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17時の境界線  作者: 月瀬 透
17:00 浅草異界
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1/4

第1話 東京の空は、少しだけ狭い

東京は、うるさい。


引っ越してきてから、まだ三日しか経っていない。


それなのに、朝から聞こえてくる音の数が、今まで住んでいた場所とは全然違っていた。


地鳴りのようなアスファルトの走行音。


遠くで重なり合う金属的な電車の響き。


誰かの話し声や笑い声。


切り裂くように響くサイレン。


窓を開ければ、目と鼻の先に向かいの建物の無機質な壁が立ちはだかっている。


見上げた空も、妙に狭かった。


「……慣れるのかな、これ」


制服のネクタイを締め直しながら、俺――風弥甚一(かざみ じんいち)は小さく呟いた。


今日から新しい学校だ。


高校二年の春。


親の仕事の都合で、俺はそれまで暮らしていた郊外の町を離れ、東京へ引っ越してきた。


別に、東京に来たかったわけじゃない。


友達と離れるのも嫌だったし、通い慣れた学校を変わるのも面倒だった。


それでも、引っ越しは決まった。


だから仕方ない。


「行ってきます」


返事を期待するわけでもなく、静かな玄関を出る。


駅までの道を歩きながら、スマホに表示された地図アプリを何度も確認した。


昨日までなら、家を出れば見慣れた景色があった。


今日は違う。


知らない道。


知らない建物。


知らない人。


そして、知らない学校。


駅に着く頃には、人波に揉まれただけで、すでに少し疲れを感じていた。


満員電車に揺られ、学校へ向かう。


窓の外を流れていく無数のビル群を眺めながら、俺はぼんやりと考えていた。


――今日から、ここが俺の学校になる。


それだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かなかった。


* * *


「じゃあ、自己紹介してもらおうか」


教室の一番前。


担任の先生に促され、俺は黒板の横に立った。


一斉にクラス中の視線が集まる。


こういう空気は、昔から苦手だ。


名前を言って、出身地を言って、よろしくお願いします。


それだけ。


頭では分かっている。


なのに、喉の奥が妙に強張り、緊張で心臓が跳ねた。


「……今日からこのクラスになりました、風弥甚一《かざみ じんいち》です。前の学校は――」


出身地を簡単に説明する。


教室内から「遠っ」と小さく呟く声が漏れた。


東京から見れば、確かにずいぶんと遠い場所だ。


「東京はまだ全然慣れてないですけど、これからよろしくお願いします」


ぺこりと頭を下げる。


ぱらぱらと鳴り響く拍手。


それだけだった。


割り当てられた席に戻る途中、隣の席の男子が小さな声で話しかけてきた。


「結構田舎から来たんだな」


「まあな」


「東京来るの初めて?」


「遊びに来たことはあるけど、住むのは初めて」


「じゃあ、駅とか絶対迷うじゃん」


「もう昨日迷った」


「早っ」


くすっと笑われた。


俺もつられて笑った。


その瞬間に、肩の力が少しだけ抜けた気がした。


昼休みには、その流れで何人かのクラスメイトと話すようになった。


好きなゲームの話。


最近見たアニメの話。


あの先生の授業が分かりにくいとか、次のテストが面倒だとか。


他愛もない、くだらない話ばかりだった。


でも、そのくだらなさが、どこか救いだった。


転校してきたばかりの俺でも、ちゃんとここで高校生をやっていけそうな気がした。


放課後。


部活へ向かう生徒たちが、賑やかに教室を出ていく。


「風弥(かざみ)は部活入る?」


朝話しかけてくれた男子が、鞄を肩にかけながら聞いてきた。


「まだ決めてない」


「そっか。俺、サッカー部だから。またな」


「ああ。また明日」


手を振って、そいつも教室を出ていった。


気がつけば、教室には俺しかいなくなっていた。


壁の時計を見上げる。


――十六時五十三分。


「帰るか」


鞄を肩にかける。


ガラガラと音を立ててドアを開け、廊下に出る。


さっきまで喧噪に包まれていた校舎が、少しずつ静けさを取り戻していた。


階段を降り、昇降口へ向かう。


下駄箱で靴を履き替えて外に出た。


夕方の風が、冷たく頬を撫でる。


空は鮮やかなオレンジ色に染まり始めていた。


ふとスマホを開く。


画面の時計が、十七時丁度を指した。


その瞬間だった。


――カチッ。


脳裏に直接響くような、どこかで何かが切り替わった音。


「……?」


足を止める。


周囲を見渡すが、何もない。


相変わらず車は走り去り、人々は歩道を行き交い、信号のライトが切り替わっていく。


いつもの、日常の街並みだ。


気のせいか。


自分に言い聞かせるように、俺は再び歩き始めた。


駅とは反対方向。


昨日、迷いながら見つけた近道を使って帰ることにした。


狭い路地を抜け、閑静な住宅街へと入っていく。


大通りから離れるにつれて、車音も人通りも途絶え、あたりが静まり返っていく。


そこで、ふと足が止まった。


「……あれ?」


十数メートル先の道路。


立ち並ぶ一戸建てとアパートの間。


そこだけ、明らかに空間の空気がおかしかった。


夕焼け色に染まる街並みの中で、そこだけぽっかりと「夜」が落ちている。


暗い。


けれど、ただの影や闇ではない。


空間そのものが歪み、透明な境界線の壁が道路を真っ二つに横切っているかのようだった。


「……何だ、あれ」


引き寄せられるように、一歩近づく。


距離が縮まるにつれ、その違和感の正体が明確になっていった。


境界線の向こう側だけ、何も見えないのだ。


向こうにあるはずのアパートも、電柱も、アスファルトの続きも。


景色そのものが塗り潰されたように消失している。


黒いわけではない。


色として黒いのではなく、視界に「認識」できないのだ。


まるで光すらも逃れられず、その深淵に吸い込まれているかのようだった。


「……なんだよ、これ」


俺は慌てて辺りを見回した。


だが、誰一人として立ち止まっていない。


スーツ姿のサラリーマンも、自転車を漕ぐ学生も、犬の散歩をする老人も。


何事もない顔で、その境界線の目と鼻の先を通り過ぎていく。


――誰一人、これが見えていない。


自分だけがこれを目撃しているのだと理解した瞬間、背筋に冷や汗が伝った。


視線を再び目の前の「欠落した空間」へ戻す。


境界線は、道路のすぐ途中にあった。


ほんの数メートル先。


手を伸ばせば届いてしまいそうな近さ。


しかし、その先には何が存在するのか、まったく見当もつかない。


怖い。


引き返した方がいい。今すぐに。


理性が叫んでいた。


なのに。


吸い寄せられるように、一歩だけ足が前に出た。


靴の先が、その空間の境界線に触れる。


その瞬間。


――ぞわり。


世界の空気が一変した。


まるで、水底へと唐突に引きずり込まれたような錯覚。


同時に、背後から聞こえていた街の雑音が、まるで音量をゼロにされたかのようにピタリと消失する。


「……っ!」


恐ろしさに跳ね起き、反射的に足を引っ込めようとした。


けれど、その瞬間。


境界線の向こう側――視界の通らない無の深淵から。


音だけが、耳朶を震わせた。


地を這うように低く。


はるか遠くから響くような。


咆哮にも似た、異形な獣の唸り声。


俺は呼吸すら忘れ、ただ硬直した。


そして、恐怖に震える視線を、ゆっくりと境目の向こうへ向ける。


相変わらず何も見えない。


何もわからない。


けれど、確信だけがあった。


――そこに、「何か」が確実に存在している。


俺はまだ知らなかった。


この街で、毎日十七時になると何が引き起こされているのかを。


そして。


この日、俺が踏み越えてしまったものが――


これから始まる、長くて深い夜の入り口だったということを。

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