第98話
「へええ、紘輝先輩、バンド組んだんだ!」
いつもの階段で四人そろっての昼食の時間、昨夜作ったハンバーグと紫たまねぎのマリネを、マヨネーズを塗った全粒粉パンとサラダ菜でぎゅうぎゅうに挟んだサンドイッチのラップを開けながら、くるみが驚きの声を上げる。
「そうなの。同じ学校の人と、セミプロで活動してるピアノの人がメンバーって言ってたかしら。今度その人の伝手で、初めてライブハウスで演奏するんですって」
珍しくカレーを弁当箱に詰めてきた祐華がそう言ってはしゃぐ。
「すごいですね、ぜひ拝見したいですけど……高校生は条例があるから難しいでしょうか」
アップルデニッシュと野菜ジュースという、ついこの間までの誰かの食生活のような取り合わせを膝に乗せたミチルが、残念そうに笑う。
「そもそも東京に行くのが無理ゲーだよね、ここからだと。お金かかるし、子供だけで泊まれる場所もないし……」
回鍋肉を豪快にご飯の上に乗せただけの弁当箱の蓋を開いて、麗が軽くため息を吐いた。
梅雨もそろそろ明けようかという頃の、潤いが過剰な空気が立ち込める港町は、海の匂いと鰹節の匂いが混ざった風が緩く吹き抜けている。
上京した紘輝が懐かしんでいるその風は、窓の隙間から校舎に吹き込んで、雨に煙る窓の外の生温さを教えてくれる。
四月からずっとトラブルが続いていた軽音楽部はここまで来てようやく平穏を取り戻し、今は文化祭で演奏する曲の練習と、その後に行われる軽音楽部の全国大会『グリッター・フェーズ』の地区予選に向けて、いくつかの候補から曲目を選定している最中だった。
麗たち吹奏楽部も夏のコンクールに向けての練習に集中し始め、合唱部の活動場所である講堂の前を放課後に通れば、いつも『流浪の民』のメロディを歌う声が聴こえてくる。
テストと部活に明け暮れる合間、一回戦で完封負けしたクラス対抗のバレーボール大会や、ミチルと太陽とソフィア以外の部員全員が下から順位を数えたほうが早いという、散々な結果の全校競歩大会を挟みつつ、緩やかに、穏やかに、七月の時間は流れている。
運動に関連する行事は悲惨だったものの、前期の試験の成績は上々だったおかげで気兼ねなく夏休みを迎えられそうな雰囲気に安心して、くるみたちは今年の楽しい予定を着々と立てていた。
「行ってみたいね、ライブハウス。本格的なのって見たことないから興味あるなあ」
「あまり夜遅くならない時間の出演だったらいいなって思うけど、それでもきっと、時間押しちゃうわよね……」
くるみと祐華が思案に暮れる隣で、
「泊まる場所ならご提供できるんですが、場所がどこかにもよりますしね……」
ミチルも首をひねってため息を吐く。
「もしも行くってなったら、麗ちゃんも来る?」
「自腹でしょ? どうかなあ……バイト代はまだそこそこ残ってるけど、チケットやドリンクも買わないとだし、コンクールもどうなるかわかんないから保留しとく。もしも東海大会とか全国とか行くようなことがあったら、それこそ夏休み全潰れだから」
「ああ……そうだね、そっちの方が大事だね」
隆玄にくっついて来るだろうというイメージだけで話をしたくるみの誘いを、ごめんね、と言って麗は断る。
「行けるといいね、全国。応援してる」
「行ってみせるよ。去年はいろいろあって県大会で止まっちゃったから、なんとしてもね」
「……そっか、去年の今頃ね、あの『事件』」
「あの時の藤枝先輩、とても情熱的でしたね。あとで先生にお話を伺ったら、全校から拍手が起こったって仰ってましたもの」
四人は顔を見合わせ、『放送室ジャック事件』を思い出して笑いだす。
「あれからもう一年経っちゃったんだね、早いなあ……」
去年の今ごろはまだ、興津とは教師と生徒という間柄でしかなかったことを思い出し、くるみはふと感慨に浸る。
「高校生活の半分まで来ましたね」
ミチルも若干の切なさを持った声色で、くるみに同意する。
「みんな、もう進路って決めた?」
祐華が問うと、またそれぞれが、どう? という表情で顔を見合わせた。
ややあって、ミチルが野菜ジュースを一口飲んでから口を開く。
「わたしは、東京の音大を受けようと思ってます。卒業したらこの街に戻ってきて、音楽教室を開きたいです」
「そっか、太陽先輩も知ってるんだ?」
くるみの質問に、ミチルは嬉しそうに笑って答える。
「ええ、先輩も大学をご卒業されたら、こちらに戻られてゆくゆくはご実家を継がれるということですから、わたしもそのお手伝いをしながら、何かできればと思いまして……」
「いいわね、ピアノの先生。ミチルちゃんに合ってると思うわ」
祐華の言葉に、彼女は幸せそうに頬を染め、質問を返す。
「祐華さんは、何か具体的にお決めになりましたか?」
「わたしは……そうね、県立大に行って、管理栄養士の資格取ろうかなって思って」
「栄養士? なんで?」
またもや疑問をぶつけるくるみに、祐華はころころと笑いながら話しだす。
「お兄ちゃんや隆玄先輩たち見てたら、食育って大事なんだなあ、って思ったからよ。ああいう野菜が嫌いな人にどうやったらおいしく食べさせられるか、って考えたら面白そうで、やりがいあるかもって。だから、くるみちゃんが作ってきてくれたケーキみたいな、野菜を使ったお菓子のレシピとか考える人になれたら楽しそうって思ってね、それならそういう資格の勉強したほうがいいかなって。それに、お兄ちゃんが帰って来なかったら、うちの商品開発は将来的にわたしがしなきゃいけないもんで、そっちの役にも立つかもしれないし……」
「そっか、お家のこともあるのか……わかった。お兄ちゃんにしっかり経済学の勉強するように言っとくから、経営は任せて安心して開発に専念して」
「えっ!? あ、そ、それはいいのよ、先輩は農協入りたいっていう目標があるんだし、別にうちを継いでもらうとかは……」
「いいからいいから、祐華ちゃんに頼まれたらお兄ちゃん、嫌とは言わないよ。保証する」
「そんな……も、もう、やめてよ、くるみちゃん……」
恋人の妹にからかわれ、祐華はすっかり赤くなって縮こまる。そして、
「あ、あの、麗ちゃんは? やっぱり医学部?」
その話題から逃げ出すように、涼しい顔で弁当をつついていた麗に話を振った。
「うん、そうね。東京にある医科大受けようと思ってる。隆玄先輩は東大の理Ⅲ受けるって言ってたけど、さすがにわたしはそこまで頑張れないから……今は、返済するのがあんまり大変じゃなさそうな奨学金、探してるとこ」
麗は少しだけ照れくさそうに微笑んで見せる。
「そうなのね。研修医が終わったら、こっちに戻ってくるの?」
「そうだな……先輩がそうしてくれって言ってくれたら、そうするかも。外科は絶対嫌だって駄々こねてたから、わたしが外科医になれば、伊東医院の診療科問題は解決しそうだし」
「おお……カッコいい、麗ちゃん……」
「言い切られましたね……」
祐華の質問にさも当然、と言った風に答えた麗に、くるみとミチルが感服して拍手を贈る。
「やだ、この先どうなるかわかんないし、あくまで想像の話だよ。……それに、医学部って話聞く限りじゃ、ものすごくハードだから、先輩、わたしのこと忘れちゃうかも……」
そう言うと麗は少しだけ寂しげに表情を曇らせる。しかし、
「一緒に暮らしたらいいんじゃないの? 帰るとこが一緒なら毎日話も出来るよ?」
次の瞬間、平然とくるみが吐いた言葉に、彼女は思わずむせた。
「な、え、……や、やだもう、急に変なこと言わないでよ!!」
「変じゃないよ、うち、お父さんとお母さんがそうだったって言ってたから」
「あ、ああ、そうなんだ……」
くるみの両親の職業を思い出して、麗は真っ赤になりながら苦笑いを浮かべる。
「うふふ、楽しいですよ、同じ屋根の下で一緒に暮らすの」
「ミチルちゃんまでやめてよ、もう……!」
とどめのひと言ですっかり弱ってしまい、明後日の方を向いてしまった麗の可愛らしさに、三人はくすくすと笑った。
その空気がひとしきり収まると、
「……くるみさんは?」
ミチルが質問の矛先をくるみに向ける。
「え、わたし?」
「なにか決まってるの? なりたいものとか、行きたい学校とか」
「……」
反転攻勢とばかりの麗に、くるみはすっかり戸惑って二の句が継げない。
「まだ決まってない感じ?」
祐華の助け舟に彼女は慌ててうなずく。
「でも、とにかく芸能界に進まれるおつもりは、ないんでしたよね」
「うん、それはそう」
ミチルの言葉に即答しつつ、くるみは自分が将来のことを、友人たちのような具体的な図を持って何も描けていないことに愕然とする。
(先生のお嫁さんになりたいのは絶対なんだけど、それ以外のことが何もない……)
せめて何か一つくらいは資格を取っておいた方がいいとは思いつつ、第一志望の大学で何ができるかも結局はよくわかっていないまま夏休みが始まろうとしていることに、くるみは今頃になって情けなさを感じていた。
(この辺の中小の事務とか……ううん、絶対にわたしじゃ無理。お局様と喧嘩してすぐ辞めそう……)
興津や狩野に注意されてから気を付けてはいるのだが、どうしてもとっさの時の物言いのストレートさは直らない。
(接客もお客さんにクレーム言われたらブチギレて即クビになりそうだし、かといって工場で働いたらそれはそれできつそう……農家も体力的に絶対無理だし、看護師はお母さんのこと思い出して病んじゃいそうだし、……あああ、せめてお父さんくらいの文才があればなあ……だーって書いて、がーって休んで、編集さんと飲みに行ってそれ以外は毎日家にいて時々釣りに行って……うああ、あの暮らしができる才能が羨ましい……!)
くるみはすっかり頭を抱えてしまった。
目の前でうんうんと唸り始めたくるみを見て、
「まあまあ、まだ時間はあるわよ、くるみちゃん。三年の秋にいきなり進路変えたお兄ちゃんに比べたら余裕はあるし、全然間に合うわ」
「そうですよ、ゆっくり考えて決められればいいんですから」
「焦って適当なことすると後で後悔するから、無理することないよ」
三人はそれぞれの言葉で彼女をなだめる。
友人たちの言葉に力なくうなずきながら、くるみは手の中のハンバーグサンドをかじる。
(……困ったなあ、もうすぐ三者面談なのに)
志望校も興津にこの間『目的がないなら見なおせ』と言われたことも手伝って、くるみはますます暗中模索に陥る。
(離れたくない……)
何よりもまず、興津の側にいられることが第一条件だと心に決めてはいるが、その範囲で選べる学校で何をすればいいのか、さっぱり思い浮かばない。
(絶対にこの辺から離れない範囲で通える大学か専門学校……わたしの頭じゃお兄ちゃんと同じ国立なんて無理だし、なりたいものがわからないまま適当な専門学校に行っても意味ないし……ていうか、わたし……ひょっとしなくても、何も取り柄がないよね……)
自分と周りの人間との落差が激しすぎて、不意に悲しくなる。
(わたし、隆玄先輩や麗ちゃんみたいに頭がいいわけじゃないし、太陽先輩やミチルちゃんみたいにずっと習い事を続けてきたわけじゃない。祐華ちゃんやお兄ちゃんやるなぴパイセンみたいになりたいものがあるわけでもないし、紘輝先輩みたいに人生をかけてやってみたいと思うこともない……ちょっと歌うのが好きなだけで、他に特技なんてない、からっぽの人間なんだ……先生と結婚したとしても、その先も人生は続いてく。いつまでもおんぶにだっこじゃダメ。せめて先生と、肩を並べて歩ける何かが欲しい……)
胸苦しさにため息を吐いて踊り場の窓を見上げると、心の中と同じ、どんよりと曇った空から梅雨の残りの重たい雨がまた降り始めている。
そのまま無限ループに陥ってしまいそうな、こんがらがった考えをいったん放棄して、
(……やめやめ。ご飯食べよ)
くるみは先ほどより大きな口を開けて、サンドイッチにかぶりついた。




