第2話 異界への踏み込み
――ぞわり、と。
全身の産毛が逆立つような感覚とともに、世界の空気が一変した。
踏み出した右足の先から、冷たい水の中に引きずり込まれるような錯覚。
同時に、背後から響いていた車の走行音も、遠くの電車の響きも、すべての雑音がピタリと消え去った。
「……っ!」
息を飲み、思わず後ろを振り返る。
街はある。道路もある。夕道を行き交う人々の姿も見えている。
けれど、それらはまるで薄いガラス越しに見る映像のように遠く、こちら側の音は一切届かない。
そして、前を向いた瞬間――俺は自分の目を疑った。
「な……んだ、これ……」
さっきまで見慣れた住宅街だったはずの景色。
建物の配置も、アスファルトの道もそのままだ。
だが、色彩が根こそぎ奪われていた。
世界全体が灰色と濃紫色のグラデーションに塗り潰され、見上げた空には、夕焼けの代わりに不気味な幾何学模様の亀裂が走っている。
17時になった瞬間に、街が別の「何か」に上書きされたかのように。
そして、その恐ろしい静寂を切り裂いて――
――グルゥゥゥ……。
細い路地の奥から、地を這うような低い唸り声が響いた。
灰色の闇を割って現れたのは、犬のような形をした「何か」だった。
だが、犬などではない。
体長は二メートル近くあり、全身の皮膚がひび割れた黒い泥のように蠢いている。頭部には目がなく、裂けた巨大な口から鋭い牙と粘着質な唾液を撒き散らしていた。
「あ……」
声すらまともに出なかった。
赤く光る口腔が、一直線にこちらを捉える。
――逃げろ。
理性が叫ぶより早く、俺は脱兎のごとく背を向けて走り出していた。
心臓が早鐘のように鳴り響く。
靴底がアスファルトを蹴る音だけが、無音の世界に異様に大きく響いた。
背後で、地響きのような足音が爆発する。
――速い!
振り返る余裕すらない。
狭い住宅街の路地を夢中で駆け抜ける。曲がり角を曲がり、壁を背にして隠れようとするが、奴の唸り声は容赦なく距離を詰めてくる。
ガァンっ! と背後で家屋の塀が削れるすさまじい破砕音がした。
「ハッ、はぁっ、はぁっ……!」
足が縺れる。酸素が足りない。
東京へ引っ越してきて、まだ三日目だぞ? なんで俺がこんな場所で、わけのわからないバケモノに追いかけ回されているんだ!?
焦りで視界が狭まり、角を曲がった――その瞬間。
「しまっ――」
行き止まりだった。
目の前には、崩れかけた高いコンクリート壁。
逃げ場はない。
恐る恐る振り向くと、路地の入口を塞ぐように、あの巨体が立ちはだかっていた。
ダラダラと垂れ落ちる黒い唾液が、アスファルトをじゅうと腐食させる。
詰んだ。
壁に背中を押し付け、膝ががくがくと震えて力が入らない。
異形が巨大な口を限界まで開き、俺の首元を目がけて跳躍した。
死ぬ。
そう確信して目を強く瞑った――その、瞬間。
「――静かにしろ、ノイズが酷い」
頭上から、だるそうな男の声が降ってきた。
直後、地面から「黒い帯」のような影が生き物のように飛び出し、空中で異形の四肢をがっちりと拘束した。
ガアッ!? と怪物が空中でおさまりのつかない声を上げる。
「チッ……間一髪かよ。おいオッサン、影の固定が甘い!」
「注文が多いな、陸。……合わせろ」
闇を裂いて現れたのは、二人組だった。
一人は、缶コーヒーを片手に持った、ヨレヨレのスーツ姿の男――どこか見覚えのある、うちの学校の教員だ。
そしてもう一人は、制服のジャケットを羽織った男子生徒。そいつは空中で身を翻すと、右脚にバチバチと蒼い衝撃波を纏わせた。
そのまま、叩きつけるような踵落としが、影に縛られた怪物の脳天を穿つ。
ドゴォォォンッ!!
爆音とともにアスファルトが砕け散り、怪物の巨体が一瞬で黒い霧となって霧散した。
静寂が戻る。
俺は壁に背をもたれさせたまま、ヘたり込んで荒い息を吐き出すことしかできない。
蒼い残光を消した男子生徒――千歳陸が、面倒そうに髪をかき上げながら俺を見下ろした。
「……おい」
その眼光は、刃物のように冷たい。
「なんで一般人が、この『異界』の中に入り込んでやがる」
そして、缶コーヒーを一口飲んだスーツの男――歴史担当の神楽坂先生が、冷めた目で俺を見つめながら呟いた。
「風弥甚一……だったか。どうやら、面倒な転校生が入ってきたらしいな」
恐怖と困惑で硬直する俺を残して、東京の裏側の夜が、静かに幕を開けた。




