第九十四話 タヌキたちの生活
「お?」
結界の中から聞こえてきたのは、優しそうな年老いた男性の声だった。流凪が結界の方へと向き直ると、目の前の空間が水面のように揺れ、そこから一匹のタヌキが現れる。先ほど流凪に帰るように促していたタヌキに比べると一回り大きく、しかしそのゆっくりとした歩みは老いを感じさせた。
「長老! 何言ってんだよ!?」
「仕方がなかろうて。お前はまだ若く感じ取れんかもしれぬが、この少女はワシらがどうこう出来る存在ではない。敵対してはならん」
「そ、そんなにか? 皆でかかれば……」
「無理じゃよ。片手間に蹂躙されるじゃろうて。幸い、ワシらへの害意は感じられぬ。今はこの少女の行く手を妨げてはならん」
「ぐ、ぐぅ……」
流凪からはよく分からないが、恐らく悔しそうな表情を浮かべた若いタヌキが後ろへと手を振って合図を送る。すると、ずっと監視していたタヌキたちがわらわらと姿を現した。
「では、こちらへ」
「うん、ありがとー」
長老タヌキの案内で、結界の中へと入る流凪。その中は、タヌキの住処の穴があちこちに空いている、ということはなく、なんと先ほどまで流凪たちが休憩していた村のような木造建築が並んでいた。その村ではタヌキ耳を付けた人々が生活しており、普通の人間がただ軽く見渡しただけでは耳以外の異常を見つけることは出来ないだろう。案内してくれている長老や監視していた若いタヌキたちもいつの間にか人の姿へと変化していた。
「ようこそ、ワシらの村へ」
「へー。人間みたいな生活をしてるんだね」
「うむ。ワシらは人を化かす存在。人の想像から物を生み出し、それによって人を惑わす。ここに人間が迷い込めば、ワシらを同族だと思って騙されるじゃろうて」
この村も、先ほど休憩した村も、タヌキたちが人間の想像を元にして生み出した物だということなのだろう。複数の人間の想像を元にしているため、混ざり合っておかしなことになっている部分が出来てしまったと思えば、建物の微妙なちぐはぐ感も納得出来る。
「とは言いつつも、ワシらは積極的に人間に関わろうとは思っておらん。昔ならいざ知らず、最近の人間は恐ろしい存在じゃ。手を出せばどうなるか想像も出来ん」
技術の発展に伴い、人間はどんどん力を増している。今ではタヌキなど何匹いようが薙ぎ払われて終わるだろう。妖怪として、人間を脅かしてやりたい欲求はあれど、下手に手を出して全滅しては笑い話にもならない。
「だから基本的にワシらは人間を襲わない。この山に入り込んできた者についても、ただ見ているだけであることが多いのう。ただし」
そこまで語った長老は一度言葉を区切る。この先を言っても良いものか。流凪の機嫌を損ねることにはならないか。少しの間、躊躇うように口を閉じ、しかしここまで話してしまったのならもう変わらないだろうと再び口を開いた。
「山に害なす者、ワシらの生活を脅かす者は別じゃ」
いくら人間が恐ろしい存在だろうと、住処を破壊されたり仲間に手を出されては黙っていられない。放っておくと危険な存在は、化かす力を用いて脅かし山から追い出そうと試みることもある。それで人間の怒りを買って攻撃されることになろうとも、危険な存在を放置して生活を脅かされるよりは良い。やらずに後悔するよりやって後悔するべきだ。それはただ臆病なだけの野生動物ではない、長く生きてきた妖怪としての矜持だった。
「それで、どうする、少女よ」
「んー? どうするって?」
「ワシらを滅ぼすのか?」
緊張の面持ちから、長老が発した流凪への質問。きっとそんなことは考えていないだろうと思ってはいても、目の前の少女の気まぐれ一つで殲滅されてしまうという恐怖。この少女が何の目的でここまでやってきたのか分からない以上、タヌキたちの生態を聞いて滅ぼした方が良いと考える可能性はゼロではないのだ。
が、当然流凪がそんなことを考えるはずもない。
「えー、そんなことしないよー」
「そ、そうか……」
そんなこと考えもしなかったと言わんばかりののんびりした返答に、長老は全身から力が抜けてしまいそうなほど安堵した。どうやら少なくとも最悪の事態だけは回避出来たようだ。
「ではおぬしはここに何をしに来たんじゃ」
「探索だよ」
「探索?」
「とりあえず聞きたいんだけど、この村のやつじゃなくてもっと大きい、ここの領域を作ってる結界は君たちのってことで良いんだよね?」
「うむ、そうじゃな」
現在流凪と玲、そして大学生たち五人が閉じ込められているこの領域は、タヌキたちが平穏に暮らすために作った結界だ。それが分かれば話は早い。流凪は現在の目的、他の人間が捕らわれているかどうかを確認するために探索していることを説明し、行動を共にしている人間たちの特徴を共有、他の人間がいるかどうかを質問した。
「いや、今入り込んどる人間はその七人だけじゃな」
このタイミングでまさかタヌキたちが流凪に嘘を吐くとも思えない。この言葉は信じても良いだろう。ならこの後時間になったら集合して、そのまま全員で脱出してしまえば、とそこまで考えたところで流凪は首を振る。ここはタヌキたちの大切な生活圏だ。結界を破壊してしまう訳にはいかないだろう。タヌキたちの穏やかな生活を見てしまった今となっては尚更だ。
ここはタヌキたちに協力してもらうべきだ。
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「む?」
「この後、えーっと二時間くらいかな。時間になったら集合する予定になってるんだけど、そこに一緒に来てここから出してくれないかな」
結界を破壊せずとも、タヌキに外に出してもらえば良いだけだ。他に人間もいないなら今のメンバーで集合してそのまま外に出してもらって、その後は二度とこの山に近付かないようにすれば、タヌキたちにとっても人間側にとっても問題は解決する。
人間が怖いタヌキにとっては、人間たちが集まる場所には行きたくないかもしれないが、それでもこの領域にずっと人間が迷い込んでいるよりはよほど良いはずだ。これは両者にとって損のない提案。だから、長老の返答は流凪にとってあまりにも想定外のものだった。
「断る」
「え……?」
その長老の言葉には、有無を言わせぬ強さがあった。流凪の怒りを買えばどうなるか分からないと理解しているはずなのに、それでもここは譲れない部分だとはっきり言い切る。
「すまぬな少女よ。その提案は受け入れられんのじゃ」
「なんで?」
マイペースな流凪をして、長老の返答には困惑せざるを得ない。流凪たちを放置すれば、もしかしたら痺れを切らした流凪が結界を破壊して脱出してしまう可能性だってあるというのに、流凪の提案はタヌキたちにとっても損のないもののはずなのに、それでも一切の迷いなく断った。そこには何か理由があるはずだが、しかしその理由が流凪には分からない。
そんな流凪の内心が分かっているのだろう。長老は続けて説明してくれた。
「先ほども言ったじゃろう。山に害なす者は見逃せぬと」
基本的に人間には干渉せず見ているだけという対応をするタヌキたち。だが、山や仲間に害なす者は別。二度とこの山に近付く気にならないように、恐怖を植え付ける。
「その人間たちはここに迷い込んでいるのではない。ワシらの意思で閉じ込めておるんじゃ」
「つまり……」
流凪と玲は山に悪影響がありそうな行動はしていないはず。そうなれば当然、長老の言葉の意味は絞られる。
「彼奴には、一生忘れられぬ恐怖を刻み込まねばならん」
これまで流凪に対応していた優し気な声とはまるで異なる低く重い声色で、長老はそう言った。




