↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/125

第99話

 その日も部活の後、部室で興津と他愛無い会話とハグを交わし、ついでに彼の内手首にキスをして困らせ、たっぷりと心に潤いを補充してから、くるみはうきうきとした気持ちで、正門の前に止まっていた父の運転する白いワゴンに自転車を積んでもらってから乗り込む。

「どうしたの、急に迎えに来たりして」

 尋ねながら助手席で伊達眼鏡を外すと、急いでシートベルトをつける。

 その動作の間に、

「いや、ちょっと困ったことになったんだ。詳しいことはまた家についてからにするけど、夏休みいっぱいはうちの中がバタバタするかもしれない」

 父が不穏なことを言い出し、

「えっ?」

 彼女はそれにつられて、眉根を寄せた。


「本当に申し訳ない!!!」

 帰宅してリビングに入ると、伯父の神崎翼が直角よりも深くこちらに頭を下げ、朗々と響く低くて太い声で、開口一番謝ってきた。

「え、伯父さん、なんでここにいるの? 仕事は?」

 売れっ子声優であるはずの伯父が、何の予定も組まずにここにやってくることは今までなかったため、くるみはひどく戸惑った。

 さらに、伯父の後ろにいる二人の見知らぬ大人も同じ角度でこちらに頭を下げてきて、なおのこと彼女は混乱する。

「……お父さん、こちらはどちら様?」

「翼くんと、奥さんのマネージャーさんだ」

「あ、マネージャーさんかあ、……ん? 奥さん?」

 独身の翼にいるはずのないものの名詞が聞こえた気がして、くるみは父を見上げる。

 父は非常に困った顔で、くるみに今起こっていることを話し始めた。


「君たちには言わなかったんだけど、翼くん、去年の秋に結婚してたんだよ。それまで一緒に暮らしてた人に、赤ちゃんが出来てね。……このことは他に、千葉のおじいちゃんたちと、奥さんのご家族と、事務所の人たち以外は知らなかったんだけど、春先に奥さんが子供を産んだことが漏れてね、明日発売の週刊誌にその記事が載ることになった。……最悪なことに、もうすでに暴露系配信者やインフルエンサーに食い物にされてる。都内は無論だけど、千葉の家も危ないし、奥さんの実家の周りも人がうろうろしてるっていうんで、とにかく奥さんと赤ちゃんの安全を確保するために、ひとまずここに避難してもらうことになったんだよ」

「え、……」

 あまりのことに、くるみは絶句した。

「……そういうことなんだ、本当に申し訳ない。もう少し先になったら公式発表する予定だったんだけど、看護師が金欲しさに週刊誌にバラしたって連絡が病院からあって……検診の時に子供連れて裏口から出てくるところを、写真に撮られてた……」

 翼は先ほどと打って変わって、半分泣きそうな声でくるみに謝る。

「今、奥さんと赤ちゃんは長旅で疲れてるから、客間で休んでもらってる。とりあえず翼くんは仕事があるから、もう少ししたら車でマネージャーさんたちと一緒に向こうに戻る。今夜中には千葉からおじいちゃんたちも来るっていってるし、奥さんの実家の方はご兄弟が対応してくださるそうだから、そっちについては何も心配はない。こちらは事務所の皆さんが全面的に協力してくださるそうだから、騒動が落ち着くまで、奥さんと赤ちゃんのことはうちでどうにかする。……わかってると思うけど、友達には絶対に言っちゃだめだよ。今回はアンチだけじゃなくてファンも敵に回した可能性が高い。その分、危険で厄介だ」

 父は淡々と説明するが、腹の内から滲む憎しみの気配は声に現れ、恐ろしいほど低く響く。

「……ひどい……だからマスコミは嫌いなんだ、お母さんのときもそうだった……ホント、ろくなことしない……!」

 くるみが怒りに震えながら吐き捨てるようにつぶやいたその時、慎のバイクがガレージでエンジンを切る音がした。

「父さんは今からサッカーに智を迎えに行って来る。おじいちゃんたちが来たらそう言っておいてくれ。慎にも今の話、しておいてくれるかな?」

「……わかった」

 父にそう返事をすると、くるみはぐっと奥歯を噛み締めてうつむく。

(……どうしてこう、次から次へと、今年はいろいろ起こるんだろう……)

 いよいよ自分が誰にも言えない秘密を抱えてしまったことがいたたまれなくなって、くるみは苛立ちまぎれのため息を吐いた。


「伯父さん、自分の動画チャンネルで説明するの?」

 くるみが淹れた緑茶の入ったマグカップを手に、慎は翼に聞く。

「するしかないな。……本当はもっと、違う形で話をしたかったけど、今さら言っても仕方ない」

 答える声は、冷たい金属のように固い。

「落ち着くまで、どのくらいかかるかな……」

 ぽつりとくるみがこぼすと、マネージャー二人がわからない、といった動作で首を横に振る。

「二人とも、世話はしなくていいからな。学業優先だ。特にくるみは部活もあるだろう? 昼間はお義兄《にい》さんもいてくれるし、千葉から父さんと母さんも来るから、何も考えなくていい」

「うん……」

 くるみがうなずいたのと同時に、廊下を挟んだ客間の方から何かの声がする。

「あ……泣いてる?」

 それが赤ん坊の声だと気づいて、くるみと慎は立ち上がる。

「顔、見るか?」

 翼もさっと立ち上がると、リビングを出て客間へと向かった。


「頼子《よりこ》」

 ドアの隙間から真っ暗な部屋の中に翼が声をかけると、二台置かれたベッドの奥側の方で、もそりと人が起きる気配がした。

「大丈夫か? 起きれそう?」

 今まで聞いたこともないような優しい伯父の声に、くるみは驚いて一瞬動作が止まる。

「明るくしようか。悪い、電気つけて」

 どちらともなく翼に頼まれ、入口に近いところに立っていた慎が部屋のライトをつける。

「はいはい、ありすちゃんお待たせ。ちょっとパパが抱っこしようか」

 オレンジ色の明かりの中に、手慣れた動きで手前のベッドからふにゃふにゃと泣き続ける小さな身体を抱き上げ、目尻をいっぱいに下げて我が子を見つめる翼と、力なくもう一つのベッドの上に起き上がる黒髪の女性の姿が見えた。

「女の子なの?」

「そう。平仮名で『ありす』。誰でも読める、上品でいい名前だろ? 外国でも通じるしさ」

 近付くと、まだ首が座ったばかりの、小さな頭にぽやぽやと髪の毛の生えた、ぷくぷくした頬のやわらかそうな人間が泣いている。

「……かわいい」

 全身で何かを訴える健気なありすに、くるみは一瞬で庇護欲が刺激され、心を奪われる。

「ミルク飲ませたの何時だったかな……」

「時間、決まってるの?」

「だいたい三時間おき。先におむつ替えるか」

 慎に聞かれて翼はそう言うと、すぐそばの床にあった縦長のビニール袋からおむつを一枚取り出し、片方の手でそれを持ったまま、器用にベッドの上へバスタオルを広げる。

「あ、翼さん、ダメ……替えるなら、飲ませてからにして……飲ませた後、絶対するから、その子……」

 反対側のベッドから、甘く鼻にかかった特徴的な声が聴こえる。

「「……」」

 確かに覚えのあるその声に、くるみと慎は顔を見合わせた。

「……あの、伯父さん、奥さんって、……」

「あ、そっか、そっちも紹介してなかったな」

 授乳しようと起き上がった、化粧っ気のない白い肌とぼさぼさの肩下の髪の女性が、死んだ魚のような目でくるみたちを見遣ると、

「……神崎頼子です。『棚倉《たなくら》ひまり』の方が、わかるかな。お世話になります」

 全く元気のない微笑みを浮かべて頭を下げた。


「「……!」」

 伯父と義伯母になったその人を、くるみも慎も交互に見て口をぱくぱくさせる。

(あの異世界バンドアニメの主演と、去年やってた変身ヒロインアニメの追加戦士と、インド映画の吹き替えとクイズ番組のナレーションの人……!)

 今をときめく超売れっ子も売れっ子の女性声優のその人が翼の妻だという事実に、彼の甥と姪は理解が追い付かない。


「ごめん、二人とも、呼んどいて悪いけどちょっと外出てて。今からありすに飲ませるから」

「あ、うん。そ、そうだね。俺らがいたらダメだ」

「お邪魔しました、……あの、お大事に……」

 疲れ果てているのか、まったく二人を意識せずに胸元をはだけようとした頼子から慌てて顔を背け、ありすの声が響く客間から慎とくるみは慌てて出て行く。

 扉が閉まって程なく、泣き声はおさまった。


「よく産むまでバレなかったよ、逆に」

「うん……」

 廊下に立ち尽くしながら、慎とくるみは二人のプロ根性にひたすら感心していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。