第九十五話 人の心
「うーん……そっかー……」
残念そうに呟いた流凪は、監視していた若い少女タヌキにトコトコと近づいて頭を撫でた。すると、ポンッと変化が解けてしまい、小さいタヌキの姿へと戻る。
「え、えッ!?」
あまりに突然の出来事に驚いて動きを止めた小さいタヌキを、ぬいぐるみでも抱えるように持ち上げた流凪は、そのまま感触を楽しむように撫でまわす。
「おー、モフモフだね。可愛いー」
「止めろ! 放せー!」
流凪の手の中でジタバタと暴れるタヌキだったが、何故か普段に比べて力が入り辛く、どうも抵抗が難しい。結局、しばらくして脱出は難しいと判断すると、不満だという様子を前面に押し出しながらも大人しくなった。
「…………それは、人質、ということですかな。要求通りにしろ、と?」
流凪の要求を断った途端にタヌキを捕らえたので、そういうことだと理解した長老。一切の害意が感じ取れなかったため、まさかそんなことをしてくるとは想定出来ず反応が遅れたが、きっと目の前の少女は悪意も敵意も害意もなく攻撃に移ることが出来る異常な精神の持ち主だったのだろうと後悔の中で歯噛みする。
が、流凪はそんな長老の問いかけにキョトンと不思議そうな顔で返答する。
「え、違うよ?」
その流凪の表情が、あまりにも予想外のことを言われたと真っ直ぐに語りかけてくるため、いよいよ困惑が隠せなくなってくる長老。
「な、ならばそれは一体何をしているんじゃ……?」
「タヌキって可愛くてモフモフしてそうだから、触ってみたいなーって思って」
「触ってみたかったから、触っているだけだ、と……?」
「うん」
楽し気にタヌキを撫でまわす流凪の姿を眺めながら、長老はその真意を探る。目の前の少女は、結界に入り込んでいる人間たちを外に出したい。しかしその要求は断られ、ならば少女が今からするのはタヌキに要求を呑ませるための行動か、人間たちを助けるための行動のどちらかのはず。だからこそタヌキを人質にしたのだと考えたのだが、それは違うと言う。
タヌキに無理矢理要求を呑ませるように動くことをしないのであれば、早く他の人間と合流するために動き始めなければおかしいのではないだろうか。では今現在、目の前でタヌキを撫でまわして遊んでいる少女は何をしているのか。
「ワシらにとっては不都合なことじゃが、おぬしは早く他の人間たちを助けに行かねばならんのではないのか?」
考えても少女の思考が読み解けるとは思えなかった長老は、遂に直接質問することにした。これに正直に答える義務は少女にはない訳だが、何となくこの少女は嘘など吐かないような気がする。
「え? 別に」
その返答は、先ほどと似た不思議そうな表情から飛び出した。
「まあ助けに行こうかなとは思うけど、別にそんなに急がなきゃ駄目とは思わないかなー」
流凪の返答に、長老の全身の毛が粟立つ。ずっと人間だと思って接していた相手が、何か得体の知れない化け物だったと理解してしまったような、そんな感覚。
「わたし、一応人助けみたいな仕事をしてるんだけどね。それって何のためにやってるかって言うと、正の感情、感謝とかそういうのをもらうためなんだよね。お金はついでに過ぎない」
あの子たちって、素直に感謝してくれるのかな
「君が言うには、あの子たちは山に何かしたってことなんだよね。あんまり良い子たちじゃないってこと。ちょっと気乗りしないよねー」
まあ全員が悪い子ってこともなさそうだし助けには向かうけどー、などとこぼす流凪に対し、長老は勘違いを覚った。
この少女は、強大な力を人々のために振るう正義感を持った人間なのだと思っていた。その上で人外の存在に対しても一定の優しさを持って接してくれる、心優しい少女なのだと。
だが、今この少女は面倒だからという理由で人助けを後回しにしている。たとえその助ける対象が善人ではない可能性があるとしても、助けられる力を持っているならとりあえず助けようとするか、そうでなくても多少気にするくらいはするのが人間というもののはずだ。少なくとも、こんなどうでも良い遊びのために行動を後回しにするなど人間のすることではない。
この少女に、人の心などない
「君たちがやろうとしてるのは、ただ恐怖を植え付けることだけなんだよね。それで反省するなら、わたしもそっちの方が良いと思うよ」
「それで、一生消えないトラウマになったり、最悪精神を病んで廃人になるとしても、か?」
「人間みたいなことを気にするんだね。まあそうならない方が良いとは思うけど、なっちゃったなら仕方ないんじゃない?」
「そう、か……」
少女の心は揺らがない。ただ凪を保っている。長老は思った。これに比べれば、むしろ自分たちの方がよほど人間らしいと。
「彼奴らをここに閉じ込めるに至るまでの経緯、話しても良いかの?」
「え? うん、良いよー」
このままにしておくのはあまりにも忍びない。長老は、全てを説明することにしたのだった。
「はぁっ……はぁっ……」
「っはぁ…………とりあえず撒いたか?」
森の中をしばらく駆け抜け、後ろから足音がついてきていないことを確認した涼人は、ようやく足を止めた。ただでさえ体力のない葵は動くことすら辛いレベルで疲れ切っているが、それはそれとして足を止められる状況になったことに安堵した。
「チッ、何なんだよ一体」
イラついた様子で乱暴に煙草を取り出した涼人は、口のそれに火をつけて一息入れる。が、ハッとして慌てて煙草を地面に落として踏みつけた。自分は一体何をしているんだ。襲撃者からやっと逃げ切ったというところで自分の位置を知らせかねない煙を昇らせるなど。疲労で頭が回っていなかった。
「おい、葵。大丈夫か」
「はぁ、はぁ、は、はい、何とか……」
「なら移動するぞ。こっちだ」
どうにか葵の息も少しずつ整ってきたようなので、再び歩き出す二人。いくら一度逃げ切ったといえど、恐らく奴らは未だに自分たちを探しているはずだ。いつまでも一か所に留まってはいられない。
「先ほどのは、あれでしょうか。噂になっていた、普通とは全く異なる文化体系の原住民という」
「さあな。だとしたらさっきまでいた村は連中の住処ってことになるが、それはおかしいだろ」
「確かに。全く異なる文化体系、という感じの村ではありませんでしたね」
涼人や葵が住んでいる都市とは全く異なる様相の村ではあったが、田舎の方なら現在でもあのような村に住んでいる人がいるはずだ。それを指して全く異なる文化体系とは表現しないだろう。
と、そんな大して重要でもない会話を小声でしながら移動する中、今の状況は都合が良いかもしれないと思った涼人は、葵に別の話題を振る。
「ところで葵、お前、ここに入り込む直前のことは覚えてるか?」
それは、葵とはぐれたまさにその時の状況について。葵と再会してからずっと気になっていたそれについて、この二人きりという都合が良い状況を利用して尋ねてみた。
そんな涼人の問いかけに、葵の足が止まる。
「もちろん、覚えていますよ」
不自然なほどにこやかに告げる葵。その返答を聞いて慌てて葵から離れようとする涼人の手を、葵はガッチリ掴んで放さない。
「どうして逃げようとするんですか。ねえ、わたしたち、恋人じゃないですか。そうでしょう?」
葵の声はどこまでも平坦で、そしてその顔は、満面の笑みだった。




