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17時の境界線  作者: 月瀬 透
17:00 浅草異界
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2/4

第2話 異界への踏み込み

――ぞわり、と。


全身の産毛が逆立つような感覚とともに、世界の空気が一変した。


踏み出した右足の先から、冷たい水の中に引きずり込まれるような錯覚。


同時に、背後から響いていた車の走行音も、遠くの電車の響きも、すべての雑音がピタリと消え去った。


「……っ!」


息を飲み、思わず後ろを振り返る。


街はある。道路もある。夕道を行き交う人々の姿も見えている。


けれど、それらはまるで薄いガラス越しに見る映像のように遠く、こちら側の音は一切届かない。


そして、前を向いた瞬間――俺は自分の目を疑った。


「な……んだ、これ……」


さっきまで見慣れた住宅街だったはずの景色。


建物の配置も、アスファルトの道もそのままだ。


だが、色彩が根こそぎ奪われていた。


世界全体が灰色と濃紫色のグラデーションに塗り潰され、見上げた空には、夕焼けの代わりに不気味な幾何学模様の亀裂が走っている。


17時になった瞬間に、街が別の「何か」に上書きされたかのように。


そして、その恐ろしい静寂を切り裂いて――


――グルゥゥゥ……。


細い路地の奥から、地を這うような低い唸り声が響いた。


灰色の闇を割って現れたのは、犬のような形をした「何か」だった。


だが、犬などではない。


体長は二メートル近くあり、全身の皮膚がひび割れた黒い泥のように蠢いている。頭部には目がなく、裂けた巨大な口から鋭い牙と粘着質な唾液を撒き散らしていた。


「あ……」


声すらまともに出なかった。


赤く光る口腔が、一直線にこちらを捉える。


――逃げろ。


理性が叫ぶより早く、俺は脱兎のごとく背を向けて走り出していた。


心臓が早鐘のように鳴り響く。


靴底がアスファルトを蹴る音だけが、無音の世界に異様に大きく響いた。


背後で、地響きのような足音が爆発する。


――速い!


振り返る余裕すらない。


狭い住宅街の路地を夢中で駆け抜ける。曲がり角を曲がり、壁を背にして隠れようとするが、奴の唸り声は容赦なく距離を詰めてくる。


ガァンっ! と背後で家屋の塀が削れるすさまじい破砕音がした。


「ハッ、はぁっ、はぁっ……!」


足が縺れる。酸素が足りない。


東京へ引っ越してきて、まだ三日目だぞ? なんで俺がこんな場所で、わけのわからないバケモノに追いかけ回されているんだ!?


焦りで視界が狭まり、角を曲がった――その瞬間。


「しまっ――」


行き止まりだった。


目の前には、崩れかけた高いコンクリート壁。


逃げ場はない。


恐る恐る振り向くと、路地の入口を塞ぐように、あの巨体が立ちはだかっていた。


ダラダラと垂れ落ちる黒い唾液が、アスファルトをじゅうと腐食させる。


詰んだ。


壁に背中を押し付け、膝ががくがくと震えて力が入らない。


異形が巨大な口を限界まで開き、俺の首元を目がけて跳躍した。


死ぬ。


そう確信して目を強く瞑った――その、瞬間。


「――静かにしろ、ノイズが酷い」


頭上から、だるそうな男の声が降ってきた。


直後、地面から「黒い帯」のような影が生き物のように飛び出し、空中で異形の四肢をがっちりと拘束した。


ガアッ!? と怪物が空中でおさまりのつかない声を上げる。


「チッ……間一髪かよ。おいオッサン、影の固定が甘い!」


「注文が多いな、陸(りく)。……合わせろ」


闇を裂いて現れたのは、二人組だった。


一人は、缶コーヒーを片手に持った、ヨレヨレのスーツ姿の男――どこか見覚えのある、うちの学校の教員だ。


そしてもう一人は、制服のジャケットを羽織った男子生徒。そいつは空中で身を翻すと、右脚にバチバチと蒼い衝撃波を纏わせた。


そのまま、叩きつけるような踵落としが、影に縛られた怪物の脳天を穿つ。


ドゴォォォンッ!!


爆音とともにアスファルトが砕け散り、怪物の巨体が一瞬で黒い霧となって霧散した。


静寂が戻る。


俺は壁に背をもたれさせたまま、ヘたり込んで荒い息を吐き出すことしかできない。


蒼い残光を消した男子生徒――千歳陸《ちとせ りく》が、面倒そうに髪をかき上げながら俺を見下ろした。


「……おい」


その眼光は、刃物のように冷たい。


「なんで一般人が、この『異界』の中に入り込んでやがる」


そして、缶コーヒーを一口飲んだスーツの男――歴史担当の神楽坂(かぐらざか)先生が、冷めた目で俺を見つめながら呟いた。


「風弥甚一(かざみ じんいち)……だったか。どうやら、面倒な転校生が入ってきたらしいな」


恐怖と困惑で硬直する俺を残して、東京の裏側の夜が、静かに幕を開けた。

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