第八十五話 唯一の希望
渡された名刺を見ながら桃華は考える。この名刺に書かれていることが本当なら、彼女らは現在自分たちが巻き込まれているような異常現象に対する専門家であるということになる。だとすればこの落ち着き様も納得出来ないこともないし、この場にいること、先ほど言っていた調査というのも理解出来る。
逆に考えてみよう。もしこの名刺が嘘なら。そうだとすれば、彼女らはこの状況で嘘を吐いて自分たちを騙そうとしていることになる。間違いなくまともな人間ではない。だが、もしそうだったとして自分たちに逃げる術はあるのか。ここがどこかも分からない。どこに向かえば良いのか、何をすれば良いのか、むしろ自分たちは今危険な状況なのかどうかすら、何も分からないのだ。
この名刺が本当なら、彼女らに頼めば助けてもらえるかもしれない。何も分からない現状、そこに賭けるしか出来ることはないのではないだろうか。
「ねえ桃華ちゃん、あたしにも見せてよ!」
じっと考え込んでいた桃華の様子に痺れを切らした椿が、横から名刺を奪い取る。それを眺める椿の両サイドから、聖太と涼人も覗き込んでその内容を確認した。
「スゴーイ! 流凪ちゃんお仕事してるんだね!」
「異常現象解決しますぅ? おいおい、ガキがふざけてんのか。ままごとに付き合ってる場合じゃねえんだっつの」
「黙れ聖太」
「ああ? んだよ涼人。てめえこんなガキの言うこと」
「聞こえなかったのか、黙れ。唯一の希望を怒らせるようなこと言うんじゃねえよ」
椿はただ感嘆しているだけ、聖太は全く信じていないようだが、どうやら涼人は桃華がじっくり考えて出したものと同様の結論にすぐ到達したらしい。
「現状、この名刺が事実か嘘かは重要じゃねえ。俺らにはこれを信じて頼る以外に選択肢はねえんだ」
「はあ? こんな意味不明な名刺を信じろってのかよ」
「ならこれを嘘だと断定して、てめえはこれからどうするんだ。言ってみろ」
「そりゃあ……だから……」
そこまで言われてやっと先のことについて考えた聖太は、何も言えないことに気が付いた。怪しいから、信用出来ないから、流凪を信じない。それだけを考えていて、じゃあどうするのかについては全く考えていなかったのだ。
やっと聖太も納得して黙ったのを見て、改めて桃華が流凪に向き直る。
「えっと、流凪ちゃん。あなたはこの場所が何なのか、分かるのかしら」
「さあ、どうだろうね」
まるで煽ってきているかのような返答に一瞬喉を詰まらせる桃華だったが、どうにかそれを飲み込んで笑みを絶やさないように気をつけながら続ける。
「わたしたち、ここがどこなのかも分からなくて困っているの。助けてもらうことは出来る?」
「それも、どうだろうね」
「ッ!!」
舐めているとしか思えない返答の連続に耐え切れなくなった聖太が怒鳴りつけようと息を吸い込む。が、それを察知した涼人が腕を引いて黙らせた。涼人も、桃華すらも聖太の気持ちはよく分かるが、それでも今この少女の機嫌を損ねることだけは許されないのだ。唯一、椿だけは流凪が話しているだけで嬉しいのかずっとニコニコしているが、流石の桃華も頬が引きつってきた。
「今分かるのは、ここは多分何かが生成した異界だってことくらいかなー」
「何か……?」
「うん、何か。妖怪か、幽霊か、もしかしたら神様か。はたまたこの土地自体が何か特殊な効果を発揮する領域なのか。ちょっと今は分かんないね」
そこまで流凪の話を聞いて、どうやら先ほどの返答は煽っているのではなく本当に分からないだけだったのだろうと理解した桃華の心がやっと落ち着きを取り戻した。思えば流凪は今調査をしている途中だと言っていた。そう考えれば、ここが何なのか、自分たちを助けることが出来るかどうか、今はそれも分からないというのは当然のことだ。無意識に状況にのまれていたのだろう。
「じゃあその何かが分かるまでは脱出は不可能ということね」
「ん? 脱出するだけなら出来るよ」
「え、出来るの?」
「え? 出来るよ?」
ここまでのやり取りは何だったのか。それなら素直に助けられると答えてくれれば良いのに。だが、それももうどうでも良い。助かるならそれが、それだけが大切なのだから。
「それならわたしたちをここから脱出させてもらえないかしら」
「それはダメー」
「はあ!? てめえこのガキが、いい加減にしろよ!」
遂に限界を迎えた聖太が流凪に掴みかかる。むしろここまで耐えただけでも聖太としては頑張った方だといえるだろう。怒りに任せてベンチに座る流凪の胸倉へと腕を伸ばして
気が付いた時には地面に倒れていた。
「…………あ?」
何が起きたのか分からない聖太は、キョロキョロと周囲を見ながらゆっくりと起き上がる。地面に座るような体勢になったところで、いつの間にか目の前に立っているメイドの存在にやっと気が付いた。ついさっきまでは流凪と聖太の間には誰もいなかったはず。このメイドは一歩横に立っていた。なのに、本当にいつの間にか目の前に現れている。
「はぁ……。お嬢様、もう少し言い方を考えてください。無駄に煽るような言い方。常にわたしが助けられるとは限らないんですよ?」
「えー? 煽ってないよ」
「煽ってなくても言い方が駄目ですと言っているんです。何故彼らを脱出させられないのか、ちゃんと説明してください」
「だって、この異界を壊しちゃったら他に誰かいた時に閉じ込めちゃうから」
「それを最初から説明してくださいよ、まったく」
詳しくは分からないが、どうやら自分たちを脱出させる場合は他に人がいないことを確認してからではないと問題になる可能性があるということだろう。一先ずはそう納得した聖太は立ち上がって舌打ちしながらも友人たちの方へと戻っていく。その際、桃華や椿はともかく、ずっと余裕そうだった涼人すらも恐ろしいものを見たように冷や汗を掻いているのが気になった。
「どうした涼人」
「……いや、どうして実際に体感したお前自身が分かってねえんだ」
「あ?」
「あのメイド、尋常じゃねえぞ。怒らせられねえ理由が増えた」
聖太が我慢の限界を迎えて飛び出した時、当然ながら涼人も桃華もそれを止めようとしていた。それは間に合わなかったものの、その目はずっと聖太を見ていたのだ。だから分かる。あのメイド、玲は普通じゃない。流凪と聖太の間には、せいぜい三歩分あるかどうか程度の距離しかなかった。聖太がその距離を詰める僅かな時間で流凪と聖太の間に入り、正確に聖太の動きを見極めて滑らかに地面に引き倒す。少なくとも達人染みた武道の心得があると見て間違いない。
よく考えてみれば、玲は先ほど一人で周辺探索に向かっていたのだ。何かあった時に対処出来るだけの能力がなければこんな異常領域で一人になど出来る訳がない。
「スゴーイ! 玲ちゃんカッコいいね!」
「え? あ、ありがとうございます」
椿がそんな玲の動きを無邪気に褒めている。最初は迂闊に接触するなと止めていたが、こうなってくると椿の存在はありがたいかもしれない。椿が流凪や玲を褒める行動に裏というものはない。ただ純粋に可愛い、凄いと思ったから、それを素直に言葉にしているだけだ。あまり第一印象が良くなかったと思われるこの接触において、椿の存在は互いの溝を浅くするのに役立ってくれるだろう。
涼人と桃華はチラリと互いを見て、小さく頷く。ここからは椿の行動を出来る限り止めない方向で、という意思確認を済ませた。




