第100話
「あのー、くるみ先輩」
思ったとおり、次の日の部活に顔を出した途端、凛子が辺りを伺いながらくるみに話しかけてきた。
「伯父さんのこと、おめでとうございます。……自分はお二人のこと、応援してますから」
「あー、うん……ありがと……でもごめんだけど、その話題、ちょっと今は無理かな……」
朝のニュースでも無駄に大きく取り上げられてしまった出来事を思い出し、くるみはぐったりとしつつ凛子に礼と謝罪を言う。
既に祐華にもミチルにも麗にも同じことで気を遣われ、くるみの心はそのことでパンクしそうだった。
(伯父さんも奥さんも、ありすちゃんもかわいそう。何にも悪いことしてないのに)
結婚していることや子供がいるのを隠すのは、危険を避けるために業界ではままあることだとマネージャーから聞いたが、翼とその妻の頼子――かつてはアイドル声優だった棚倉ひまりを、独身だと信じて応援していたファンは多い。
(ファンが手のひらを返したときが一番怖いっていう話、お父さんの短編にもあったな……)
世界中が三人を祝福する声より、裏切られたと呪う怨嗟の雄叫びに満ちているような気がして、梅雨明けの青空がくるみにはひどく憂鬱に思えた。
「悪い影響を受けるだろうから、外部の情報は何も見聞きしない方がいい」と父に言われたとおり、彼女はニュースサイトやSNSをしばらく見ないよう、スマートフォンのアプリをメインのホーム画面からまとめて移動しておいてあった。
実際、今日は廊下で生徒とすれ違うたびに妙な視線を感じ、ひそひそと気分の良くない話し声も聞こえる。
(嫌だなあ、……早く夏休みになればいいのに)
顔を合わせる人数さえ減ればどうにかやり過ごせるような気がして、あと一週間で訪れるその日々を、いつもより切実に待ち焦がれる自分が、なぜかひどく心の狭い人間のように感じられて、凄まじく苦しい。
(おじいちゃんたち、上手くやれるかな。奥さん、おばあちゃんと喧嘩してないかな……)
中学に入って以降、年に二回ほどしか顔を合わせることのない母の両親が、おそらく自分たちよりも面識の少ない頼子とうまくやれるかどうかも気にかかる。
(……なんで、こんなことわざわざニュースにして騒ぎ立てるんだろう。人が生まれるのも死ぬのも、地球の上では毎日起こってることなんだから、生まれた命は素直に祝福して、死んでいく人は静かに見送ってあげればいいのに、殊更うるさくするんだろう)
うっかり見てしまったニュースのせいで、母が死んだ日のことがフラッシュバックして、どうしても気持ちは晴れない。
(……悪いことなんてしてないし、平穏に生きていきたいのに、どうして人の生活を暴いて波風立てるの? そんな嫌な仕事でお金稼いで生きてるって、恥ずかしくないのかな、人として)
テレビの向こう側の世界がますます汚く悍ましく見える気がして、くるみはうんざりする。
高く晴れて夏の訪れを知らせる青い空の中に、この鬱陶しさが溶けてしまえばいいのに、と考えて、彼女は幾度目かのため息を吐いた。
(……でも、赤ちゃんってかわいいな)
ふいに、翼に抱かれたありすのことが頭をよぎる。
昨夜一度だけ見たきりだが、小さな身体と、心に刺さる泣き声は、くるみのもともと強い母性を刺激して有り余る破壊力を持っていた。
(頼子さんがいいって言ってくれたらだけど、わたしもお世話したいなあ……いろいろ教わりながら、……先生とわたしの子供が生まれたときに、困らないように……)
急に薔薇色の妄想が脳内に沸き起こり、今しがたの重苦しい気分はどこへやら、くるみはすっかり上機嫌であれこれと頭の中を取り散らかす。
(うふふ、先生、すごくいいお父さんになりそう。あの声で子守唄を歌ってくれたり、もっと大きくなったら肩車とかしてあげたり……わたしも頑張らなくちゃ。ベビーカーでお散歩したり、絵本を読んであげたり、公園で一緒に遊んだり、お休みの日はみんなでどこかにお出かけして……うああ、可愛いんだろうなあ、わたしと先生、どっちに似るのかな……)
いつか訪れてほしい未来に、うっとりとくるみは浸る。
「……ちゃん。……くるみちゃん? おーい、聞こえてる?」
「ふぁい!?」
隆玄の呼ぶ声に、はっとくるみは我に返る。
「うああ、す、すみません、なんでございましょう!?」
素っ頓狂な声を上げ、目を白黒させるくるみに、部室にいた全員が笑いだす。
「あははは、どうしたの。今から合宿の話し合いするから、椅子並べてってだけだよ」
「は、はいです……」
赤くなってしまった顔を隠すために伊達眼鏡のブリッジを抑え、くるみはだいぶ縛るのに慣れてきたおさげを、照れ隠しに少しだけくるくるといじる。
(家に帰ったら、早速お願いしてみよう。頼子さん、いいって言ってくれるといいな)
ありすの可愛さを誰とも共有できないことだけが本当に残念な気持ちになりつつ、くるみは手近にあった椅子を持ちあげた。
「牧之原、ちょっと話があるから残って」
その日の部活終わり、珍しく興津の方から声をかけられ、くるみは言われるまま部室に残った。
「……なあに? 先生」
カーテンを窓に引き、部員全員の気配が廊下から消えたのを確認して、くるみは興津が横向きに座っている隣の椅子に、同じように腰掛ける。
「いや、……お父さんから連絡が来たもんで、その話をね。大丈夫?」
「大丈夫って……ま、まあ、今のところは、なにも起きてないですけれど……」
今朝の登校前、家の周りにはいつも散歩に通る近所のおばあさん以外の人影がなかったことを思い出しつつ、またこの話か、とややげっそりしながらくるみが答えると、ふわ、と頭の上に彼の大きな手が乗り、優しく髪を撫でた。
「……家の中も大変みたいだね。それも聞いた」
「えっ……」
彼の口ぶりで、自分の置かれている状況を全部知っているのだということが瞬間的にわかり、くるみは言い表せないほどの安心感で胸がいっぱいになった。
「僕と教務の先生方と、朝比奈先生と理事長先生には、一応、全部話が行ってるよ。友達にも話せないだろうから、何か困ったことがあったら、まず僕に相談しなさい。力になるから」
「……よかった……」
優しい言葉にほっと肩の力を抜いて、くるみは彼の腕の中に飛び込む。
「先生にはありすちゃんの話、出来るんですね」
おいそれと人には話せない、それでも誰かに話したいことを聞いてもらえる相手が出来たことが何よりも嬉しくて、彼女は彼の身体に縋って幸せいっぱいに甘えた。
「ありすちゃん?……ああ、赤ちゃんの名前か。女の子なんだね」
「はい。まだ一度しか顔見てないんですけど、すごく可愛いの。帰ったら、お世話させてもらえないか相談しようと思って」
「そっか、そんなに可愛いのか」
ふふっ、と彼が楽しそうに笑った声に、ますますくるみは溶けたように、興津の大きな身体へ身を預ける。
誰もいないことをもう一度確認してから、興津もくるみの背に腕を回して、優しく抱きしめた。
「……ねえ、先生」
「うん?」
しばらくのち、興津に抱かれたまま、くるみは幸せな気持ちで彼に問いかける。
「結婚したら、子供何人欲しい?」
唐突な話に、彼は頭の上で盛大にむせた。
「なっ、……あの、あのなあ、急にそういう話するなよ……!」
腕の中から見上げた彼の頬は、見事に赤く染まっている。
「えー、だって、欲しいでしょ?」
「まだ卒業もしてないのに何言ってるんだ、受験だってあるだろ」
「んもう、その先の話。教えて」
「君ねえ……」
興津は顔を赤らめたまま、はあ、とため息を吐いて、左手の指でくるみの頬をつつく。
「……言っとくけど、他人の子と自分の子じゃ全然違うぞ。……って藁科先生から聞いた」
「そっかな?」
「そうらしい」
「ふうん……」
二人して未知の世界に首をひねったことが可笑しくて、くるみと興津は同時に吹き出した。
「……あと一年半ですね、卒業まで」
「そうだな……」
長いようできっと短い、これからの日々を思って、互いに抱き合う腕に力が入る。
「わたし、なりたいものが見つからなくて……他のみんなは、もう進路決めてるのに……」
「まだ焦らなくていいよ、また後期にも進路調査と面談があるから。それまで時間もある」
「うん……」
ぽんぽん、と背中を優しく叩かれ、くるみはその手のひらの大きさに安心して目を閉じる。
「……でもね、先生のお嫁さんになるのだけは、決まってるから」
「そう……ありがとう、嬉しいよ。……だけど、本当に、焦んなくていいからね。ゆっくり大人になりな」
自分の肩に彼が頬を埋めてくれた感触に、彼女は幸せな気持ちで小さく息を吐いた。




