第97話
(……うん?)
中央線の中で、スマートフォンからふと目を離した藤枝紘輝は、ひとりの乗客に目を留める。
東京に来て四か月もたてば、身体と心はこちらの濁った空気と混沌とした人の生き様に慣れ、多少妙な動きをしている人がいても気に留めず、自分の行きたい方角に行ける程度に、紘輝は鈍感で無関心になってきた。
しかし、今日だけはどうしても、その乗客から目が離せない。
(……変な動きしてるぞ、あのリーマン)
自分と大差ない背丈の、腹周りにだいぶ横幅のあるその男は、午後になって隙間がある程度できている車内にもかかわらず、紘輝の乗っている降り口側と反対に立つ女性にやたら密着しているように見えた。
(……なんだあれ、あんな近くに立つ必要ないだろ。……)
嫌な予感がして、紘輝はギグバッグをきちんと背負い直すと通路まで歩き、不審な男と二歩ほどの距離をとって後ろから覗き込む。
ややあって、カバンを足元に挟んで立っているその男は、手すりを掴んでいるのとは反対側の手を女性の身体の前に回し、彼女の胸元を抱き込んだ。
その瞬間、
「ひっ……」
女性が明らかに恐怖と羞恥の悲鳴を上げたのを、紘輝の耳は捉えた。
彼女が抵抗しないと踏んだのだろう、男は手すりから手を離して、ゆったりしたラインの服の上からでもよくわかる豊かな胸を両手で後ろからわしづかみにし、下半身をぐっと押し付ける。
(これって、……まさか、痴漢か!?)
つり革を掴む紘輝の手には蔑みと怒りで力が入り、握りしめた指の関節が真っ白になった。
周りの乗客は皆、スマートフォンやマンガ本に夢中で気が付いていない。
二人の側の手すりの脇に座る男性も、悲鳴に一度は目を開けるものの、面倒くさそうに狸寝入りを決め込んでしまう。
別の車両から歩いてきた中年女性が嫌悪の表情を向けるも、さっさと歩き去ってしまう。
恐怖に縛られた身体をわずかに震わせ、破廉恥な両手から逃れようともがいた彼女の長い黒髪が、はらりと細い肩にこぼれる。
(くるみちゃん)
その長い髪の後ろ姿が、胸の中でほんのりと燻り続けている恋の相手と重なった気がした。
(いや、違う。でも助けなきゃ!)
紘輝はそれ以上何も考えずに男の後ろに立つと、ぐっと背中から腕を回し、今まさに揉みしだかれようとしていた彼女の胸から、がば、と汚い両手を掴んで離した。
自分が後ろから覆いかぶさられると思っていなかったのか、男はびくりと身体を跳ねさせる。
「おっさん、あんた痴漢だろ」
ストレートに言い放ち、紘輝は男の片腕を全力でねじり上げる。
「いててててて! ちっ、違う……」
「違わねーっての。明らかに嫌がってんじゃん、しょんない言い訳しやがって」
情けない声を上げる無様な男ににべもなく言い放つと、紘輝はこちらを向いた女性に目を遣る。
「大丈夫ですか?」
「あ、……はい……」
目の端に涙を滲ませた彼女は紘輝の存在に安心したのか、痴漢から距離をとりつつ、不快感と恐怖に凍っていた表情を少しだけ和らげる。
「は、離してくれ、つい出来心で……見逃してくれ、これから商談が……」
「うるせーバーカ、もう次の駅着くから警察に突き出してやる。ぜってー暴れんなよ」
紘輝は自分が少しでも舐められないように、目いっぱいに低い声で凄んで見せる。
オールバックにギグバッグを背負い、格好つけてかけてみた安物の黒いレンズのサングラス、少し背伸びして下北沢の古着屋で買った派手な模様の青いTシャツに、黒いダメージデニムとエンジニアブーツを履いて、ピック型のシルバーヘッドがついた黒い革紐のチョーカーを身に着けた、いかにもといったいでたちの紘輝に見た目だけで威嚇されているのか、腕をとられたまま痴漢は抵抗しようとしない。
(いやー、バンドマンっぽい格好しててよかった……)
普段近所をうろつくときの高校時代のジャージだったら、ここまでうまくいかなかっただろう。
学校帰りだったタイミングに感謝しながら、紘輝は女性に目配せをする。
彼女は触られた胸元からその感触を祓うようにはたきつつ、彼を見て少しだけ頬を緩めた。
程なく駅のホームがドアの外に見え、並んでいる人たちの前でぴたりと電車は止まる。
そのドアが開く前に、紘輝は手すり越しに彼を驚いた顔で見上げている、狸寝入りをしていた男をサングラス越しに、ぎっ、と睨みつけると、
「わかってて無視してんじゃねーよ、クソ野郎。お前もこのおっさんと一緒だからな」
先ほど車両を移動してきた女性にも聞こえるように、わざと大き目の声でそう言い捨てる。
【新宿。新宿です。……】
アナウンスと共に開いたドアから痴漢を引きずり出しつつホームに降りた紘輝は、女性も一緒に降りたのを確認してから、駅員の姿を探した。
「本当にありがとうございました」
警官に男を引き渡し、警察署で長々と調書を取られた後に、いったん自宅へ戻ることになった女性は、迎えに来た彼女の兄だという男性と共に紘輝に深々と頭を下げる。
「いえいえ、義を見てせざるは勇無きなり、ですよ」
にこりと笑った彼の笑みに、すっかり夜中になってしまった闇の中で、彼女も微笑みを返してくれたのが見える。
「その『人助けを素直にできる』ということが、ここにいるとどうしても特別なことになってしまっていけませんね。私も自戒しようと思います」
洒落たスーツをかっちりと着こなし、高価そうなフレームの眼鏡をかけた兄の方がそう言って、凛々しく色気のある端正な顔に、素直な自省の色を滲ませる。
妹はその言葉にうなずいてから、不意に紘輝の方に一歩近づいた。
「それで、あの、……後日、ぜひお礼をさせていただきたいので、ご連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
「不躾かとは思いますが、あなたのご出身、静岡じゃないですか? 電車の中で『しょんない』って仰ったでしょう?」
「あ、ああ……そうですけど、いや、あれは思わず……」
なんとなく訛りが恥ずかしくて封じていた郷里の言葉が思わず飛び出す程度には、自分も動揺していたのか、と紘輝は改めて焦るが、彼女はひどく嬉しそうな顔で彼を見ている。
「あの、実はわたしも静岡育ちで……すごく懐かしかったんで、よく覚えてます。あの一言で、とても安心して……ですので、同郷のよしみということで、今度ゆっくりお話させてください」
笑顔でスマートフォンを差し出す彼女を、紘輝は今日初めて、落ち着いて見る。
綺麗な形に整えられた濃いめの眉に、きりりとした大きなつり目と通った鼻筋の下、白い肌との境目があいまいな、ぽってりと赤い唇がなんともいえない色気を感じさせる。
背丈も女性にしては高く、緩いラインのシンプルなグレーのトップスに、黒いデニムとかかとのない靴という地味な格好をしているのに、それと見てわかる大きな胸とアンバランスに細い腰のラインが、本人が望む望まないに関わらず、男好きするような雰囲気を醸し出している。
(……くるみちゃんと全然似てない……いや、当然だけどさ)
単純に美人というだけではなく、くるみの持つ儚げで透明な、妖精のような雰囲気とは真逆の、どこか肉感的でそそられるような魅力が彼女には備わっていた。
(まあ、話だけなら……)
魅惑的な外見のみならず、話し方と笑顔の柔らかく優しい雰囲気もさることながら、何よりこの広い東京で、同郷の人間と出逢ったこと――その一点において、きっかけは少々複雑なものの、ここで知り合えたのも何かの縁だろうし、断る理由もないな、と考え、紘輝はスマートフォンをポケットから出した。
「わかりました。それじゃあ、気が向いたときにいつでも連絡してください。俺、平日昼間は学校だもんで、すぐにお返事は出来ないかもですけど」
「……あなたも学生さん?」
紘輝のスマートフォンから自分のそれにQRコードを読み取らせながら、彼女はどことなく嬉しそうな素振りを見せる。
自分と年の頃が同じだということがわかって、少しだけ親近感がわいたようだった。
「専門ですけどね。……そちらは大学?」
「はい。学校帰りだったんです。いつもは地下鉄使うのに、たまたま水道橋周りで買い物して帰ろうと思ったら、こんなことになっちゃって……」
「うわ……それはお気の毒です」
心底同情した紘輝に、彼女は気丈に笑って首を横に振る。
「痴漢に遭うのは初めてじゃないんですけど、助けてくれたのはあなたが初めてです。だから、本当に安心したし、嬉しかったです……」
そう言いながら彼女が画面をタップすると、ぽこん、と彼のスマートフォンから音がして、フレンド登録の通知が送られてくる。
(……『舞阪いずみ』さんか)
ニックネームではなく本名そのままなところに、紘輝は自分と似たようなものを感じる。
個別チャットルームを開くと、可愛らしいお菓子のキャラクターの『ありがとうございます』というスタンプがさっそく送られてきた。
「えっと、『ふじえだひろき』さん、ってお読みすればいいですか?」
「はい、合ってます」
「よかった、間違えなくて」
紘輝といずみは顔を見合わせて、ふふっ、と笑い合う。
「それじゃ、またその時はよろしくお願いします」
いずみはスマートフォンをトートバッグに滑り込ませると、兄と一緒にもう一度お辞儀をしてコインパーキングのほうに歩き始める。
「いえ、こちらこそ。お二人とも、お気を付けて帰ってくださいね」
紘輝は遠ざかっていく背中に軽く手を振ると、
「だめだ、腹減った……調書とるときって、ドラマみたいにカツ丼とか出ないんだなあ……」
そう独り言ちてため息をつき、コンビニの明かりを探した。
その日の真夜中。
なんとか終電に間に合った紘輝は、人も車も数寂しい中野通りを歩いて帰宅し、シャワーを浴びた後にベッドに腰掛け、課題曲の『That'll Be The Day』の練習をしていた。
ベッドサイドのデジタル時計の表示は、もうそろそろ三時になる。
(……あ、やべ、いい加減寝ないと)
ふと見たその数字に、紘輝は慌ててヘッドフォンを外してアンプのボリュームを下げる。
普段は日付が変わる直前まで新宿の居酒屋でアルバイトをしているのだが、今日は警察に行くということで休みをもらった割に練習時間が取れなかった焦りのせいなのか、いつも眠りにつく時刻を二時間ほど過ぎてしまっていた。
急いで寝る前のもろもろの支度を始めながら、
(……あれ?)
紘輝は今日の自分の行動と、その結果にふと、今頃になって冷静になる。
(俺、もしかして、……デートに誘われた?)
歯ブラシを動かす手が思わず止まる。が、
(いやいやいや待て、横にお兄さんがいただろ、多分あの人もついてくる。それにそんな呑気なこと言ってるような状況じゃないって)
彼女が今日されたことと、今までの自分の女運の無さを思い返して、その可能性を切り捨てる。
(期待すんな、俺。たまたまちょっと人助けしただけだろ……でも、友達にはなれそうだな)
上京してからこのかた練習とバイトばかりの日々で、まだ誰とも個別チャットの交換をしたことがなかった紘輝にとって、いずみが東京で出来た初めての知り合いだった。
東西に長い静岡のどの辺りかまではわからないが、同じ県に住んでいたというだけで強い親しみも沸き、次に会うときはいろいろと話が弾みそうな予感に、こちらに来てからそこはかとなく毎日感じていた孤独感が和らぎ、肩の力が抜ける。
(それに、あれだけ美人なら、たぶん彼氏とかいるんだろうし……まあ、そこそこの付き合いにしとこう。その彼氏に変な勘違いされたら困るからな)
歯磨きを再開し、ユニットバスの鏡の中に映る自分の顔を見て、
(……いいか、調子乗るなよ。いつもそれでがっかりしてるんだからさ)
紘輝はなかなか脳裏にこびりついて消えないいずみの姿を、頭の片隅に追いやった。
部屋の明かりを消して、ベッドに横になった後、いつもの癖でスマートフォンのロックを解除しようとする。
「うん?」
二時間ほど前にいずみからメッセージが送られていたことに、紘輝は今になって気が付いた。
慌てて開いたアプリの画面をタップして、いずみのメッセージを読む。
【夜分遅くにすみません。今日は本当にありがとうございました。今、もう一度警察署に行って、来ていた服を提出したところです。】
「うえー、夜中の一時じゃん……そんなことまですんのか、なんか理不尽だな……」
おそらく兄の車で行き来したのだろうが、面倒ごとの多さに紘輝は思わず声を上げた。
そして、その下にあったメッセージにスマートフォンを取り落としそうになる。
【急なお話で申し訳ありません、もしよろしければ、今夜お会いできませんか?】
(……ぐいぐい来るタイプなのか、さっさとお礼を済ませて嫌なこんを忘れたいのか……いやまあ、たぶん後者だな。……木曜か。バイト休みだし、付き合っておくか)
そう結論付けて、紘輝は目覚めた後にその返事をすることに決め、部屋を白く照らす明かりを落とし、目を瞑る。
(練習ばっかりじゃなくて、ライブ……ライブがやりたい……)
暗闇と共に襲い来る疲れと眠気で、そこから先は考えられなかった。
その日の夕方、急な誘いをバイトに行くと嘘をついて断った後、紘輝は昼休みにいずみとやり取りして決めた、待ち合わせ場所のアルタ前にいた。
(アルタ前で待ち合わせとか、俺、東京にいるなあ……)
スマートフォンでパズルゲームをしながら時間を潰し、平静を装いつつ、妙な興奮で思わず頬が緩む。
(そのうちハチ公前とか、モヤイ像の前とかも使うのかな。……いや、誰とだよ)
少し馬鹿馬鹿しくなって肩をすくめ、ゲームを中断してあたりを見渡す。
(……現金だな、俺。美人と知り合いになったくらいで……)
昨日、いずみと会話してからこのかた、紘輝はくるみのことを思い出しても、これまでのようにちくちくと胸の底が刺されるような痛みに襲われることが無くなっていた。
(でも、どうせ叶いっこないことだし、早めに手放せてよかったのかもしれない)
甘く可愛らしいくるみの声を、いずみの低く落ち着いた柔らかいアルトの声が、まるでノイズキャンセラーのようにかき消してしまう気がして、ほんのりと寂しく感じつつも、
(まあ、所詮はそのくらいの気持ちだったってことかなあ)
彼は自分を納得させつつ、ビルの隙間から覗く梅雨の夕暮れの空を眺めた。
(……今頃どうしてんだろうな、くるみちゃんもだけど、隆玄も太陽も、ミチルちゃんも、興津先生も。他の先生っちも……慎先輩も元気かな、あっちにいた時はあんなに毎日話してたのに、こっち来てから全然連絡してないっけ……)
まだ故郷を離れて半年も経っていないというのに、すでに懐かしく感じられる聖漣高校の校舎や、生まれ育った街の風景や、海辺の街の澄んだ潮風を思い出し、部室で起こったあれこれまでもが釣られて頭の中に沸き起こって、紘輝は大きなため息が出てしまった。
結局連絡先を交換したものの、忙しいだろうと思って興津とやり取りをすることもなく、去年作ったグループチャットも三月の末から何も送られてくることはない。
妹の話ではそれなりに事件が起こったりなどして大変ではあったようだが、新入部員も増えてみんな楽しくやっていることはわかった。
もうあの部室に自分の居場所はないのだと思うと、急に自分がこの世界で一人ぼっちになったように思えて居たたまれなくなる。しかしすぐに、
(……いやいや、弱気になってどうする。何のために東京に来たんだよ、今日、バンドのお誘いだってあったじゃないか。……やれるとこまでやろう。もう約束の6分の1近く、練習以外何も出来てない。ここにいられる時間は短いぞ、後ろを向くな、俺)
両親との「三年経ってもプロになれなかったら実家の和菓子屋を継ぐ」という約束を思い出して、紘輝は消えてしまいそうだった心の火に薪を焚べた。
「藤枝さん」
急に左側から声がして、紘輝は思わず身をすくめてしまう。
振り向いたそこには、シンプルな白い開襟シャツにデニムのサブリナパンツと、昨日も持っていた不釣り合いな大きいトートバッグにかかとのない靴を身に着け、伊達なのか度入りなのかは分からないが、太く赤いフレームの眼鏡を掛けたいずみが立っていた。
「あ、どうも。……あれ? お一人ですか?」
隣にいるだろうと思っていた彼女の兄の姿が見当たらず、彼は戸惑う。
「はい」
当たり前だ、と言いたげに紘輝を見てから、いずみはにこりと微笑んだ。
(……デートだ……)
顔が赤くなったのを咳払いで誤魔化してから、紘輝はギグバッグをしっかりと背負い直す。
思わず知らず、シャツのボタンホールを引っ張ってぱつぱつに膨らんでいる彼女の胸元に目が行き、自らの視線の下衆さに慌てて、その上でシャツの襟もとから細く浮き出た鎖骨に目を移すと、ウッドビーズの素朴なネックレスが目に入り、その取り合わせの若干の垢ぬけなさが、かえって彼女の可愛らしさを感じさせた。
(人生初デートがこんな美人と出来るなんて、俺、ちょっとラッキーかも)
思わぬ展開に顔をほころばせた紘輝に、いずみも笑顔を返す。
「あの、焼肉とお寿司、どっちにしますか? お好きな方選んでください」
そう言って自分に寄り添った彼女の白い首筋から、埃っぽい街の空気を清めるようなバラの花の匂いが香った気がして、紘輝の心臓は優しく早鐘を打ち始めた。




