器用にフィオナを守り続けてくれた男の命が、永遠の凍土へと沈もうとしていた。
地鳴りのような重低音が大広間の石床を激しく揺るがす。
ジルの身体を中心に、半径数十歩に及ぶ空間が、熱そのものを貪り食う死の氷嵐の領域へと姿を変えていた。
青白い冷気の暴風が竜巻のように吹き荒れ、大理石の床から巨大な氷の槍が次々と突き出していく。
壁のタペストリーは瞬時に凍結して硝子のように砕け散り、天井に吊るされた巨大な水晶シャンデリアが自重に耐えかねて落下した。
ガシャン、と凄まじい音を立ててシャンデリアが砕け散り、無数の水晶の破片と氷粒が吹雪となって広間を吹き荒れる。
「逃げろ! 広間から出ろ!」
「扉へ急げ!」
貴族院の貴族や廷臣たちは我先にと身を翻し、破壊された大扉の出口へと殺到した。
かつて権勢を誇った貴族たちも、今はただ命惜しさに互いを踏み倒しながら夜の闇へと逃げ惑うしかなかった。
「閣下……! ジル閣下!」
レオンが長剣を構え、吹き荒れる氷嵐の中へと飛び込もうとする。
しかし、壇上を包む古代呪詛の極冷気は、人間の肉体が耐えうる限界を遥かに超えていた。
足を踏み入れた瞬間、レオンの鋼の甲冑には分厚い白い霜が張り付き、握りしめた剣の柄が手の皮膚に凍りつく。
呼吸をしようと開いた口から肺へと冷気が流れ込み、気道が凍結する激痛にレオンは喀血した。
猛烈な冷気の突風がレオンを弾き飛ばし、大理石の床へと叩きつける。
「レオン副団長!」
駆け寄った近衛兵たちがレオンを抱き起こすが、兵士たちの剣先もことごとく白く凍りつき、前進を阻まれていた。
近づく者すべての血液を凍結させ、心臓を停止させる死の領域。
古代の悪意が生み出した極寒の檻が、ジルと外界を隔絶してしまっていた。
壇上の中心で、ジルの苦悶の声さえも途絶えつつある。
両腕、両脚、胴体は分厚い氷の塊に包まれ、残されていた左目も青白い霜の膜に覆われて光を失っていた。
首筋から顎を通り越して頭部へと這い上がる氷晶は、彼の人格と記憶を永遠の氷土へと葬り去ろうとしていた。
「嘘だ……閣下……!」
床に倒れ伏したレオンが、血に濡れた拳で石床を叩き、痛恨の涙を流す。
屈強な近衛兵たちも、目の前で主君が氷の彫像へと変わり果てていく光景を前に、絶望にうなだれるしかなかった。
誰の目にも、もはや救済の道は閉ざされたかに見えた。
しかし、その絶望の極限にあって、ただ一人、瞳の奥に不屈の炎を燃やし続けている者がいた。
フィオナ・アシュレイ。
彼女は乱れた亜麻色の髪を猛吹雪に激しく靡かせ、凛然と前を見据えていた。
腰布から母の歪んだ銀香炉を外し、血のにじむ左手でしっかりと握り締める。
そして右手には、過酷な極限調合によって自らの血と魂を注ぎ込んだ、黄金に輝く硝子瓶『融解の香心』を高く掲げた。
硝子瓶に宿る陽光草の魔力が、フィオナの身体の周囲に目に見えぬ薄い熱の障壁を張り巡らせていた。
しかし、吹き荒れる死の嵐の前に、その熱の防壁は刻一刻と削られ、硝子瓶の光も少しずつ磨耗していく。
許された時間は、精油の魔力が尽きるまでのわずか数分間しかなかった。
「行かせてはなりません、フィオナ殿!」
這い上がろうとしたレオンが、血を吐きながら悲痛な叫びを上げた。
「あの氷嵐の中に入れば、生身の身体など数歩で凍りつき、命を落とします! 鎧を着た屈強な兵でさえ骨まで凍結する死の牢獄です! 無謀すぎます!」
フィオナは立ち止まらなかった。
振り返ることもなく、静かに、しかし鋼のように揺るぎない明瞭な声で応える。
「無謀ではありません。私はジル様と約束いたしました。必ず戻ると」
フィオナの萌黄色の瞳には、死への恐怖など微塵も浮かんでいなかった。
「他人の悪意に怯え、路地裏で震えていた私を救い出し、調香師としての誇りを与えてくれたのはあの人です。あの人の凍てついた氷を解かし、温かな春を連れてくるのは、専属調香師である私の役目です」
フィオナの細い足が、霜に覆われた大理石の床を踏みしめた。
境界線を越えた瞬間、針の山のような極冷気が全身を打ち据え、薄い囚人服の布地が一瞬で硬直する。
長い睫毛には白い霜の粒がびっしりと張り付き、剥き出しの頬の皮膚が鋭利な刃で裂かれたような激痛を訴えた。
吐き出す息は白い霧となって舞い散り、足元に広がる氷の結晶が踏み締めるたびに軋み音を立てる。
それでも、フィオナの足取りは決して止まらなかった。
冷気に抗うように脈打つ心臓の熱と、胸元に抱いた黄金の光を唯一の灯火として、彼女は死の吹雪の中へと前進を始めた。
凍てついた氷の檻の最深部で眠る、愛する人の命を取り戻すための、命を賭した最後の歩みが始まった。
一歩、また一歩と進むごとに、黄金の香煙と黒い冷気が激突し、パチパチと火花のような火線が散る。
硝子瓶から立ち上る温かな香気の膜が、吹き荒れる氷の刃を辛うじて弾き返していた。
しかし、その防壁はあまりにも薄く、冷気の嵐が吹きつけるたびにジリジリと削り落とされていく。
露出した手首の皮膚は赤紫色に変色し、凍傷による激痛が神経を焼いた。
(耐えて……私の身体……!)
(ジル様の元へ辿り着くまで、決して倒れるわけにはいかない……!)
フィオナは歯を食いしばり、薄れてゆく香液の光を抱きしめた。
前方にそびえるのは、禍々しい氷晶に囚われ、心臓の鼓動を止めかけた愛する人の姿。
死の結界を突き破り、命を繋ぎ止めるための戦いは、ここからが本番だった。




