第104話
「それにしても、あんたも単純ねえ。ちょっと赤ちゃんの世話したくらいで、将来のこと簡単に決めちゃって、そんなんでいいの?」
いわしのつみれ汁を汁椀に盛りながら、くるみの祖母の淑子がため息を吐く。
「そこは喜んでよ、かわいい孫娘がやっと人生の目標を見つけたんだからさあ」
口の悪い祖母に対抗しながら、くるみはつみれ汁の入った汁椀をひとつずつ盆に乗せていく。
「あんた、褒められたからって調子に乗るんじゃないわよ、人様の子を預かるのは自分の子を育てるのと違うんだからね」
「わかってるってば。それ、担任の先生にも言われたよ。だから大学に行くんでしょ」
夏休み前に部室で興津と話をしたとき、そんな会話を交わした記憶に若干頬を緩めながら、人数分の汁椀をのせた盆をくるみは慎重にリビングの座卓に持っていく。
「智、あんたも手伝いなさい。お姉ちゃんばっかりやらせるんじゃないの」
「ちょっとまって、この試合が終わったら手伝うから」
座卓とテレビの間に陣取って対戦ゲームに興じる弟の智に淑子の声が飛んでくるが、彼はそれを右から左に流してゲームを続ける。
「もう、あんたは翼と一緒ね。あの子もずーっとピコピコピコピコ、ゲームばっかやって」
淑子は自分の息子が子供の頃を思い出したのか、うんざりした表情を浮かべて智を見遣る。
「頼子さん、あの子ちゃんとあなたのこと手伝った? ワンオペ育児って言うの? そういう状態になったりしなかったかしら?」
「いえ、そんなことは……仕事忙しいのに、すごく頑張ってくれましたから」
姑に気を使われて、翼の妻の頼子は娘のありすを腕に抱えたまま恐縮する。
今年の夏休み、牧之原家は非常に賑やかだった。
二週間ほど前、くるみの伯父である声優の神崎翼とその妻の頼子――元アイドル声優の棚倉ひまりが秘密裏に結婚し、子供をもうけていたことが世間に知られ、身の危険を感じた頼子とありすは、マスコミの目を避けるためここに避難していた。
その騒動で自分の前に突然現れた、やっと首が据わったばかりのありすの可愛らしさにくるみはすっかり夢中になってしまい、夏休み前の三者面談で「保育士と幼稚園の教師になる」と宣言し、父の朔太郎と担任の興津を驚かせつつも、目標が出来たことで彼らを大いに喜ばせた。
今は翼だけが東京に戻って仕事をしながら各所の対応をし、その両親でくるみの母の花音の親でもある良一と淑子が頼子のサポートをするために千葉から泊まりに来ており、夜間は小説家という職業柄、完全に夜型の朔太郎が、まるでありすが自分の孫娘であるかのように、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
そして、大学生である兄の慎よりも一足先に夏休みに入ったくるみと中学生の智は、自分たちの部活や勉強の合間に淑子たちの手伝いをして過ごしていた。
「それにしても、こっちは千葉と一緒で、お魚もいいのが捕れるから料理も楽しいわ。人もいるから食べてもらいでがあるし、張り合いがあっていいわね」
つみれ汁と同時進行で作っていたなめろうを大葉を敷いた皿に盛りつけながら、淑子が純粋に楽しそうに支度を続ける。
「千葉、最後に遊びに行ったの中三の夏休みだっけなあ……」
そう言ってノンアルコールビールと冷やしたグラスを冷蔵庫から出しつつ、くるみはふとその頃を懐かしむ。
(あの頃は、まだ先生と出逢ってなかった。……何も知らなかったな。ビートルズもQueenも、レッチリもストーンズも聴いたことなかった。生きることが何となく苦しくて、世界がどこか灰色がかって、白いはずの砂浜やきれいな色の海が薄暗く見えた……)
漁港で良一と一緒に釣りをしたり、九十九里浜までドライブに行ったりと、それなりに楽しかったはずなのに、どこかもやのかかったような思い出ばかりでふと寂しくなる。
(今だったら、もっときれいに見えるのかな、お母さんのふるさと。……いつかきっと、先生と一緒に行こう。ゆっくり電車を乗り継いで、二人で手を繋いで、同じ音楽を聴きながら)
母のiPodに入っていた『片方ずつのイヤフォン』のメロディをハミングしながら、くるみはさっき汁椀を運んだ盆の上に飲み物となめろうを乗せ、再びリビングに向かった。
「いやあ、まさか慎が下戸だったとはなあ。朔太郎君が飲むから同じかと思ったら、その辺は花音に似たんだな」
あまりの乳児の扱いの不慣れさに呆れた淑子に毎日家から追い出され、その日の食事の材料を海浜公園や海岸で釣りをして調達することが日課になった良一が、本日の釣果を肴に麦焼酎の水割りを飲みつつ、孫を見てどこか嬉しそうに笑う。
「あはは、自分でもびっくりしちゃったっけ、ビール一杯で顔真っ赤になっちゃって。父さんがいなかったら帰れなかったよ」
ノンアルコールビールを大人たちと一緒に傾けながら、二十歳になったばかりの大学生の慎は、祖母の作ったなめろうを口に運ぶ。
「そう言えば父さん、最近は飲まないね」
「ははは、ちっちゃい子は何があるかわからないもんでね、夜の面倒を一人で見るとなると、おいそれとは飲めないよ」
慎に答えながらノンアルコールのレモンハイをグラスに注いで、朔太郎は楽しそうに笑う。
「いままでが飲み過ぎなんだよ、父さんは。いつも編集さんが介抱してくれるからいいけど、ひとりじゃ帰って来れないのは兄貴と一緒だよ」
中学生も半ばを過ぎ、生意気さに磨きがかかった弟の智が、声変わりの気配を見せ始めた声でそう言って、つみれを丸ごと口に入れる。
「いやあ、息子に言われちゃ面目ないなあ。……くるみ、ありすちゃんは寝たかな?」
「うん」
食事をとる頼子の代わりにありすのミルク係を申し出て、飲ませ終えてげっぷをさせた後、そのまま寝かしつけていたくるみに父が声をかける。
「じゃあ、そーっと寝せて、君も食事をしなさい」
「……うん」
「起きないといいわね」
淑子の不穏なひとことに冷や汗をかきながらくるみは立ち上がると、床に敷かれた布団とタオルケットの上に、極めて慎重にありすを下ろす。
「あ、もし起きちゃったら私がやるから、あんまり慎重になりすぎなくて大丈夫よ。いつもありがとう、くるみちゃん」
なめろう丼の残りを慌ててかき込み、それをつみれ汁で流し込んだ頼子が席を立つ。
「いや、このくらいできないと、保育士にはなれませんから」
そう言いながらくるみは息を詰め、ゆっくりとありすの背中をタオルケットにつけ、そのまま静かにありすの首と背中から両手を抜き去り、完全に布団の上に寝かせる。
いつもこうして寝かしつけると、必ずと言っていいほど起きてしまうのだが、どうにかうまく出来たことに、くるみはほっと小さく安堵の息を吐く。
(……よし、いけた!)
しかし、そう思った次の瞬間、何かを感じ取ったありすは、火がついたように泣き始めてしまった。
「えー、なんでよー!?」
「あはは、まだまだ未熟ってこんだよ」
がっくりと肩を落とす妹を、兄が面白くてたまらない様子で見遣る。
「ねーちゃん、保育士向いてないんじゃね?」
「うっさい。これから勉強すれば、絶対うまくできるようになるもん」
ご飯のお代わりに席を立った弟にからかわれ、くるみは頬を膨らませてむくれる。
「気にしないで。たぶんこの子、『背中スイッチ』ついてるんだ。もうあとは私がやるから、ゆっくりご飯食べてね、ありがとう」
そう言って頼子は布団の上から娘を抱き上げ、よしよし、と話しかける。
「ほら、冷めちゃったけど食べなさい。珍しくおじいちゃんが仕事したんだから」
「珍しくとは何だ、珍しくとは」
「あら、昨日一昨日とボウズで帰って来たのは、どこのどなただったかしら?」
「まあまあ、お二人とも……」
父が割って入った後も続く、祖父母の威勢のいい丁丁発止に肩をすくめながら、くるみはすっかりぬるくなったつみれ汁に箸をつけた。
自室の外のベランダに出ると、エアコンの効いた室内との不快指数の落差にがっかりする。
しかしそれでもなんとなく海風を浴びたい気持ちがしたくるみは、サンダルを足につっかけて手すりまで歩いた。
風が運んでくる波音に耳を澄ませ、もうすぐ満月になる大きさの月が静かに照らす青田の合間にきらめく家々の明かりを眺めながら、彼女はぼんやりと、この明かりのどこかに興津がいて、彼の生活を営んでいるのだと考えて、そこはかとない幸せに微笑む。
(今ごろ先生、何してるんだろ。ベースの練習かなあ……それともお酒飲んだり、ご飯食べたり、お風呂入ったり……)
自分で思いついた単語に彼のあられもない姿が浮かんできそうになり、くるみは真っ赤になった頬を押さえる。
(……来週、海に行ったとき、見れるかもしれないんだ、……)
普段、彼に抱き着いたときに感じる胸板の厚さと、運動が苦手だと言いつつトレーニングを欠かさないでいることがわかる、がっしりとした腕と無駄な肉の感じられない腰回りの感触が蘇り、気温と湿気のせいだけではない汗が肌に滲む。
(あの長い脚の、もっと上のほうも見れるかもしれない……)
自分が口づけた脛よりも身体の方に近い部分まで思い描きそうになり、くるみは慌ててそれを止める。
(やだ、わたし何考えてるの!!? ばか! えっち!)
不埒な空想を追い払おうと首を横に振ってみるが、肌にぺたりと張り付く後れ毛のように、それは纏わりついて消えない。
(……もっと、見たいな。先生の、いろんなところ。……触って、キスして、……)
自分も彼の手で触れてほしい、口づけられたいと願う気持ちを抑えきれなくなって来つつあることに、宵闇の中で向き合わざるを得なくなり、くるみは熱く深いため息を吐いた。
(絶対だめ。わかってる。……わかってるから、余計にどきどきするのかな……)
このごろは部室で手が触れ合ったり、部活の後に抱きしめられたりするたびに、彼をこのまま誘惑してしまえれば、という考えがちらつく。
もちろん、そんなことをしたらこの恋が終わってしまうのは自明の理だ。
単に引き離され、二度と会えなくなるだけでは済まない未来を思うと、くるみはやっとそこで足踏みができる。
一年近く何もないことに安堵しつつも、ひどく物足りない気持ちはマグマのようにふつふつと、いつも身体の奥底で煮えたぎっている。
普通の恋人同士であればとっくに重なっているであろう身体は、足りないピースを埋め合わせたい欲に満ち、間違いなく彼のことを半身のように求めて、雑誌やネットで見てしまった中途半端な知識の断片でしかわからない未知の感覚を伴いながら、夜毎日毎に疼いていた。
(あと一年半。卒業まで……それまでは、約束通り、キスはだめ……)
既にその約束を幾度も破っている自分に不安を感じて、くるみはぎゅっと目を閉じる。
(そうよ、絶対だめ。きっと唇にキスなんてしたら、二人とも止められなくなって、最後まで行っちゃう。……先生もいっぱい我慢してる……もしかしたら、わたしよりもずっと……)
この頃彼が時折、何かを堪えるような切ない眼差しで自分を見ることを思い出して、くるみは夜風よりも熱い吐息を唇から吐き出す。
(先生が好き。……だから、絶対我慢しないと。今だってじゅうぶん、わたしたちは世の中から見たら、やっちゃいけないことしてるんだから)
夏の解放感と熱に浮かされてうっかり間違いを起こさないように、くるみは気合を入れて頬をぺちぺちと叩くと、まぶたを開いて前を見据えた。
「……何してんの、お前」
「うえっ!!?」
不意に隣から声が聴こえて、くるみは飛び上がらんほどの勢いでそちらを見る。
「……なんだ、びっくりさせないでよ……」
そこにはシャワーを済ませ、濡れた髪のままの慎が立っていた。
「ちょっと考え事してただけ。お兄ちゃんこそ何してんの?」
今しがたの恥ずかしい思惑が夜風の中に吹かれて消えたことにほっとしながら、くるみは兄の近くに歩み寄る。
「ああ、試さないといけないものがあって」
そう言って彼がジャージのポケットから取り出した細長いものに、妹は首をかしげた。
「なにそれ」
「シーシャ。水タバコの携帯版、らしい」
「え、お兄ちゃん、タバコ吸い始めたの?」
「まさか。ちょっと吸ってみるだけだよ。サークルの先輩からお前も吸えって押し付けられたからさ、一応、感想言うために、使わないわけにもいかなくて」
そう言って慎は吸入口に口を付け、すぐに煙を吐き出しながらむせる。
「……うわ、これ俺はだめだ、甘ったるくて変な感じ。肺に入れられないわ」
あたりに甘いチョコレートの匂いが刹那広がるが、湿っぽい風がそれをさらってかき消す。
「あはは、お兄ちゃんは大人になろうとしても無理っぽいね」
「うっさい。……あとでアルコールで拭いて、明日先輩に返すか。吸い込むのを身体が拒否してる感じがする。喘息ぶり返しそうだ」
慎は首をすくめながらポケットにシーシャをしまう。
「……そう言えば、興津先生も大学時代、試しに吸ったけど、すごく気持ち悪くなって一本だけでやめたって言ってたなあ、タバコ」
「ふーん……初耳」
「そりゃ、女子高生にタバコの話なんかしないだろ、興津先生の性格からして」
「それもそっか」
その言葉に納得してくるみが笑うと、慎も小さく笑って、手すりの外側に広がる夜の海辺の町に目を遣り、ぽつぽつと会話を続けた。
「……お兄ちゃん、新しいベース買ったんだね」
「まあね。……やっぱ、音楽続けたいなって思ったからさ」
夏休みに入る前、祐華からその報告を受けていたくるみが話を振ると、慎は遠くを見たままうなずく。
「ていうか、祐華ちゃんに新しいの買ってあげればよかったのに」
「断られちゃったんだよ、あれがいいからって。だいぶ遅くなっちゃったけど、誕プレにジャズベのいいやつ買ってあげようとしたら、『どうせ将来二人で使うから、今は先輩に持っててほしい』って言われてさ」
「うわ、のろけ話ですか」
「いいだろ、お前の友達なんだし。彼女がいるっていうの、サークルバレするのも嫌だからここで吐かせろ」
「相変わらずだね」
幼い頃からの積み重ねで、心を開く相手の範囲がごく狭い兄に、自分もそうであることを自覚しながらくるみは言葉を返した。
そうして兄妹は暫くの間、月に浮かぶ眼下の蒼い夜を黙って眺める。
「……お兄ちゃん、農協に就職するの?」
ふと、祐華と夏休み前に交わした会話の内容が思い出され、くるみは兄に尋ねた。
「一応な。一旦は就職するつもりだけど、勤め続けるかどうかはわからんよ。……紘輝が東京でどうなるかなんだよな、あそこの家。戻って来たなら何も考えずにそのまま働くつもりだけど、戻ってこなかったときは経営だけでも手伝ってくれって、この間祐華に頼まれたから、少しそれも頭に入れてある」
まだ半乾きの長めの髪を風に当てるように手すりに背中を預け、ポケットからシーシャを取り出して弄びながら、慎は白い明かりが灯る自分の部屋の窓ガラスを見る。
「でも、あいつの腕前だったら、プロになれる気はするんだ。俺の代、めちゃめちゃ荒れてたからさ、先輩が年功序列で抑えつけようとしても、あいつは真っ正面から実力でタイマン張って、演奏で黙らせてたっけ。……本当に、あいつはギターが好きなんだよ。寝ても覚めてもそればっかりで、成績が落ちようが腱鞘炎になろうが気にしてなかった。あの熱量で物事をすることは、俺には出来ない。ギターのことになると、紘輝は努力を努力だって思わないんだよな。ただただ楽しいからやってるってだけなんだ、天才の条件を満たしてる」
「……そっか、確かにね。先輩、演奏してる時、すごく活き活きしてたもんね」
ステージ狭しと飛び跳ねるようにギターを奏でていた紘輝の姿を思い出して、懐かしさに慎もくるみも顔をほころばせる。
「てかさ、お前知ってるか? あいつ、トレーニング方法がちょっとおかしいんだよ。毎日聴いたことない曲を必ず二、三曲聴いて、その中に出てきた印象的なリフやソロを耳コピして、完璧に弾けるようになるまで練習してるって言ってた。コード進行とかパターンとか、理屈じゃなくて感覚で身体に叩き込んでるんだ。とにかく、相対音感がすごいんだよ。だから譜読みがそこそこでも、ちょっと聴いただけでざっくり弾けるんだ。怖いだろ」
「わー……絶対音感ないのに耳コピ完璧にできちゃうのは、そんなことしてたからなんだ」
改めて聞かされた紘輝の陰ながらの努力に、感嘆と畏敬の声を上げるくるみの反応を楽しんでから、兄は続ける。
「正直、専門なんて金さえ払えば誰でも入れるし、そんなとこ行ったってプロになれることなんてほぼないと思う。夢を諦めるやつが大半で、たとえ卒業しても、いつまでも誰かに養ってもらう中途半端なバンドマンか、せいぜい街のギター教室の講師になるくらいだ。それだって、音大出の人がいたらみんなそっちに行くから、生業なんかにしてたら首が回らなくなると思うよ。でも、たぶんあいつは違う。何かとっかかりさえあれば、必ず世の中に出ていける。めちゃくちゃうまい人はみんな、遊んだり休んだりしないで、持てる時間の全てを練習につぎ込んでるんだ。紘輝はそれが息をするのと同じくらい当たり前にできるんだよ。……興津先生も同じだな、休みの日は冗談でもなんでもなく、朝から晩まで弾いてたって言うから。俺みたいにゲームやりたいからって、サボったりしないと思う」
さんざん手の中のシーシャを眺め回した後、結局何をすることもなくポケットに元通りしまうと、慎は少し自嘲のニュアンスのあるため息をついた。
「あはは、先生の場合は他にすることないからだって、前に言ってたよ。日曜日も先生たちのバンドの練習してるみたいだし、出かけるのも好きじゃないって」
幼い頃に負った消えない傷の痛みを思い出さないよう、車に乗ることは最小限にしたいという彼の気持ちを知っているだけに、くるみの言葉は幾分か同情と労りの響きを持って、ベランダにこぼれた。
「そうか、やっぱ引きこもり系なんだな。高校入る前のお前と一緒だ」
「うるさいな、お兄ちゃんだって人のこと言えないでしょ」
兄に茶々を入れられ、くるみはわざとらしく腕を組む。
それに小さく吹き出した後、慎はふむ、と息をついて首をひねった。
「先生、ベース弾く以外に、もっと色んな事すればええらに。スポーツがダメでも、アニメ見るとか、映画観に行くとかさ。生徒から話題振られて、困ったりしないのかしん」
興津の過去を知らない兄の言葉に、
「……うん、そうだね」
くるみは自分が深く傷ついたような気がして、そう答えることが精一杯だった。
ベースの練習の息抜きに、興津は近所の海浜公園のマラソンコースを歩いていた。
「……悪いな、僕は何も持ってないよ」
街灯に照らされた岩場の影から地域猫がちらほらと顔を出し、餌がもらえると思って彼の後を付いてくる。
近所の老人や保護団体の置いていくペットフードや釣り人からのおこぼれで、人間は餌をくれるものだと信じ込んでいる猫たちは彼の言葉を無視して足元にまとわりつき、そのうち一匹などは媚びに媚びて、ごろりと寝転んで腹を見せる。
その場で撫でたい気持ちをぐっとこらえて、興津はベンチのある小さな広場までやってくると、海側に置かれた石造りのそれに腰を下ろした。
(二十四年か)
父にねだって、当時流行っていたアニメの映画を家族そろって観た帰りに『独りぼっち』になってしまったあの日から、随分長い時間が流れたものだ、と、彼は暗い海を見つめながらその年月を思う。
(……気が付いたら、ひとりでベッドに寝てて、身体中痛くて、右脚が何かに引っ掛けられてて……病院の白い天井が眩しくて、じいちゃんとばあちゃんが、隣で泣いてて……)
その日の記憶を、目の前の海に映し出すように胸の奥から呼び起こす。
(看護師さんも泣いてた。周りで伯父さんや伯母さんの声がして、すごく疲れて、すぐ眠った……みんながいなくなったのを聞いたのは、その次に目が覚めた後、伯父さんたちと伯母さんからだった。すぐに僕を誰が引き取るかでケンカが始まって、看護師さんに連れてかれてた。慌ててお医者さんが飛んできて、僕は注射されて、また眠って……僕は、父さんたちの葬式にも出られなかった。家に帰ったら、小さくなった三人の身体と写真が置いてあって、そこで初めて本当なんだってわかって、泣いた。心が空っぽになって、声が出なくなるまで……)
浅い眠りの中の夢で見たり、何かの拍子で思い出すたびに、どうして一緒に死ななかったのかと自分を責めたその出来事を、ゆっくり手に取って眺めるように向き合う。
(伯父さんも伯母さんも、毎日、裁判と賠償金の話ばかりで、いとこっちは僕が喋れないからって、筆談用のメモを川に捨てたり、脚を蹴ったり、松葉杖取って、転ばされて、リハビリも邪魔して……それがばあちゃんに知れて、じいちゃんと一緒になって、伯父さんっちにものすごい雷落として……そっからじいちゃんとこ来て、やっと落ち着いたっけな)
海の南から吹き付ける風と波の音が、砂と一緒に足元と体をなぞっていく。
その中に手を伸ばして、風船のひもを離すような気持ちで白い月の光る空を見る。
(僕も、そろそろ手放さなければいけない。いや、手放せるはずだ。出来るはずなのに、怖くて、ずっとしがみついてた。……でも、いつまでも同じところで足踏みしていたら、くるみと一緒に、この先の人生を歩いて行けない。僕だけ過去に置いてけぼりにされる……)
事故で傷めた右脚が、不意に疼いた気がして、腿を撫でる。
母を亡くしたくるみが、友人を失った紗雪がそうであったように、興津は自身が心と身体いっぱいに抱えている、八歳の夏に背負った重すぎる絶望から抜け出したいと藻掻き始めていた。
(相続放棄はした。もう、母さんの親戚に会うことはないだろう。あと十年もしないうちに、三十三回忌が来る。きっとそんなのあっという間だ。じいちゃんの三回忌も済んだ。ばあちゃんも、もういなくなって何年経つだろう。……僕は、今まで死んだ人のために生きてきた。生き残ってしまった僕のすることは、みんなを弔って生きることだけだと思ってた。でも、それだけじゃない。僕は僕の人生を生きるために、ここにいるんだ)
膝に乗ってきた尻尾の長いキジトラの猫を撫でながら、滑らかな光を乗せて打ち寄せる波を見つめる。
(親戚全員と縁が切れて、僕はほんとうにひとりになった。そう思ったら、すごく身軽になった。今は、くるみが僕の手を取って、抱きしめて、キスをしてくれるたびに、幸せで心がいっぱいになって、生きていて良かったって思えるんだ。くるみはこんな不幸の塊みたいな僕を、全部好きだって言ってくれた。「愛してる」って笑ってくれた。……僕は、これから先の人生をくるみと一緒に歩いて行きたい。そのためには、いつまでも立ち止まってちゃだめなんだ)
バスに乗ることも辛かった自分に、『おまじない』をかけてくれた優しい笑顔。
初詣で「少しでも運転が楽になるように」と、交通安全のお守りを渡してくれた温かい手。
何の取り柄もない自分に迷いなくまっすぐに向けられる、深い愛をはらんだ眼差し。
そのひとつひとつが、興津の胸の中に降り積もり、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた剥き出しのぬかるみのようだった心を、柔らかな花びらの雨のように覆い隠していく。
時折その古い痛みが疼くことはあるが、くるみが全身全霊で注いでくれる想いはまるで包帯のようにそれを包み込み、二度と解けない固結びで留めてくれているような感覚がする。
そのおかげで、彼はここ一年の間、事故で生き残ってしまった自分を責めることはほとんどなかった。
(何をすればいいだろう、僕が変わるために。もっと、人間らしく生きて、くるみと喜びを分かち合って生きていくために……)
いつの間にか五匹ほど寄って来ていた猫たちの相手をしながら、興津はこの夏の間に少しだけ生まれ変わってしまう決心を固め、生温い海風を大きく吸い込んだ。




