第101話
電気ポットで70度に保たれた湯を、粉ミルクの入った哺乳瓶に入れて蓋をすると、くるみは全力でそれを振って混ぜ合わせる。
「溶け残りがないか、ちゃんと確認しなさいね。それが出来たら冷蔵庫の湯冷ましを目盛まで入れて、温度を下げる」
「わかった」
リビングで泣き続けているありすの声に急かされながら、祖母の淑子の指示の下、くるみは大急ぎで蓋を開けて湯冷ましを注ぐ。
「もう一度混ぜて、人肌かどうかちゃんと確認してね。熱すぎても冷たすぎても駄目だから」
「はーい」
言われた通りに作ったミルクを、制服姿のままでくるみはうきうきとリビングに持って行った。
帰宅した後、頼子に聞くまでもなくありすの世話をさせてもらえることになり、くるみは着替えと宿題そっちのけでリビングに張り付いていた。
情報が漏れることを恐れてシッターも頼まず、高齢になった自分たちの親を呼び寄せることもせずに、一番大変な新生児期を翼と二人三脚で育てていた疲れが出たのか、頼子は目が覚めないのではないかと不安になるほどぐっすり眠っている。
出産は交通事故に遭うのと同じだけのダメージを受けるのだ、と昼休みに麗が言っていたが、いくら普段とてつもなく忙しい仕事をこなせるほど体力に自信があるとはいえ、やはりかなり辛いのだろう、頼子はありすに母乳を与えるときと、食事とトイレとシャワー以外の時間を完全に寝て過ごしているようだった。
(お母さんもわたしを産んだとき、こんな感じだったのかなあ……しかもこれを三回も……)
自分を産んでくれた母にただひたすら感謝と畏敬の念が湧き、くるみは生きているうちにそれを言えなかった寂しさに胸が痛みつつも、自分の腕の中で無心でミルクを飲むありすの愛らしさにひたすら幸せを感じていた。
「赤ちゃん、やわらかくっていい匂いだなあ」
「まだミルクしか飲んでないから余計にね。あんたも、あんたのお母さんもこんなだったよ」
「そっかあ」
懐かしそうに微笑む淑子とのんびり会話しながら、くるみはありすをにこにこと眺める。
「……あんた、宿題は?」
ふと、ソファの上に放り出されたままのカバンと、観葉植物と壁の隙間に立てかけられたギグバッグを見遣って、淑子が怪訝な顔をする。
「あとでやるから大丈夫」
「だめじゃない、学業優先だって言ったでしょ。飲ませ終わったらさっさとやっちゃいなさい」
「えー」
「来年受験なんだから、今から頑張っておきなさいよ。あんた、お母さんと同じで、そこまで頭よくないんだから」
「ひどいなあ、おばあちゃん。一応わたし、クラスではわりと成績いいほうなんだよ?」
親しい相手には口の悪い祖母に反撃しながら、くるみは身体を左右にゆったりと揺らし、すでに半分ほどミルクを飲み終えたありすの、まつ毛の長いつぶらな瞳を眺める。
「そうやって油断するとこもそっくり。花音から送られてきた通知表、毎回毎回上がり下がりが激しすぎて心電図みたいだったよ。変なとこまでマネしないで」
「はーい」
勝ち目のなさそうな淑子との舌戦を諦め、くるみは肩をすくめた。
(いいなあ、赤ちゃん。嘘も意地悪も言わないし、わたしを変な目で見たりもしない……)
ありすを見ていると心が洗われるようで、くるみは自然と笑顔になる。
(先生も、三十二年前は赤ちゃんだったんだ……なんだか不思議。今はあんなに背が高くて、ヒゲまで生えてるのに)
腕の中のありすと興津の姿が全く結びつかなくて、小さな笑いがこぼれる。
(悪い事する人も、迷惑な大人も、性格悪い人もみんな、最初はこんなだったんだよね。まっさらで、何もない。どんな人も、最初は赤ちゃんだった……)
飲み終えた哺乳瓶を口元から外して、淑子に教わりながらありすの身体を縦に抱くと、興津と抱き合うときとは全く違う種類の温かく柔らかな気配が耳元にして、なんとも嬉しい気持ちになる。
(ホントにいいなあ、小さい子って……なんでみんな、このまま大きくならないんだろ。いや、わたしもそうだけど……)
自分の今の姿を母が見たらなんというのか、想像して若干申し訳ない気持ちになりつつ、とんとん、とありすの小さな背中を優しく何度か叩いてやると、
「うわ――――っっ!!! なに、なに―――――!?」
「あららら、タオル掛けとけばよかったね」
びしゃ、という生温かい感触と共に、げっぷと一緒に戻って来たミルクが制服のブラウスと下着を濡らし、くるみと淑子は大いに慌てた。
「あっはっは、それ、父さんも君たちによくやられたよ」
シャワーを浴びて出てきたくるみに事の顛末を聞いて、朔太郎は膝を叩いて爆笑する。
「いやあ、びっくりしたよ……スカート汚れなくってよかった。ミルクだけだから嫌な気持ちはしなかったけどさ、まさか肩からどばっと来るとは思わなくって」
濡れた髪をまとめ上げ、ぐったりとソファに寄り掛かりながら、部屋着姿でくるみは額を押さえる。
「だから先に着替えて来なさいって言ったでしょうに。素直にいうこと聞かなかったあんたが悪い」
キッチンで米を研ぎながら淑子がきっぱりと言い放つ。
「別にいいよ、赤ちゃんなんだもん。いっこ勉強になったよ」
あらそう? という淑子に、くるみは素直にうなずく。
「ねえ、おじいちゃんも今の話みたいなことあった?」
「え、ああ……そうだな……あったような気がするなあ……」
くるみに聞かれて、母方の祖父の良一は分厚い眼鏡の底にある目を泳がせる。
「そんなわけないじゃない、仕事ばっかり飲み会ばっかりで、いっつも午前様。子供のおむつ替えたのなんて何回あったかしら」
淑子の攻撃が飛んできて、良一は肩身が狭そうにタブレットで遊んでいたパズルゲームを中断する。
「まあまあ、僕は仕事柄、ずっと家にいましたからね。夜型だから、花音さんともうまく時間の割り振りが出来ましたし、たまたまですよ」
朔太郎がその場をとりなすと、良一は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「くるみ、早く宿題やっちゃいなさい。それが済んだらご飯の支度、手伝って」
「はーい」
てきぱきと台所で動きながらしゃべり続ける淑子に返事をすると、くるみは階段を上って自室に向かう。
(あんなに気が強くって、ちゃきちゃきしたおばあちゃんも、白髪のおじいちゃんも、七十年前は赤ちゃんだったと思うと、ホント、不思議だな……)
腕に抱いていたありすの、小さい手のひらを思い出す。
(……そうなんだよね。みんな、ちっちゃい子供だったんだ。大嫌いな先生も、苦手な男の子も、友達も先輩も……素直で真っ白な心を持って、みんな生まれてきたんだよね)
何度も心の中で繰り返されるその想いを、くるみは何故か、囚われたように繰り返し考える。
(小さい頃……そうだなあ、小学校に上がるまでは、あんまり嫌な思いしなかったな。うちの親の仕事のこと、誰も知らなかったし。何人かの先生にきつく当たられた記憶はあるけど、毎日楽しかったっけ。遊具で遊んだり、ボール蹴ったり、プールやお祭りや、芋掘りしたり……)
カバンの中から英語のレポート用紙を出し、参考書を広げて電子辞書の電源を入れる。
(……世界中の子供がみんな、先生やお父さんみたいに優しい大人になればいいのにな。そうしたら、戦争だって起こらないのに……なんていうのは、夢の見すぎかな……)
毎日ニュースで見るたびに朝から憂鬱になる世界情勢を振り払いたくて、彼女は金色に染まる夕暮れの窓の外を見る。
(でも、ありすちゃんには、そんな人になって欲しいな。優しくて、人を思いやれて、……)
「……そうだ、これだ」
ぱっと頭の中に電気が走った気がして、くるみは思わず声を上げる。
「この仕事ならピアノも歌も活かせるし、きっと大人しかいない職場よりは気持ちが楽だし、長く楽しく働けるかもしれない……」
思いついたことを確かめるため、ベッドの上のスマートフォンを手に取り、ブラウザを立ち上げて検索を始める。
「……うああ、やった……! あるじゃない、ここの大学に!」
くるみは自分の将来が一気に開けた喜びに頬を上気させ、ベッドの上を転げまわる。
「これなら先生とも離ればなれにならないし、資格も取れる! いいことづくめだ……!」
俄然やる気が湧き、スマートフォンを電源コードに繋ぎ直して放り出すと、彼女は机に向かって英語のレポートを前に気合いを入れる。
「よーし、やるぞ!」
もうすぐ日の落ちる部屋の中でそう独り言ち、くるみはシャープペンシルを左手に構え、参考書に手を伸ばした。




