第103話 ―第五幕プロローグ―
まばゆい入道雲の上、高く晴れ渡った空には、耳をふさぎたくなるほどのセミの声が突き刺さる。
私立聖漣高校の校舎は、そのセミの煩い合唱とうだるような暑さの中で、ゆらゆらと陽炎に揺れる夏休みの午前中を迎えていた。
「うああ、ハデハデ……」
「これは……なかなかサイケだわ……」
「すごいなぁ、あのギターの面影が全然ないねぇ」
「さすが美術部の皆さんですね」
まるでドライヤーから吹き付ける熱風のような空気と、がつんと頭を殴られるような重さのある暑さにさらされている校舎の中、エアコンをガンガンに利かせた部室で、軽音楽部員たちは一本のギターの周りに集まり、頭を寄せ合ってそれを眺めていた。
新年度に入ってから一月弱の間、部の中を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して去って行った少年から寄付されたテレキャスターは、「見ているだけで当時の不愉快さを思い出す」という部員たち――主にその少年に付きまとわれ、退部まで考えていた牧之原くるみの訴えにより、せめて見た目だけでも変えてしまおうという発案によって美術部員に引き渡され、一月ほどの期間を経て、カスタムペイントを施されて戻って来た。
派手でありつつ細かい模様が描き込まれ、ファンキーでどこか毒々しい色使いは、それを扱う者を選びそうな雰囲気を醸し出している。
「組み立てもしてくれたのか、ありがたい。じゃあ早速、弦を張ろうか」
ビートルズの『イエロー・サブマリン』のMVのような色味になって戻って来たそのギターを見遣って、顧問の興津大地は、駅前の楽器店の袋から新しい弦のパックを取り出した。
「森、舞阪、張り方の手順を教えるから、こっちに来て」
興津に呼ばれて、一年生の森翔琉と舞阪敦哉が「はい」と返事をして側に寄る。
「二人とも、自分で弦の交換、まだしたことないだろう? ギターもベースも基本的なやり方は一緒だから、ここでざっくり覚えて、あとはネットで調べながら、自分でもやってみるようにね」
「先生、自分も見ていいっすか? いつもお店で交換してもらってるもんで……」
その後ろから、掛川凛子がつま先立ちで覗き込む。
「あ、先生。わたしもやったことないので、見せてください」
慌てた様子で椅子から立ち上がり、伊東紗雪が駆け寄る。
「先生、わたしも見たいです。アコギも一緒なんですよね?」
くるみも机の隙間から滑り込んで、興津の隣に並んだ。
「だいぶ大人数だな……じゃあ、ぶつからないように広がって」
一年生ほぼ全員とくるみに囲まれながら、興津は弦のパックを開封した。
今年の軽音楽部の夏休みは、ほぼ毎週何かしらのイベントが組まれていた。
まず、お盆に入る前に顧問の興津も引き連れて、隣町の海水浴場に遊びに行くこと。
その次に、この部の三年生で街の剣道場の跡取り息子である島田太陽が、進学を希望する体育大学への推薦を得るため、掛け持ちで参戦している剣道部の試合から戻った後、ささやかな慰労会をすること。
そして、キーボード担当の二年生・菊川ミチルの両親の持ち物である、隣県のスタジオ付きの別荘で、今年も文化祭に向けて四泊五日の合宿を行い、さらにこの部のOBである東京の専門学校生・藤枝紘輝が参加しているバンドが出演するライブを、後学のために一泊二日の日程で観に行くことが決まっていた。
合宿しかなかった去年と比べるとあまりのスケジュールの過密さに上級生――特に受験生の、部長である伊東隆玄と磐田政宗は塾や模試との兼ね合いもあり、果たして無事にこの夏を越せるかどうか、周囲は若干の不安があった。
しかしそこは高校生という気力と体力が最も充実している年頃と、夏という季節の勢いのなせる業か、とりあえずは二人ともに通う予備校の模試でそれぞれA判定を取ったことで、まるで良い波に乗れたサーフィンの滑り出しのように好調に感じているようだった。
「太陽、今頃武道館の中かぁ。あそこ汗臭いんだよねぇ、あんなとこに缶詰とか絶対無理」
授業で使った時の辛い記憶に、ドラムセットの椅子に座った隆玄が顔をしかめる。
「あそこに一日いて、エアコンもないのによくバテないよ。俺も無理だ」
隆玄の隣で政宗も渋い表情を浮かべながら、オーディオインターフェースにモニタースピーカーを接続する。
「太陽先輩、部活に加えて毎日朝稽古と、週に三日は、夜も必ずご自宅でお稽古もされてますし、本当にタフですよね」
キーボードの音色を確かめるように鍵盤を軽く叩きながら、太陽と一年前から付き合っているミチルが尊敬の念を込めたため息を吐く。
「文化祭の曲、練習できてるのかしら。たぶん大丈夫だとは思うけど、こっちに帰ってくるのは来月からになるんでしょう?」
紘輝の妹の祐華が少し心配そうにそう言うと、隆玄がにこりと笑って彼女を見る。
「大丈夫、あいつのことだから、ちゃんと毎晩やってると思うよ。一年目だって、夏休みの途中からなんてメチャクチャなスケジュールで練習したのに、人に聴かせられるようになったんだから、今のあいつの腕前ならぜんぜんいけるって」
「アハハ、すごいですねえ。聞けば聞くほど努力の塊みたいな人だ」
タンブリンをシャラシャラと親指でなぞりながら、松崎ソフィアが窓際で微笑んだ。
「テレキャスターの場合はこうやって、まずボディの裏側から弦を通して、ブリッジの方に引き出す。そんで、弦をヘッドの方に一度しっかり張ってから、1フレット目くらいまで緩ませつつ、ストリングポストに通して……そしたら、こうやって一周巻き付けて、軽くペグを締める。このとき、必ず弦をネックの内側にして、ヘッドの表側から見て反時計回りに巻けるようにすること。こう、弦が重ならないように、下にくぐらせるようにして巻く」
6弦のペグを回しながら、興津は周りを囲む生徒に手元を見せる。
「そうしたら、上にこうやって、弦の先を折って軽く固定する。チューニングが済んだらこの先っぽは切っちゃうんだけど、あえて切らずにそのままにしてるアーティストも時々いるね。ただ、怪我をすることがあるし、ケースに入れにくくなるから、私はおすすめしないよ」
「あ、なんかのライブ映像でそうやってる人見たことあります。あれ、なんであのままにしてるんですか?」
興津の隣のくるみが、得心がいった様子ながら、新たな疑問が湧いた表情で彼を見上げる。
「理由は人それぞれだよ。面倒だからとか、格好いいからとか、弦を切ったら音が響かないとか、チューニングが上手くいかないとかね……まあ、チューニング云々は完全に迷信レベルだから、完全に好みの問題かな。私が高校生のときに一緒にバンドを組んだギターの子がやってたっけな。リッチー・ブラックモアの真似をして、弦の先をコイルにしてた」
「え、ビートルズのコピーバンドなのに?」
「ははは、いろいろあって、私以外のメンバーはビートルズじゃない音楽に傾倒していってね。……さて、続きだ。こうやって弦を軽く引っ張ったまま、ストリングワインダーをセットして……」
うっかり別の方向に転びそうだった話を軌道修正して、興津は弦の張り替えの説明に戻る。
その手元を真剣に見ながら、うっかりその節の目立つ長い指に見とれてしまいそうになるのをくるみは堪えて、彼の低く優しい声に耳を傾けた。
もうすぐ、くるみと興津が恋人同士になってから一年が経とうとしている。
とはいっても、相変わらず二人はチャットやメールのような個人的なやり取りはなく、人目を忍んでのハグ以上のこともせずに、軽音楽部の部室の外に出れば完全に『教師と生徒』の境界線を超えることのない付き合いを続けている。
ただ、少しずつ互いの内にじわじわと滲んでくる甘ったるく狂おしい感情を完全に押さえ込むことはできなくなりはじめ、特にくるみはハグの隙間に彼の耳元であったり、手や首筋にキスをすることが増え、興津もごくたまに『偶然』、彼女の柔らかい黒髪に唇を寄せてしまうことがあった。
それでも唇同士を触れることだけはしてはいけないと踏みとどまりつつ、互いにそのぬくもりと柔らかさだけはしっかりと身体に焼き付けながら、二人は崖っぷちをぎりぎりで歩くような想いで日々を過ごしている。
そしてその崖を踏み外して落ちるときは絶対に一緒だ、と固く誓い、くるみと興津は繋いだ手と心を離さずにいた。
「……よし、以上が張り替えの手順だ。新しい弦は伸びやすくて音が不安定だから、チューニングは後でもう一回やり直すけれど、とにかく一本一本ちゃんと弦と音を間違えないように張ること。失敗すると本当に後が大変だからね。……誰かやってみるか?」
仕上げに6弦をEにチューニングしてから、周りで覗き込んでいた生徒たちを見回して興津が訊くと、
「あ、先生、ボクやってみます」
四月にギターを始めたばかりだというのに、天賦の才を発揮し、凄まじい練習量であっという間に腕を上げた翔琉がうきうきと手を挙げる。
「翔琉くん、大丈夫? チューニング間違えないようにしなよ」
ギター以外の行動が不注意でどこか抜けている彼を心配して、敦哉が声をかける。
「大丈夫大丈夫。えーと、5弦はこれかな?」
そう言って何気なくパックから出した弦を翔琉が手にすると、
「翔琉氏ウェ――――――イッ!!! ステイ、ステイっ! それ違うっす!!! よく見て!!」
大袈裟な動きと声で凛子がそれを制止する。
「え、なんか間違えてる?……ん?」
二本の弦を絡み合わせた手の中の物体を見て、翔琉は首をかしげる。
「……森、それは4弦と3弦だ。5弦はもうこっちに出てる」
興津が苦笑しながら机の上に置かれていた5弦を、翔琉の手の中の弦の束と交換する。
「ほらあ、言わんこっちゃない」
「あれー、なんで間違えたんだろう?」
「ほんとにね……」
きょとんとしている翔琉を囲んで、凛子と敦哉が呆れる。
その敦哉の隣でくつくつと紗雪が笑い声を立て、興津とくるみも顔を見合わせて苦笑いした。
「……先生、ベースの弦の交換も、今のと変わりませんか?」
夏休みに入ってから、文化祭に向けてベースボーカルの猛特訓を受けている敦哉が気を取り直し、同じベース弾きの興津に訊く。
「そうだね。ただ、ベースの弦はギターの弦より少々お高いからね、失敗が怖かったら、やっぱりお店の人に頼んだほうがいいかも知れない。でも、自分で張れるようになると、めったにないとは思うけど、演奏中に弦が切れてしまったときなんかには自力で対応が利くから、出来るに越したこんはないかな。あと、ギターと違って太いもんで、ニッパーで古い弦を切るのが楽しいよ」
「あはは、なんか先生がそんな事言うなんて意外だなあ」
「いやあ、弦を早く張り替えたいがために、休みの日に本当に朝から晩まで弾き続けて思いっきり摩耗させて、半月に一回ペースで替えてたこともあったからね。後から考えてみると、あれは結構な金額だったな……」
笑いながら敦哉にそう言った隣で、くるみがじとりと興津を睨む。
「……先生、今はそんな無駄遣いしてないですよね?」
「え、……いや、まあ、……ストレス解消にやってたから、今はそうでもない、かな……」
「ふーん……」
楽器や機材のことになると出ていくものに糸目をつけることが出来ない性質の自分を、疑いの眼差しで見続けるしっかり者のくるみに、興津はこの間も新しい弦をつい買ってしまったことを思い出して冷や汗をかいた。
翔琉が5弦を張り替えた後、凛子が4弦、敦哉が3弦、紗雪が2弦を張り、最後にもう一度、復習のために興津が1弦を張り替えて、サイケデリックな塗装のなされたテレキャスターは息を吹き返す。
「それじゃあ、弾いて音を確かめてみようか。誰かシールド持ってきて」
「はい」
部室の隅に置きっぱなしだった紙袋に、一年生が歩み寄る。
「きっかけはなんとも言えないけど、部持ちの楽器が増えたのはありがたい……ということにしておこう。特にエレキギターなんて、なかなか部費じゃ買えないからね」
ふむ、と息をついて興津が口髭の下に左手をやる。
「個人で楽器買うまでのつなぎに良さそうですね。わたしは絶対弾きませんけど」
「まあそうだろうね」
被った迷惑の分量が多すぎるゆえのくるみの発言を、彼は笑って受け止めた。
「一発目の曲、景気がいいのを頼みますぞ、翔琉氏」
チューニングを済ませ、シールドを挿し込んだギターを凛子から手渡された翔琉は、楽しそうにうなずく。
「うん、じゃあ、文化祭の練習の息抜きに弾いてた曲にするよ。それなら歌えるしさ」
そう言って彼はアンプのスイッチを入れ、ボリュームを上げる。
「すごいですね、翔琉くん。もう弾き語りできちゃうんだ」
「ああ、……森はちゃんと、音楽の勉強をした方がいいな。藤枝とはまた違う方向で才能がある」
素直に感心するくるみの隣で、興津が若干の畏怖を込めて教え子を見遣る。
「何弾くのかしら」
「弾けそうなら俺らも参加するか」
祐華と隆玄が演奏を始める体制に入り、その手前でミチルも翔琉の方を見て鍵盤に手を置く。
翔琉は臙脂色のネクタイをワイシャツのポケットにしまうと、ギターを構える。
そして、一度だけ開放弦で音が鳴らされた後、彼はリズムを取って、チョーキングが効いたクリーントーンで、あるフレーズを弾き始めた。
その印象的すぎるメロディに部員全員が爆笑しつつ、
「あっはっは、これかぁ!」
そう言って追うようにすぐさま隆玄がドラムを叩き始めたのをきっかけに、祐華がころころと笑いながらベースを乗せ、ミチルがストリングスの音色で合間を埋める。
凛子がドヤ顔でそこにコード弾きのギターを合わせ、ソフィアがタンブリンで華を添えると、演奏が出来ない部員たちも手拍子で加わる。
それに呼応して、翔琉は自分も笑いながら元気よく、『俺ら東京さ行ぐだ』を歌い始めた。
「……待て待て、君ら、なんでこの曲をそんなナチュラルに歌って弾けるんだ」
「今年の初めに動画サイトで流行ったんですよ、面白い歌ですよね」
唖然としている興津の隣で手拍子しながらくるみが答える。
「いや、じいちゃんがよく歌ってたけどさ、これを令和の高校生が知ってるのか……」
「いい歌はいつまでも歌い継がれるんですよ。……あはは、なんかこれが弾き初めだと思ったら、可笑しくってすごく気が楽になっちゃった」
そう言って楽しそうに合いの手を入れ始めたくるみの横顔を見て、興津も胸のつかえが下りたような気分で部員たちに加わった。




