第102話 ―第四幕エピローグ―
「なーんも悪いこと起きなくて、ちょっとほっとしたね」
「そうだね。時代が変わったんだな。今の若い子たちはお行儀がいい」
いよいよ夏休みを四日後に控えた真夏の校舎の廊下で、絽の着物姿の父と並んで汗をぬぐいながら、くるみは三者面談の順番待ちをしていた。
雑誌が発売された日、翼が自分のSNSと動画サイトのアカウントで発した『今回のことで妻が体調を崩しているので、元気になるまでそっとしておいてほしい』というメッセージは、ファンのみならず様々な人の襟を正したようだった。
炎上して悲惨なことになるかと思われたSNSも、三人への祝福と、こちらに来てからまだ寝てばかりいる頼子への労りがほぼすべてを占め、逆にスクープした雑誌の方が炎上し、一部の過激な人々によって不買運動まで起こるという状況に陥っていた。
無論、二人に対して『独身だと思っていたのに』『騙された』という声も無くはなかった。
しかしファンの間でそう言った発言や、自宅や実家への押しかけをやめるよう自治と自浄が行われ、事態は思った以上にとんとん拍子に収束に向かっていた。
そして、頼子とありすがくるみの家にいるということは、事情を知る誰の口からも漏れることもなく、海に近い田んぼの真ん中の一軒家は、何も変わることなくいつも通りにのどかで、しかし数年に一度のとびきり茹だるような暑さになった、静岡の夏の風景の中にあった。
「ライブの動画が出回ったり、伯父さんのこんもあったから、ここ一月はホント生きた心地がしなかったよ……」
肩を落として大きなため息を吐いた娘に、父はまとっている着物のような爽やかな笑顔で答える。
「ははは、本当に今年は盛りだくさんだね、くるみは」
「厄除けのお守り持っててこれなんだもん、もっと穏やかに生活したいんだけどなあ……」
そう言って窓ガラスに寄り掛かった娘を見て、父はほんのりと顔を曇らせた。
「……そうだね。父さんもそうしてあげたいよ。……悪いっけねえ、くるみ。いつもえぇらい思いばっかさして。父さんも母さんもこんな仕事だもんで、慎にもお前にも普通の暮らし、なかなかさしてやれんかったっけね……」
いつもの格好付けた喋りではなく、本音を言うときだけ方言になる父の言葉に、くるみは首を横に振る。
「だいじょうぶだよ。高校入ってから友達も出来たし、頼りになる先輩もいるし。ちゃんと話聞いて、一緒になって考えてくれる先生もいる。中学の頃みたいに独りぼっちじゃないから、全然平気」
「……そうか。なら、ええだけえが。でも、おとましいこんがあったら、えらくなる前に我慢なんかしんで、素直に言うだよ」
「うん」
にこりと微笑んだ娘に、父は少しだけ胸をなでおろしたようだった。
「くるみちゃん、おまたせ」
教室の扉が開き、先に面談していた祐華がギグバッグを背負って現れる。
「こんにちは、牧之原先生。いつもお世話になってます」
レースの袖のジャケットを羽織った、ワンピーススーツ姿の祐華の母が頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ。紘輝くん、東京なんですってね。元気にしてらっしゃいますか?」
「ええ、おかげさまで。なんとかやっているみたいです。今度ライブに出るとかで……」
そのまま話が弾みそうだった二人を、
「お母さん、そこまでよ。先生が中で待ってるから」
祐華が割って入りながら止める。
「はいはい。……先生、新作発売されたら、また読ませていただきますね」
「ああ、ありがとうございます。よろしければ、また感想をお聞かせください」
親同士が丁寧に頭を下げる横で、くるみと祐華は顔を見合わせて『また後で』の微笑みを浮かべる。
「それでは、お先に失礼します」
「はい、また今度お店の方にも伺いますね」
「ありがとうございます、お待ち申し上げております」
名残惜しそうな母と一緒に昇降口の方に去って行く親友の背中に手を振ってから、くるみは父と連れ立って教室の中に入った。
「お待たせしました、牧之原さん。よろしくお願いいたします」
向かい合わせにされた四脚の机と椅子の前で、幾枚かのプリントを挟んだファイルと、分厚いノートを手にした興津が頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
父に倣って頭を下げつつ、くるみは興津の向かいの席に座った。
「牧之原さん、この度は本当に大変なことで、ご心中お察し申し上げます。お嬢さんの身辺の安全には我々教職員一同、出来る限り気を配っておりますので、登校中についてはご安心いただければと思います」
ノートを机の上に広げ、プリントの入ったファイルを片側のページを隠すように置きながら、興津が朔太郎にそう言って軽く頭を下げる。
「お気遣いありがとうございます。でも、思ったよりも早いこと落ち着きそうなんで、そこまでご心配なさらないでください」
「承知しました。こちらで協力させていただけることがあれば、何なりとお申し出ください」
父の言葉に興津はもう一度頭を下げ、ふむ、と息を吐くと、正面に座るくるみを見た。
「……さて、早速だけど、この間の進路希望調査票、ちょっとお父さんにも見てもらうよ」
そう断りを入れると興津はボールペンを左手に持ち、ファイルからプリントを一枚取ると、名前を確認してから朔太郎に渡す。
「……ふうん、あっこの私立大学か。随分近いね。専願……推薦で入るつもりかな?」
それを見て朔太郎が傍らの娘に問うと、興津はうなずき、真面目な口調でその先を述べる。
「正直なお話をさせていただくと、くるみさんの学力であればもっと上のレベルを目指せると思います。模試の成績も偏差値は50台後半ですし、特に文系の教科の成績はトップクラスですので、慎さんと同じように国立を視野に入れたほうが、将来の選択肢は広がると思います。入試で振るわなかった英語が伸びたのが大きいですね」
なるほど、と答えた父に、興津はさらに説明を続けた。
「三年次については、二年生の後期後半にもう一度、調査票で本人の希望を取ったうえで、模試と定期テストの結果を併せ含めて、成績上位者は国公立対策クラスに優先して選抜されますので、このままの成績をキープしていれば、自動的にそちらに組分けが行われると思います。いざ気が変わった、という場合も問題はないでしょう。推薦を受けるにしても、評定が高い方が有利ですから、国公立クラスに入るつもりで、ここから先の学習を進めて欲しいですね……それから、くるみさんは特にこれといった検定の資格がないのが、今のところ、いちばんの不安要素ではありますので、特に推薦を受けるのであれば、今年のうちに英検の準二級以上であったり、TOEICや漢検にチャレンジしてみるのもいいかもしれません」
自身の見解を述べた後、くるみの方に向き直ると、興津は教師の顔で彼女を見る。
「ところで、どうしてここが第一志望なのかな?」
この土地に住みながら通えるという理由以上の答えを求める、優しい中に厳しい色を帯びた深いコーヒー色の瞳が、くるみの黒い瞳を見つめる。
「取りたい資格があるので」
その目をまっすぐに見つめ返しながら、くるみははっきりと答える。
「ふうん、資格か。何の資格?」
ノートにペンを走らせながら、興津は質問を続ける。
「幼稚園の先生と、保育士の資格です。将来、子供に関わる仕事がしたいと思って」
胸を張ってそう言ったくるみを、興津と朔太郎はやや驚きを持って見遣る。
くるみは二人を交互に見ながらその先を続けた。
「うちに来た赤ちゃんの面倒を見てたら、気がついたんです。わたし、赤ちゃんや小さい子のお世話したり、お話したりするの好きかもって。ピアノや歌もこの仕事だったら活かせるし、大人だけの仕事場で変な気を使うよりは、子供や赤ちゃんと接している方が、長く楽しく働けそうで、性に合ってる気がして……」
「……なるほど、幼稚園の先生か。いいかもしれないね」
興津はそう言ってふっと力の抜けた笑みを浮かべ、嬉しそうに娘を見る父と目を合わせてから、ノートのくるみのページに『幼稚園教諭・保育士志望』と書き込む。
そうして、またひとつ二人の胸に秘めた未来の解像度が高くなったことを密かに喜びながら、彼と彼女は教師と生徒の視線の中に、そっと恋人同士の想いを混ぜ込んで微笑んだ。




